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まっくろまくろなましろくん  作者: しゃーむ
37/42

水鏡杰 Ⅶ

「水鏡先輩の様子がおかしい?」

「うん。さっき近くで上級生が話してるの聞こえてさ。えみりぃんって、水鏡先輩と話したんだろー? だからえみりぃんが見ればどうおかしくなったのかわかんのかなーって」

「えーっ、ちょっとしか話してないから多分わかんないよ」

 あ、どうも、海賀絵美です。

 昼休みに図書室に行ってきたさっちゃんからの情報が舞い込みました。舞い込んだというか、特に待ってもいなかったんですけれど。

「リア充爆発しろ」

「あんたが爆発しろ」

 最近のぺこちゃんの口癖です。少し時期遅れな口癖です。最近のぺこちゃんの趣味はラノベです。シリーズものを一から読み漁っているようです。

「どの世界にも、完璧な優等生なんていない。何か裏がある。それが出てきただけ、とあっちは思う。リア充爆発しろ」

「あんたが爆発しろ」

 いちいち付き合うさっちゃんもさっちゃんです。仲良しなのです。

「さっちゃん。水鏡先輩がどうおかしくなったの?」

「いやだから、えみりぃんが見ればわかんのかなーって。ちらっと様子がおかしいってくらいしか聞こえなかったから」

「見に、行く? リア充覗きに、行く?」

 ぺこちゃんがかっこつけて親指を立てて提案します。ちょっとかっこ悪いです。

「うん。じゃあ行こうか。ぺこちゃん」

「えっ、ええ~っ。いや、いやいや、世界が違う。リア充見たら溶けるから。あっち」

 ぺこちゃんが本気で言っていないことはわかってて言います。ぺこちゃんもわたしが断ると思って言ったのです。だけどそう簡単にぺこちゃんの思い通りにはさせません。わたしも日々成長しているのです。

「あんたはすでに腐ってるだろうが」

「否定は、しない。でもあんたも腐りかけ。これぞ腐の連鎖」

「うまいこと言ってんじゃねえ」

 うまくはないと思うよ。

「えみりぃんも、腐ってるからね」

「わ、わたしは違うよ! どっちかというと、わたしはほら……」

「あー、えみりぃんはリアルでガチだからなあ。水鏡先輩と話して涎出たろ?」

「出てないし! わたし肉食系じゃないし!」

 涎までは出てなかったもん。多分。触りたいとは思ったけど、ガツガツはしてないし。

「あー、肉っていやあ、水鏡先輩は肉っぽいけど、大空先輩は草原だよなー」

「草ワロタww」

 ふたりの頭を小突きます。大空先輩がひどい言われようです。

「いたた、なんだよえみりぃん」

「大空先輩気にしてるんだから、先輩がいそうなところでは言っちゃダメだからね」

「言わねーし。えみりぃん相手だからあの人らを比べてんだよ。で、えみりぃんは実際水鏡先輩と話してみて、どっちと寝たいと思った?」

「ね、寝たッ!?」

 そんなのもちろん大空先輩だし。とは即答できない自分がいて困ったものでした。大空先輩と一夜を過ごすというのはもちろん素敵なことですが、水鏡先輩のあの豊満な体に抱きしめられてみたいと思うのも当然です。あの優しい声で耳元で囁いてもらいたいです。うぅ、想像するとたまりません。辛抱なりません。あの人の腕の中に包まれて優しく『えみちゃん、可愛い』なんて、きゃーきゃー!! っといけませんいけません。ご想像するのは容易ですが、このままではあらぬ世界に夢更けってしまいます。さっちゃんが言っているのは単純に寝るということです。添い寝です。そのはずです。それ以上の意味なんてないはずです。ここで想像を飛躍させてはそれこそこの二人にからかわれるのがオチです。ですが、どうでしょう。大空先輩には一度添い寝をしてもらいましたけれど、それは楽しかったですけれど、水鏡先輩はあんな悪戯してくれそうもありません。ですが、『眠るまで見ていてあげますね』なんて全然眠れなくなるようなことを言われそうですね。想像ですけどごちそうさまです。大空先輩なら『まだ寝かせないからねー』なんて言って寝かせてくれそうもありません。こっちこそ寝かせるつもりなんてないぞーなんてご想像ですけどごちそうさまです。そうですね、添い寝したあとの展開まで加味したうえで答えを出すとするならばやはり――。

「うーわ、マジで考えてるよ。やっぱガチだこいつ」

「えみりぃん、マジぱねえ」

 わたしは無言でふたりの頭を小突きました。

 マジぱねえっす。やべえっす、わたし。

 ちなみに二人の本名は、さっちゃんは古屋恵美ふるやえみです。

 ぺこちゃんは一之瀬愛美いちのせえみです。

 嘘です。

 さっちゃんは紺野咲こんのさき。ぺこちゃんは苧恋次箆跨おれんじぺこです。

 冗談です。

 二人の本名は秘密です。

 またしてもなぜか登場してしまいました。これからもちょいちょい出てくるかもしれません。すみません。私も本気でレギュラー狙ってます。語り部役も、実は大空先輩より多いんですよね。なぜでしょうね。きっと報われないからでしょうね。しくしく。

 ということで行きましょう。


 

 放課後です。

 今日は大空先輩から用事があるとモデルを断られ、ひとり寂しく家路についています。モデルと言っても、もうほとんど絵は完成しているんですけれどね。なんとかこれまで完成を先延ばしにしてきましたけれど、もうそろそろ限界です。大空先輩との楽しい時間もそろそろおしまいです。大空先輩はもう編み物の手法も自分のものにしてしまったので、わたしが頼られることもありません。

 寂しいです。

 寒いです。

 もうすぐクリスマスがやってくるというのに、寂しいですね。大空先輩はどうせ真黒先輩とクリスマスを過ごすのでしょうから、贅沢は言いませんけれど、もしかしたらクリスマスプレゼント交換のイベントくらいはあってもいいんじゃないかなと思っていたりするのです。大空先輩に編み物を教えるついでに、わたしも大空先輩のために手袋を編んでいたりするのです。もう完成しています。クリスマスはまだもうちょっと先ですけれど、渡すのを今から楽しみにしているのです。

 ひとり寂しく帰っているので、今日は少し寄り道して、画材を見に行こうと思います。専門店などは近くになくて雑貨屋なのですが、文房具や画材も豊富に取り揃えてあります。巷では〝なんでも屋〟で通っているお店です。ちなみにお店の名前は知りません。英語か何かで看板が出ているのですが、何て書いてあるのか読めません。なんでも屋で通っているので構わないのです。

 その道中、噂の人をお見かけしました。

 わたしの憧れの人リストに名をねじこませてきた水鏡先輩です。リストと言っても、これまで大空先輩だけだったところに水鏡先輩が入ってきたのでリストになっただけですけれど。

 水鏡先輩はひとりで歩いておられました。

 さっちゃんは水鏡先輩の様子がおかしいと言っていました。正確にはそういうことを上級生が話していたと言っていました。わたしも大空先輩に尋ねてみれば水鏡先輩に何かあったのかはわかるのでしょうけれど、大空先輩はどこか水鏡先輩を目の敵にしているようでしたからね。うかつなことは言えません。

 憧れの人。

 一度しかお話しさせてもらったことはないですけれど、それだけでこの人はどこか違うと感じさせるお人でした。気品があって、おしとやかで、優しくて、聡明で、一部は想像ですけど、一度言葉を交わしただけでも、第一印象だけでも、そんなことを思わせるお人なのです。

 憧れの人ではありますけれど、大空先輩とは違ってどこか近寄りがたい雰囲気があります。ご本人は気軽に接して欲しいとおっしゃってましたけれど、ところがどっこいそうはいきません。わたし自身の本心としてはあの髪を撫でてみたり、いろんなところを触ってみたりしたいのですけれど、ところがどっこいそうはいきません。恐れ多くも触れることは敵わぬのです。

 ですが、話しかけてみるくらいはいいのではないでしょうか。

 不肖わたくし海賀絵美ちゃんは、極度の人見知りです。一度話したことがあるとはいえ、緊張します。超緊張します。ですが、ですけれど、ここを乗り越えれば、もしかすると水鏡先輩とよりお近づきになることができるかもしれません。大空先輩と親しくなれたように、水鏡先輩とも仲良くなれるかもしれません。

 大空先輩に言われたことを思い出します。大空先輩は、わたしが憧れていると言って、それじゃあダメだと言いました。それじゃあ友達にはなれないと言いました。多少憧れるのは仕方がないことです。今でももちろん大空先輩に憧れていて、ああいう人になりたいとも思います。ですが、過度に意識し過ぎては親しくはなれないのです。こちらが遠慮し過ぎてはいけないのです。

 わたしはあの一件で少しは学びました。

 だから、勇気を出します。いつまでも雲の上の存在として相手を見ていてはいけないのです。自分から歩み寄らねばならないのです。

 緊張しますけど。

 やっぱり緊張しますけど、えみりぃん、行きます。

 大空先輩をストーキング……もとい、おっかけていた時に身につけたスニーキングスキルで水鏡先輩に歩み寄ります。

 もう水鏡先輩は目の前です。

 うあぁ、やばいです。やぶぁいです。体中の血が沸騰しそうです。いろんないけないものが噴き出してきそうです。言ってやればちびりそうです。失礼しました。

 ですがここまで来てもう引き下がれません。引き下がれますけれど、引き下がりません。もう勇気は精一杯に振り絞っているのです。

「み、水鏡先輩! こ、こここんにちは!」

「ひっ!」

 あぅ、やってしまいました。やっぱりわたしはダメな子です。どうして後ろから声をかけてしまったのでしょう。前に回り込むことをどうして考えなかったのでしょう。答えは決まっています、顔を見て話せないからです。ダメダメです。

 挙句の果てには水鏡先輩を驚かせてしまいました。最悪最低です。今さら後には引けませんし、気持ち悪い子だと思われたでしょうか。

「す、すすすみません。お、驚かせるつもりは、なかったん、です。です……」

 恐る恐る、視線を上げていきます。

 引かれてしまったでしょうか。それとも笑って許してくれるのでしょうか。わたしの中の水鏡先輩なら、間違いなく後者なのですが……。

「…………ッ!!」

「えっ?」

 笑って許してくれるどころか、水鏡先輩は涙目で震えていました。

 最悪です。

 わたし、最低です。

 なんてことをしてしまったのでしょう。

 きっと、水鏡先輩はこういう類に弱いのです。か弱い女の子なのです。お化け屋敷には絶対行けない人なのです。

「ご、ごめんなさい!」

 深々と頭を下げて陳謝します。そうすることしかできませんでした。わたしも泣きそうでした。

「あ、ああ……あなたは……」

 また恐る恐る、顔を上げます。

「やっぱり、大空さんと一緒にいた……海賀さんですね」

「は、はい! き、急に声をかけてすみませんでした!」

 また、頭を深く下げます。

「あっ、いえいえ。どうか頭を上げてください。私は怒ったりしてませんよ?」

 ぱああっと、わたしの心に光が差し込みます。天使が羽ばたいています。

 よかったあああああああああ。

 ゆっくりと顔を上げます。失礼と思いながらも、どうしようもなくてそろりと水鏡先輩の表情を窺います。

 水鏡先輩は笑ってくれていました。

 ですが、わたしはそれを素直に喜べませんでした。

 違和感というか、明らかに無理に笑っていたのです。またわたしの心は闇の中です。水鏡先輩は優しいから面と向かっては怒ったりしませんけれど、内心ではなんだこいつとでも思われているかもしれません。

 って、違います。

 そんなことではありません。

 わたしがどう思われているかなんて、そんなことどうでもいいとさえ思えました。

「ど、どうしたんですか? すごい、クマ……」

 ひどい顔でした。もう何日も眠っていないようなクマがくっきりとできていたのです。それを見て異常だと思わないはずがありませんでした。やつれているようにも見えました。

「ああ……すみません。こんな顔を見せてしまって」

「そ、そんなこと……。は、早く帰って、休まないと」

「そうですね。そうしたいのはやまやまなのですけれど、これから用事がありますので」

「む、無理ですよ。そんなじゃ」

 無理です。どう見たって無理です。おかしいです。こんなの誰が見たっておかしいです。水鏡先輩じゃなくてもおかしいです。

 でも、それだけではなさそうでした。

 水鏡先輩は、誰かが横を通り過ぎる度に、何かに怯えているように見えました。きょろきょろと忙しなく周りの人の様子を窺って、それでも視線が合えばすぐに逸らしています。

 今の水鏡先輩には、この前会った時に感じられた余裕がまるで感じられません。

 弱々しく、弱っています。

 この時に、わたしの中にある記憶がフラッシュバックしました。この先にある、路地裏での出来事です。助けを求められたわたしは、何もできずにその人を見殺しにしてしまいました。仕方がなかったことなのかもしれませんが、ひどい自己嫌悪に襲われます。ひどい後悔に襲われます。

「わ、わたしでよければ代わりに用事を済ませてきます! な、何でも、言ってください!」

 もうあんな思いはしたくありません。

 それに、憧れている水鏡先輩のピンチです。力になれるのならばなってあげたいと思えました。

 水鏡先輩は驚いた顔をしたあと、にっこりと笑いました。

 ようやく笑いました。

 そして、私の頬に優しく手のひらを添えて言いました。

「ありがとうございます。ですけど、用事というのは人に会うことなのです。その人とお話ししなくてはならないことがありますので」

「そ、そうです、か」

「ふふ……。今のあなたの――が、見たかったですね」

「えっ?」

「なんでもありません」

 そして、もう一度にっこりと笑いました。

「約束の時間までまだ少しありますので、少しお話ししませんか? 海賀さん」

「えっ、わ、わたしで、よければ」

 わぁお、です。

 忘れていた緊張が蘇ってきました。わたしの中の不死鳥です。格好よく言ったけどいらないです。

 そして下心も蘇りました。

 これはチャンスです。水鏡先輩とお近づきになれる好機です。弱ったところにつけ込むようですが、これは致し方ありません。何せ誘われたのですから。

 水鏡先輩が近くにあったバス停のベンチを指差します。

 そこにふたりで腰を落ち着かせます。バス停に備え付けてあるただのベンチなのですが、どうしようもなく特別な空間に思えました。

 何を、何を話しましょう。

 誘われたのはわたしの方ですから水鏡先輩の方から話題を振ってくれるとありがたいのですけれど、しかし、水鏡先輩はベンチに座ったあと、遠慮がちに小さく溜息をついて視線を伏せてしまいました。

 疲れている、というか、悩んでいる。

 そうでなくてはこのクマの説明がつきません。この水鏡先輩を悩ませる何かがあったのです。

 聞いてもいいのでしょうか。

 気になります。

 わたし……おおっと、もう言いません。

 何と言っても口下手でボキャブラリーに乏しいわたしは、それを聞くことしかできません。

「何か……悩み事、ですか?」

 水鏡先輩はこちらを見て小さく笑いました。申し訳なさそうに笑っているようにも見えました。

「悩み事……。そうですね。これからどうしたらいいのか、わからなくなってしまったのです」

「わ、わたしでよければ、聞くだけなら、聞きます、よ?」

 相談に乗るとは言えません。わたしにはきっと聞くことくらいしかできないのです。

「ありがとうございます。海賀さん。そういえば、あなたは真黒さんとお知り合いでしたね」

「え? はい、一応……」

 どうしてここで真黒先輩の名前が出てくるのでしょう。

 真黒先輩と何かあったのでしょうか。真黒先輩に何かされたのでしょうか。水鏡先輩のこの憔悴っぷりを見ると、あの人が何かよからぬことをしでかしたのかもしれません。

「親しいのですか?」

「いえ。一応、大空先輩の彼氏なので、話しはしますけど、ただの知り合い、というくらい、です」

「……そうですか」

「あの……真黒先輩と、何かあったんですか?」

「何かあった……。何かあったのでしょうけれど、何があったのかわからないのです」

「ううん?」

 全く要領を得ません。何かがあったことは間違いないようですけれど、水鏡先輩ご自身もわかってないようでした。

「海賀さん」

「はい?」

「ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」

「えっ、ど、どうぞ」

 わたしに答えられることでしょうか。不安です。おつむは弱いのです。水鏡先輩にわからないことがわたしにわかるはずがありません。

「今まで見えていたものが見えなくなってしまったら、どうしますか?」

「…………」

 これは……何かの例え話でしょうか。見えていたものが見えなくなった。目が見えなくなったということでしょうか。それならば水鏡先輩が周りの様子に怯えるのも納得できるのですが、視力がなくなったというわけではなさそうですし。うーん、何か深い意味がある質問なのでしょうか。わかりません。

「……わかりません」

「あ、すみません。こんなことを聞いてしまって。そうですよね、わかりませんよね」

 もしかすると、誰か目が見えなくなってしまった人がいるのでしょうか。今の水鏡先輩の様子と真黒先輩は関係なく、目が見えなくなってしまった誰かのために水鏡先輩は悩んでいるのでしょうか。それならば先ほどの質問の意味も理解できます。どうやって支えてあげたらいいのか、悩んでいるのならば。

「だ、誰かを頼るしか、ないですよね。それでもし、自分が頼られたら、できるだけ力になってあげたいです」

 具体的なことは何も言えないですけど、それが大切な人なら力になりたいと思います。

「誰かを頼るしかない、ですか。そうですね。そうかもしれませんね」

「水鏡先輩なら、だ、大丈夫です。きっと力になってあげられますよ」

「海賀さん!」

「うぇっ!? は、はい!」

 び、びっくりしました。

 何かまずいことでも言ってしまったのでしょうか。

「あなたを頼ってもいいですか?」

「えっ、わ、わたし、ですか?」

「はい。ただ聞いていただくだけでいいのです。どうか、お願いします」

「わ、わかり、ました」

 と了承してしまいましたけれど、わたしでいいのでしょうか。本当にわたしでいいのでしょうか。わたしなんかでいいのでしょうか。どうしましょう。聞くだけと言っても、本当に聞くだけならいけないはずです。何か言わないといけませんよね。どうしましょうどうしましょう。いやもうほんと、どうしましょう。

「私は、不安なのです」

 うっ、どうやら待ってくれないようです。

 わたしも覚悟を決めなければいけません。

 話しを聞く覚悟です。それだけです。せっかく頼ってもらったのに情けなくも思いますけれど、それだけです。

「こうしてあなたと話している今も、私は不安でたまらないのです。私は今、生まれて初めて外の世界を歩いているような気分なのです。何も見えない暗闇の中を、どうやって歩いて行けばいいのかわからないまま歩いている感覚です。わかっています。変わってしまったのは私だけです。世界は何も変わっていない。世界は今も『白』が満ち溢れているはずなのに。ただ見えなくなったことが、それがこんなにも恐ろしいことだったなんて、想像したこともありませんでした。私は怖い。人と話すことが怖い。これから私はどうすればいいのか、わからないのです……」

「……………………」

 本当に、聞くだけしかできません。

 正直に、わたしには水鏡先輩が何のことを言っているのか、何を悩んでいるのかまったくわかりませんでした。

「あっ……ええと……その……」

 何か言ってあげないといけない。言葉を選ぼうと思っても、選択肢に並ぶ言葉は何一つありませんでした。水鏡先輩にとっての悩みを吐き出したのに、わたしには何もしてあげられません。何も言ってあげることができません。

 自分に腹が立ちました。

 腹が立っても何もできないことに気付いて、また腹が立ちました。

 わたしはどうしようもなく、何もできない人間だったのです。

 これが大空先輩なら、真黒先輩ならどうしたのでしょう。きっと、わたしなんかよりも、良い聞き役になったはずです。言葉に詰まったりなんかせずに、水鏡先輩が必要としている言葉を言ってあげられるはずです。

 泣きそうです。

 泣きそうなくらいに、心が張り裂けそうです。力になってあげたいなんて、何もできないわたしが言っていい言葉じゃなかったんです。

 わたしなんて、わたしなんて……。

「おいおい、見えなくなった途端にこれか。もっとキミはすごい奴だと思ってたんだけどな」

 泣きそうになっていた時に、聞き覚えのある声が聞こえてきました。

 いつもなら聞きたくない声なのに、今は嬉しい声でした。

 わたしは勢いよく振り返ります。今はなりふり構っていられませんでした。

 そのわたしの視界を、何かが真っ暗に覆いました。

「えみりんは任せるよ」

 えみりんじゃない。

 えみりぃんだ。

 言ってやりたくなりましたけど、真黒先輩のお心遣いに感謝です。

 だって、わたしの視界を覆い尽くしてしまったものは、わたしが今一番会いたい人だったのです。

 ぎゅうっと、わたしを抱きしめてくれました。

「大丈夫?」

 と、わたしの耳元で優しく気遣ってくれる、大空先輩。顔を見なくても、わたしには匂いと感触でわかりました。

「もう大丈夫です」

「えへへ。あたしは何が何だかわからないんだけど、真黒くんにとりあえずこうしろって言われたから。大丈夫なら、いい」

「真黒先輩が?」

 相変わらず、不気味な人です。

 あ、訂正します。

 不思議な人です。

 大空先輩の胸から離れて、大空先輩を見上げます。

 大空先輩はニカッと笑っていました。

 ああもう、大好きです!

「あとは真黒くんに任せて」

「……はい」

 大空先輩が視線を向けたのに便乗して、わたしもふたりを見ます。

 不思議です。

 つい今しがたここに来たばかりなのに、大空先輩も真黒先輩も状況が飲み込めているようでした。不思議なカップルです。

 真黒先輩は得意げにこちらを見返しました。そのドヤ顔が気に食わないですが、今日のところは許してあげます。

「真黒さん……」

「やあ。待ち合わせ場所に向かう途中で見かけてね。これはこれは、随分と『濃い』ようだけど大丈夫かい?」

「見えてないくせに」

「そうだね。相変わらずキミのは見えてないよ」

 うーん、こちらも相変わらず会話の内容がわかりません。たまに真黒先輩はこういうことを言います。大空先輩は神妙な面持ちで聞いているようなので、理解しているようですけど。何か暗号のようなやり取りでしょうか。流行っているのでしょうか。それならば真黒先輩のひとり流行りのはずですけど。

「私には何も見えません」

「うん。そうみたいだね」

「白々しく言わないでください! あなたが奪ってしまったのでしょう!」

 うわ、またまたびっくりした。

 どうやら水鏡先輩は真黒先輩に対してお怒りのようです。やはり真黒先輩が何かしてしまったのでしょう。それも水鏡先輩を相当追い込むことをしてしまっているようです。

 何でしょう。

 何なのでしょう。

 ふむ、わたしも真黒先輩に対してふつふつと怒りが沸いてきました。先ほどは助けられましたけれど、わたしの憧れだった水鏡先輩を傷つけた真黒先輩を、どうにも許せなく思えてきました。

 あれ、あれあれ。

 いけませんいけません。

 抑えてわたし。

 右手がうずきます。この右手に宿った魔王の力がうずきます。冗談です。中二っぽいことでも言わなくては抑えられなくなってしまいます。

「だからね、僕には身に覚えがないんだよ」

「白を切らないでください! あなたが原因という以外には考えられないのです!」

「そう言われてもなあ」

「お願いですから……何でもしますから、あれだけは返してください」

 そこまで言って、水鏡先輩はぼろぼろと泣き出してしまいました。

 わたしがあたふたします。

 何にもできないくせに何とかしなきゃと焦ってしまいました。

 悔しいですけれど、おそらく何とかできるのは真黒先輩だけです。

 返してしまって解決するならさっさと返してあげてください。

 お頼みします。

「僕には無理だよ」

「なんば言いよっとかー!!」

 そこで堪忍袋の緒が切れました。

 自分を抑えることができませんでした。

「えみりん!?」

 わたしは右手をまっすぐに真黒先輩に向かって突き出してしまっていました。

 我に返った時にはもう、遅かったのです。

 ガキンと、金属音が響きました。

「あ、危ないだろえみりぃん!」

「……なんですかそれ?」

 うん、ううん? わたしの渾身の一撃が、真黒先輩の前に構えられた何かによって阻まれていました。

「おなべのふた。ステンレス製」

「なんですか。あなたは『ああああ』さんですか」

「自分の名前を主人公の名前にするのが恥ずかしいから別の名前を考えて結局めんどうになって『ああああ』にしちゃってあとあとストーリーの盛り上がりで後悔してしまいそうな名前で僕を呼ばないでくれるかな」

「その言い回しはやめてください。いろんなところから苦情がきますよ」

「しかしえみりぃん。彫刻刀は普段から忍ばせておくものじゃあないと思うけどな」

「護身用です。あなたのような人がいるから泣いてしまう人がいるのです」

「誤解だよ。えみりぃん」

「誤解でもなんでも、女の子を泣かせるとはなんですか。思い起こせばわたしもあなたに泣かされたことがありましたね。大空先輩も泣かせていたら今度こそ終わらせますよ」

「言い方が物騒だな」

「この小説を終わらせますよ」

「さらに物騒だな」

 ここで、わたしは右手を下げました。どうにか落ち着きを取り戻したようです。シリアスの空気をぶち壊しにしてしまいましたけれど、こうも言ってやらないと止まらなかったのです。

 ご了承してください。

「あとは任せます」

 真黒先輩に背を向けました。わたしの役目は終わりです。

「なんか格好よく締めようとしてるけど、この空気を全部丸投げしてるだけじゃないか」

 その通りです。

 わたしにはこれが限界なのです。

 これで真黒先輩にお返しします。

 あとはこの空気を何とかしてくれるでしょう。何とかしてくれないとわたしも困ります。

 このあと、真黒先輩と水鏡先輩がお話しする前に、わたしは大空先輩からこっぴどくお叱りを受けました。当然ながら彫刻刀は没収されました。五本とも没収されました。

 おなべのふた。

 防御力は数字以上にありそうでした。

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