水鏡杰 Ⅵ
「私、覚悟を決めました」
そんな台詞を引っ下げ、僕と彼女の前に現れたのは水鏡杰だった。
放課後、水鏡杰は、校門を出た先で僕と彼女が来るのを見計らっていたように待ち伏せていて、また音もなく忍び寄り、こんなことを言ったのだった。最近、スニーキング技術を教えているジムでもあるのだろうか。えみりんも水鏡杰も、気配を消すのが上手過ぎて困る。
ベランダで水鏡杰と会話を交わしていたから、一から十まで説明されなくても、この水鏡杰の台詞の意図は僕にはわかった。彼女が一緒に居る時に声をかけてきたこともあり、何の覚悟かはわかるだろう。
僕の彼女を交えて、大空翔子を交えて、お互いの『見える』ものについて語り合いましょうということだった。
放課後デートの予定があったりなかったりした僕と彼女だったけれど、しょこたんも水鏡杰の言葉の意味を察してか、笑顔で何かを快諾した。さすが僕の彼女だった。
人に話す覚悟を決めた。
大空翔子に話す覚悟を決めた。
水鏡杰が言っているのはそういうことだった。僕がしょこたんも一緒に居る時じゃないと話さないと言ったから、水鏡杰も覚悟を決める必要があったのだけれども、それは最初に伝えておいたことなので勘弁願いたいものだった。
そうして三人で向かったのは住宅街にひっそりと佇むカフェ。
僕の『黒』、過去の話しをしょこたんに打ち明けた場所だった。
せっかくだから何か飲みながらでもというしょこたんの提案で、ここにやってきた。僕としては、おそらく水鏡杰としても、この三人以外がいるところで話すことではないのかもしれないけれど、以前、僕の話しをした場所でもあるので、僕にその提案を拒否する理由はなかった。水鏡杰は遠慮してか、しょこたんの意見を尊重したのか、少しだけ言葉を詰まらせたものの、その提案を受け入れた。同じ学校の奴はいないので、まあ問題はないだろう。
コーヒー、アイスティー、ミルクティー、それぞれが違う飲み物を注文して、一息つく。誰が何を注文したのかはご想像にお任せする。僕らは注文した飲み物が届くまで無言で、お互いがお互いに顔色を窺っていたりした。僕から見たしょこたんにおいては『黒』を、水鏡杰から見たしょこたんにおいては『何か』の具合を窺っていたんだと思う。もっとも、僕の彼女の大空翔子も、人の気持ちを察するスキルはデフォである程度身に着けているから、一人だけ不利な状況というわけでもあるまい。
僕は届いたコーヒーにミルクと砂糖を入れ、あ、バレた、一口すする。やっぱり、店で淹れられたコーヒーはうまい。インスタントや缶コーヒーとどう違うのかは具体的には言えないけれど、格好良く言えば、香りと深みが違う。とりあえず言ってみただけで全然関係ないけれど。
「えっとー、水鏡さん。緊張してる?」
しょこたんが、気を遣って水鏡杰に声をかける。
「あっ、いいえ。……はい、少しだけ」
水鏡杰は困ったような照れ笑いを浮かべ、アイスティーを喉奥へ流し込んだ。あ、また。
「大丈夫だよ。あたしも真黒くんのこと聞いた時は不思議って思ったけど、今はもう当たり前になっちゃったから」
しょこたんはミルクティーをかき混ぜながら言う。それを見て水鏡杰は僕に笑顔を向けた。大空さんは良い人ですねと言われているようだった。
「まあ、僕も彼女に話すまではいろいろあったしね。やっぱりまた今度にしたいと言うならそれでも構わないけれど」
水鏡杰は、小さく息を吐いて言う。
「そうですね。大空さんとお喋りを楽しむだけでも素敵な時間だと思いますけれど、私もきちんと覚悟を決めてきましたので、お話ししたいと思います。そして真黒さん、あなたのお話しも聞かせていただきたいと思っています」
僕はしょこたんを一瞥して、
「構わないよ」
僕は、しょこたんに話した時のように重くは考えていない。水鏡杰は『見えて』いるのだから『黒』についても理解はしてくれるだろうし、それについてどう思われたところで構わないから。僕がしょこたんにいろいろと話すことを躊躇っていた理由は、彼女に嫌われたくないと思っていたからだ。
「ではまず、私から」
これでようやく、水鏡杰の『見えて』いるものの正体が判明する。僕と似たようなものとしか言えなかったものだ。
僕が、それを知りたいと思っているのはただの興味。僕以外にも『見える』奴がいたと知って、それが何なのかが気になっているだけだ。それで仲良くできるかもなんて、そんなことは決して思っていない。
「私は人の中に、ぼんやりとですけれど『白い』ものが見えているのです。『輝き』と言ってもいいのかもしれません。白いものが光っているのです」
驚きはしなかった。わざわざ驚いてやるつもりもなかった。水鏡杰に見えているのは、『白』。僕とは真逆。それは相容れないと思ってしまうはずだった。
「それが何なのかわかるかい?」
「ええ。何と言ったらいいのかわからなくてひどく曖昧ですけれど、その人が持っている良心や、幸せだと感じている気持ち、ですね。前向きな気持ちと言ってもいいのかもしれません。正か負で言うと、正にあたる感情ですね。私にも、はっきりとそれが何なのかは断定できません。私がそう思っているだけで本当は違うのかもしれませんし」
「いや、それはそれで正しいと思うよ」
「そ、そうですか。それでは、もしかしたらあなたにも同じものが?」
「違うよ。僕にはそんなものは見えていない」
「えっ。それでは何が?」
ここで、僕は少しの間を置いた。別にもったいぶるつもりなんてなかったけれど、目の前の水鏡杰に対して、少しだけ劣等感を抱いてしまったからだ。
正か負。プラスかマイナスかで言えば、僕に見えるものはマイナスに値する『黒』だ。それで僕自身がマイナスっていうわけじゃないけれど、人の良いところを見てきた水鏡杰と、人の沈んだ部分ばかり見てきた僕とでは、考え方や性格も大きな違いが出るに間違いないと思う。
表と裏。
光と影。
影の中で生きてきた僕には、光の中で生きてきた水鏡杰が羨ましかった。
「僕に見えているものは『黒』だよ。キミに見えるのが人の心の光だとするのなら、僕に見えているものは人の心の闇なんだ」
水鏡杰は少しだけ驚いた顔をしたあとに、視線を伏せた。
「あなたに見えているものは、『黒』。私とは違う。正反対のものなのですね」
「残念だったね。同じじゃなくて」
「いえ、そういうことを思っているのではありません。ただ……」
僕の言葉に慌てて顔を上げ、すぐにまた視線を逸らした。
「同情するなら金をくれ」
いや、この場合なら、同情するなら光をくれと言うべきか。
水鏡杰が僕に対して抱いている思いは憐みだ。同情だ。ずっと人の中に光を見てきた水鏡杰は、ずっと人の中に『黒』を見てきた僕の気持ちをすぐに察することができるだろう。今までどんな気持ちで過ごしてきたのか、それがすぐに水鏡杰にはわかったのだ。
「お金ですか。しかしそんなものでは……」
「冗談だよ。知らないのかい? これ。まあ僕たちの世代で知ってる奴は少ないかもしれないけれど」
ここで、しょこたんが小さく笑った。意外だぞ。知っているのか。
「水鏡さん。真黒くんのことはそんなに深く考えなくていいと思うよ。真黒くんって、自分のことは結構、いろいろと決着つけてるっていうかさ、気にしてないみたいだから」
そっちか。
相変わらず勘が良いというか、人を見透かす彼女だった。僕のことのみならず、水鏡杰が考えていることも当たり前のように察している。やっぱり、ハンデはあるにしろ、僕たちと対等に渡り合える素質の持ち主なのだ、僕の彼女は。
「まあ彼女の言う通りだね。キミのように僕にも『黒』じゃないものが見えていたならよかったと思うことは否定はしないけれど、キミが少し羨ましいと思うことも否定しないけれど、キミが気にする必要はないよ」
「そうですか。それなら私は何も言いません。それで、その『黒』はどのようなものなのですか?」
「人の悩みやストレス。キミが言うところの負の感情かな。人が辛いとか嫌だとか思えば、僕に見えている『黒』は大きく、濃くなるんだよ。『黒』がない人間なんていない」
「私に見える『白』は、悩んでいたりすれば小さく、輝きが失われています。それが深く重い悩みであればあるほどに。『白』がない人間なんていません」
「僕は『黒』で人のストレスがわかるんだ」
「私は『白』で人の悩みがわかります」
それなら、見えるものは違うけれど、やっぱり同じじゃないか。
違う。そうじゃない。
「僕は人の『黒』に囲まれて過ごしてきたけれど、キミは人の『輝き』の中で過ごしてきたんだ。違う言い方をすれば、僕はいつも人の不幸せな気持ちを見てきて、キミはいつも人の幸せな気持ちを見て過ごしてきた」
僕は敢えて言う。
人の中に何かが見えている者同士、限られた者同士だけれど、慣れ合うつもりはないのだ。僕と水鏡杰は違うということを言葉にしておかなければならない。
違いを露見させなければならない。
「キミに『白』が見えるようになったきっかけってわかるかい?」
「私に『白』が見えるようになったのは幼少期の頃です。きっかけと言われて思いつく出来事はありません。唯一思い当たることと言えば、祖父母の教えでしょうか」
「ふうん。超能力の研究でもしてたのかい?」
「いえ、そういうことは全く。私の祖父母は普通の人ですよ。もしかしたら、私と同じように見えていたのかもしれませんが、そういう話しは聞いたことありませんし、『白』のことを尋ねても何のことかわからない様子でした」
「僕も両親の人たちに聞いてもわからなかったしね」
「…………私は、祖父母から『人の良いところを探しなさい』と教えられたのです。それを心掛けていたらいつの間にか見えるようになっていました」
「そうだね、きっかけは些細なことか。僕が見えるようになったきっかけは――」
言いかけて、水鏡杰は手のひらをこちらに向けて首をふるふると振った。
遠慮しなくてもいいのになんて思わない。
ちょっとしたことで気付いてしまう。人の言動に敏感なのは僕も水鏡杰も同じことだ。嫌な通じ合いだった。
「大空さんがご一緒でなければならなかった理由がわかりました」
わーすごい。たったあれだけでどこまでわかられちゃったんだよ僕。そりゃあ人の中に見えてたら想像力豊かにはなるだろうけれど。
いつか見えていてもいなくても関係ないと言われたけれど、それはそっくりそのまま水鏡杰に返すべきだなぁ。
些細なことで、僕が幼少期にどう過ごしてきたかを察してしまった水鏡杰。
小さい頃の心の傷も目の前の聖人君子は癒してくれるのだろうか。こればっかりはどうやっても無理だろう。もっとも、僕は全く気に病んではいないけれど。過去はどうやってもなかったことにはならないのだ。
言うまでもなく、言う必要もなく、僕と水鏡杰の違いを露見させた。
人の良いところを探し続けて見えるようになった水鏡杰。人の嫌な部分を探し続けて見えるようになった僕。その違いは思いの外大きい。それが全てで、今後の生き方を左右してしまったのだ。
水鏡杰は『白』を探し求め続けた。
僕は『黒』を探し避け続けた。
それが今の僕と水鏡杰の立場の違いに繋がっている。
それでも、それだけじゃあないだろう。
もっと根本的な部分で僕と違うのだ。僕だって、人の『黒』をなくそうとすれば、そいつのストレスも悩みも解決してやることだってできるのだから。
それをしようとするのかしないのか。
僕と水鏡杰の違いはそこだ。
「人の嫌な部分も見てきただろう? どうして助けてあげようなんて思うんだい?」
「嫌な部分が見えているのと同時に、良い部分を持っていることもわかるからです。輝きが少しでもあるのなら、それをもっと輝かせてあげたいと思うのです。それに、私に『白』が見えることには何か理由があると思うのです。私にはそれが、多くの人の心を救うことだと思っています」
「なんだい、まるで神様から与えられた使命とでも言っているようだね」
「そう思っていますよ」
「それならキミは天使で僕は悪魔だね」
「そう自分を卑下しないでください。あなたに『黒』が見えることにもきっと何か理由があるはずです」
理由か。あんまり考えたことはないな。僕は見えることが煩わしいと思っていたから。原因を探ろうとは思ったことはあるけれど、こうなった理由までは考えたことがない。
神様の気まぐれ。
理由はそれだけで十分な気もするけどなあ。僕が楽観的過ぎるのかな。見えてしまうものは仕方がないし。
「理由ね。キミのように思えればいいんだけどねえ」
「簡単なことですよ。あなたも私と同じことをすればいいのです」
「同じことって、人助けかい? おいおい冗談はよしてくれよ。僕はそんなことご免だね」
「どうしてですか? あなたはきっと、私よりも人が抱えている悩みに敏感なはずです。あなたには『黒』が見えるのですから」
「『白』が見えているキミと変わらないよ」
「私の『白』は明確な判断基準があるわけではありません。悩みがないから輝くというわけでもないのです。悩みがなくても、心が晴れ渡っていなければ『白』は輝きません。ですがあなたの『黒』は人のストレスや悩みが直接反映されます。『見ればわかる』という言葉は私よりもあなたに相応しい言葉です」
「だからって、僕は人助けなんてしない。自分のことで手一杯なんだよ。それと彼女のことだけでね。そもそも僕は人と触れ合うのが苦手なんだ。誰彼構わず手当たり次第に『黒』をなくしていこうなんて絶対に無理だね。話しは戻るけれど、僕にキミのような『モノ』が見えていたのなら、同じようなことを考えたかもしれないけれど、『黒』をずっと見てきた僕はそんなこと思えない。僕をキミの思想に引き入れようとしているのなら諦めてくれ。とても共感できないよ」
「……そうですか」
残念そうに、本当に残念そうに漏らす水鏡杰だった。
人を助けるのは良いことだと思うけれど、素晴らしいことだと思うけれど、僕はそんなに立派な人間じゃない。彼女の前だからといって格好つけたりなんかしない。僕が人のために『黒』を利用するとしたら彼女のため以外にないのだ。
しょこたんの方を見ると、彼女はにっこりと微笑んだ。
僕がこういう人間だと知っているから。
「そうですね、大空さん」
水鏡杰は僕の視線の先を追って、彼女に声をかけた。
そういえば、元々は彼女に聞かせる覚悟をしてきたと水鏡杰は言っていた。彼女に感想でも求めるつもりなのだろうか。僕も少し興味があったりするのだけれど。
「真黒さんが人の『黒』をなくそうと努力されるのはとても良いことだと思いませんか?」
……そうきたか水鏡杰。
まずは僕の彼女から懐柔してしまおうという算段か。
すっかり傍観者だった僕の彼女は驚き笑顔で戸惑っているようだった。
彼女の答えには少しだけ興味を惹かれた。実際のところ、僕がこういう人間だと知っている、知っていて僕と付き合ってくれている彼女はどう思っているのだろうか。僕の『黒』のことは理解してくれているようだし、僕がどうしてこういう人間になったのかもわかってくれてはいるのだと思うけれど、本当のところはどう思っているのだろう。嘘をつけないとわかっているしょこたんは正直に答えてくれるはずだ。
ここで彼女が、僕が水鏡杰と同じことをしてくれた方が嬉しいと言うのなら、僕はきっとそうなるべく努力する。多分する。多分、する。多分……しないかもしれないけれど、そうなろうとしてみると思う。
「あたしもそれは良いことだと思うな」
「そ、そうですよね!」
…………あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
えっ、うそ、そうなのしょこたん?
嘘、じゃないな。『黒』は変わってない。
えー、いやでも、今さらねえ、僕が人のためにどうこうするのも似合わないっていうか、いくら彼女がそう思っていたとしてもねえ、今さらねえ……。
そもそもどうなんだい。どうだい。彼女のためとはいえ、自分の信念、大事なことだからもう一度言うけれど、自分の信念を曲げるというのもどうだろう。信念だと言うのは仰々しいけれど、ああそうだ、僕の生き方を曲げるというのはどうだろう。いかがなものだろう。自他ともに認めるコミュ障の僕が人助けなんて、あってはいけないことじゃないだろうか。
努力はするよ? うん、する。でも努力したって、頑張ったってどうしようもできないことだってあるさあ。そもそもこんな僕が人助けなんて偉そうなこと言える立場かい。僕が助けて欲しいよ。今助けて欲しいよ。そうだ、そうだよ。人助け専門の水鏡杰さんが目の前にいるじゃないか。まずは前言撤回してもらって、僕に人助けなんて無理だということをわかってもらわなくちゃ。そうしなくっちゃ。
「いろいろと心の声が漏れてるけど、真黒くん」
「心の声だから、聞き流して」
目の前で彼女に呆れられる僕だった。
「水鏡さん」
「はいっ」
うわあ。嬉しそう。ぼかぁショックだよ。味方だと思っていたしょこたんが水鏡杰と同系統だったなんて。
「誰かを助けてあげようって素敵なことだと思うけれど、あたしは別に真黒くんにそうして欲しいなんて思ってないよ」
「え」
「えっ!!」
二番目のが僕です、はい。
欲しいものを買うために並んで待って目の前の人で売り切れですって言われたあとに実は最後の一個がありましたっていう時くらいに嬉しい。待って買い物なんてしたことなんてないからわからにけれど多分それくらいに嬉しい。とりあえずすっごく嬉しい。ざまあ。
「で、ですが、良いことだとおっしゃるなら、それを真黒さんにやってもらうのは大空さんにとっても良いことなのではないのですか?」
困惑している。
わかってないなあ、しょこたんのこと。大空翔子のことを。人のこと言えないけれど。
「良いことだと思うけれど、あたしはそれを真黒くんに求めてないもん。真黒くんがそんなことできないのわかってるし、あたしはあたしのことだけ見てくれればいいって思ってるから」
「僕はいつだってキミのことしか見てないよ。ちょっと抱きしめてもいいかい?」
「あ、いま結構真面目に話してるから」
「……ごめんなさい」
「あとでね」
ひゃっほう!
あとでなんていろいろと理由つけてやりませんけどね。今は勢いだから。恥ずかしいから。
さすが僕の彼女だった。僕のことを理解してくれている。でもこれは、僕のことを思って言ったことじゃない。想って言ったことかもしれないけれど。
「水鏡さん。今からちょっとひどいこと言うかもしれないけれど、いい?」
「えっ、あ、その……」
今度は僕が傍観者になる番だった。
水鏡杰はさらに困惑して、戸惑っている。理由は単純だ。
慣れ。
水鏡杰はこういうことに慣れていないから戸惑っているのだ。僕が自分に向けられる『黒』に抵抗があるのと同じように、水鏡杰も自分のおかげで『白』がなくなった人間を目の前にすることに慣れていない。
人の中にいろいろ見えてしまう僕たちは、悪い方へ傾かないように調節してしまう。僕なら話し相手の『黒』が濃くならないように。水鏡杰なら『白』がなくならないように。そして人を助けると言っても、それは『白』がなくなっている人間に近づいているのだから、そうそう自分のせいで『白』がなくなる事態には陥らない。水鏡杰は『白』が輝いていく様子しか見て来なかったのだ。
だから当然、人に敵意や悪意を向けられることに慣れていない。自分自身にそれを向けられることに慣れていない。他の誰かに、他の何かに向けられた『黒』の感情しか見て来なかったのだから。
今の場合、僕の彼女が水鏡杰に向けているものは敵意というわけではないだろう。彼女の敵意や怒りの『黒』は何かの事件で知っているから。
「余計なお世話。あと、それと、水鏡さんって何様って感じ」
おおう、結構ダイレクト。
言うこと言うもんなあ、しょこたんは。自分に正直だというのはとても良いことだ。でも、それでもこの子はいい子だったりするからなあ。単純に自分が思ってることを言ったわけじゃないとは思うけれど。
「あたしも真黒くんに助けられたっていうか、真黒くんがいるから今こうしてるのがあるからあんまり言えることじゃないんだけどさ、そう思う人もいるかもしれないよ」
「…………」
水鏡杰は、少なからずとも衝撃を受けているようだった。絶句とまではいかなくても、言葉を失っているようだ。
「真黒くんがさっき言ってたけど、人って結構自分のことで手一杯だと思うんだ。本当のところ、人のことまで構ってられないっていうか、自分がいろいろと考えられる相手って限られてると思うんだよね。あたしは真黒くんのためにならなんだってできるけれど、困ってるのが赤の他人なら見て見ぬふりだってすると思う。大体みんなこんなだよ」
「……そうでしょうか」
「うん。正直に言うとね、あたしは水鏡さんに嫉妬してる。人のことに構うほど自分に余裕があるんだなって。羨ましいよ。大きいしね。ほんと羨ましい。『杰』って、優れてるって意味なんだよね。あたしは真黒くんと一緒にいたいから友達のことだって蔑ろにしたりする。真黒くんは特別だから。でも水鏡さんは違うんでしょ?」
「私は、みんなに幸せな気持ちになってもらいたいだけです」
「あたしは、水鏡さんのようには考えられないし、そうなりたくはないかな。もちろん、真黒くんにだってそうなって欲しくないな。あたしのことは特別に思っていて欲しいもん。ほら、よく言うじゃない? どちらか一方しか助けられなかったらどっちを助けるのかって。あたしは真黒くんと他の誰かどちらかを選ばないといけないなら、迷うことなく真黒くんを助ける。でも水鏡さんはどうにかして二人とも助けようとするでしょう? もしくは自分が犠牲になろうとするでしょう? 正しいよ。正しすぎる答えだけど、理想かもしれないけれど、どうなのかな」
どちらも正論だと思う。
僕の彼女は現実的に正論だ。誰だってこうなりたいと思っているのは水鏡杰の考えている人間かもしれないけれど、そう考えられるまで手が回らない。
「それに人ってさ、絶対に幸せにならないといけないわけじゃないでしょ? どうしたって幸せを感じられない人だっているし、妥協する人だっているよ」
「ですから、それをお手伝いするのが私の役目だと思っているのです!」
「お金が全てだと思ってる人にお金をあげられるの? 友達の恋人が好きだっていう人に友達から恋人を奪わせることができるの? あたしの胸を大きくできるの?」
「そ、それは……」
「できないでしょ。あたしの胸を大きくするなんて」
はっはー。
「おいおいもにょたん。おふざけがすぎるぞ」
「真黒くん。あたしは真面目に話してるの」
真面目なんだ。それで真面目だったんだ。
このままじゃ論点がおかしくなってくるぞ。
水鏡杰が言っているのはそういう物欲のことじゃない。気持ちの問題だ。そういうことだと僕の彼女もわかってはいるはずだけど。
「お金が貯まることで心を満たして、恋人ができることで気持ちを満たす人もいるよね。そういう人を、水鏡さんはどうするの?」
「お金がなくても幸せになれる道を指し示します。恋人と同じ時間を過ごすこと以外にも大切なことがあることをお話しします」
力強く、迷うことなく水鏡杰は言った。
今までそうやってきたのだろう。そうやって、人の悩みを解決してきたのだろう。でも僕の彼女は反論する。きっとこう言って反論する。
「それって、ただの妥協でしょ」
「ち、違います! いろいろな道があるということです!」
「逃げ道でしょ」
「ち、違います」
「あなたが思ってることは叶わないから諦めて他のことをしましょうってことでしょ?」
「……違います」
「いいんじゃない? それ自体は否定しないよ。言い方が悪かっただけで人の選択だとも言えるし。ただ水鏡さん。きっとあなたは、今まで失敗なんてしたことないんだね」
「…………」
「失敗しない道を選んできたからだよ。それはあなたに『白』が見えていたからかもしれないけれど。でもさ、失敗は成功の元だって言うじゃない? あたしは真黒くんに出会う前に水鏡さんに出会っていたらきっと全く違った今になっていたんだと思う。今だってグラウンドで走ってたかもしれないし、それなりに友達に囲まれて幸せだったんだと思うよ。でも、多分あたしは、今のあたしになれてよかったって思うな。人の中に見えてしまう二人の中で、真黒くんに先に出会ってよかったって思ってる」
「…………」
「あたしは失敗した。でも幸せになれたよ。なれたと思う。真黒くんがあたしに何をしてくたのかと言えば、特に何もしてくれてないかな。助けてくれようとしてくれたと思ってたのはあたしだけで、真黒くんにはそんな気なんてなかったみたい」
「それならば、なぜ真黒さんと出会えてよかったと言えるのですか」
「真黒くんはね、応援してくれたんだ。飛び降りて、あたしが自分の抱えてた悩み、『黒』を話したとき、どうしたほうがいいとかアドバイスをくれたわけでもない。ただあたしはあたしらしくいれるようにって応援してくれただけ。『キミはキミらしくあればいいよ』って。お見舞いの色紙にそんなこと書いてたんだ」
おいおいもにょたん。それは秘密だったはずだぜ。あれだけ常套句だって言ったじゃないか。恥ずかしいんだから。
「あたしは結局、周りの人たちから見たら変わってしまったって思われてるのかもしれない。悪い方に変わったって。でもあたしはそれでいいの。あたしがそれでいいって思ってるから。これは真黒くんに言われたからじゃなくて、あたし自身がそう思ってるの。そんなあたしのことを真黒くんは好きって言ってくれてるから、それでいいの。そうじゃなくちゃダメなの」
「真黒さんとの出会いがあなたを変えたのはわかりました。ですが、それは私がお話ししてきた方も同じはずです。何様と言われたばかりでおこがましいですが、私はたくさんの方の『白』を輝かせてきました。私と話して助かったと言われたことも多々あります」
「だからね、いろいろ言ったけれど、結局言いたいことは一つなんだよね」
ああ。
そういうことなのだ。
しょこたんが散々言ってきたことだ。真っ向から対立しているように見えていても、僕の彼女は水鏡杰のことを考えているのだ。
僕の彼女だから。
大空翔子だから。
「水鏡さんにとって、その助けてきた人たちは誰だって特別じゃないんでしょ?」
「特別視していては、良い解決方法は思い浮かびません。客観的に、俯瞰的に考えて判断しなくてはならないのです」
「それじゃ寂しいよ。水鏡さんが当たり前のように救いの手を差し伸べていたら、それがみんなにとって当たり前になるよ。感謝もされなくなるよ」
「私は別に感謝されることを期待して今までやってきたわけではありません」
「水鏡さん。あたしが寂しいって言ってるのはね、水鏡さん自身のことだよ。水鏡さんは、今までそうやってきて寂しくなかったの?」
「寂しくなんてありません」
僕の彼女は、それから深く溜息をついた。わかっているように、水鏡杰がどこか意地を張っているのがわかっているような溜息だった。
「あれから、加代とはずっと一緒にいるの?」
「加代……。吉岡さんですね。あの方も自分に少し自信を持てなかったようなので、その辺りをお話しさせてもらいました。それからは、以前よりも自分を出せるようになったと言いますか、明るくなりまして、今ではクラスの人気者ですよ」
「そういうことじゃなくて、水鏡さんは加代と一緒に放課後遊んだりしないの?」
「しませんけれど」
「だからね、それを当たり前にしちゃったらよくないと思うよ。加代も加代だけど、水鏡さんは『白』さえよくなればそれでその人とは終わりなの?」
「そんな。今でも良好なお付き合いをさせていただいていると思っていますよ」
そこでしょこたんは僕の方を見て睨んだ。僕を睨み付けた。この流れは八つ当たりだ。口先が達者ではないしょこたんもどう言っていいのかわからなくて困ってらっしゃるようだ。
「真黒くん。あたし今からすっごいひどいこと言うよ」
僕に許可を求めているのだろうか。それは言われる本人に求めて欲しいものだけれど。
「どうぞー」
何を言うつもりかわからないけれど、水鏡杰に対してはご愁傷様とだけ思っておこう。これから言おうとしているのが言いたかったことなのだろうか。随分と遠回りしたようだけれど、ようやくたどり着けたみたいだ。
「水鏡さんって、友達いないでしょ」
水鏡杰どころか、僕が絶句した。
それは以前、彼女と出会った当初、僕が言われたことだった。実はすっごいひどいことを言われていたようだった。
ま、まああの時は、僕が言わせたようなものだったし?
「……いますよ」
僕と水鏡杰との違いは、見栄を張るところだった。
反応を見ればバレバレだった。
「じゃあいつも友達となにしてるの? 何話してるの? どれくらい友達いるの? いつからいるの? 最近遊びに行った場所は? 何て呼び合ってるの? ケータイアドレスどれくらい埋まってるの?」
僕は一件だけ。彼女だけで十分なんだ。見栄じゃないよ。ほんとだよ。
水鏡杰は顔を真っ赤にさせてうつむいた。元々が真っ白い肌だけあって、はた目から見てよくわかった。
そして何かを我慢しているように体を震わせていて、そして何を思ったのか自分の鞄を勢いよくまさぐって自前のスマホを取り出した。そのまま手早く操作して画面を僕と彼女に突き付けた。
「こ、これで満足ですか!」
そう言って突き付けた画面には、どうやら家族と思われる名前が数名表示されているアドレス帳が映し出されていた。みんな同じ苗字だった。
「いないじゃん」
勢いだったのか勇気を出したのかで突き付けた画面を、僕の彼女に一言で一蹴された水鏡杰が少し可哀想だった。
「――ッ!」
何か言いたげに口を開けた水鏡杰だったけれど、口を開けただけで言葉は出て来ずに、画面を突き付けたまま顔を下に向けた。
「れ、連絡先は……記憶する主義なんです……ッ!」
やーめーてー。同じ言い訳しないでー。
「性格は全然違うけど、やっぱり似た者同士ってことなのかなあ」
そう言ってしょこたんは、水鏡杰のスマホを取り上げた。
「あっ」
ううん、どこかで見たことあるような、体験したことあるような場面だなあ。
「はい」
呆気に取られていた水鏡杰はされるがままにスマホをいじられ、されるがままに押し返された。
ちらりと画面を覗き込むと、そこには『大空翔子』と表示されていた。
あっれぇ? 僕のときは『しょこたん』だったのになあ。関係ないけどしょこたんって並びを変えれば『ショタコン』になるよなあ。ほんとに関係ないけど。
「あの、これは?」
戸惑いを隠せない水鏡杰。まあそうだろう。散々何か言われ続けたあげくにこれだからな。僕だって同じ立場なら困惑する。
「『白』のことを話してしまったあたしたちも水鏡さんにとって特別じゃないの?」
「い、いえ。と、特別、ですね。ええ、はい、特別です」
だんだんと、水鏡杰の表情に綻びが出始める。
言って欲しいのだ、この先を。
「『白』のことじゃなくても、困ったことがあったら何だって言ってくれていいよ。あたしに気を遣う必要なんてないから。何でも言い合える〝友達〟なら、遠慮することないよね」
「友達……」
「友達ってさ、特別なものなんだよ。それはもう赤の他人なんかじゃない。あたしにとっても、水鏡さんは特別だし。水鏡さんだってあたしのことそう思ってくれたらいいな」
「はい、はいっ! 嬉しいです!」
結局のところ、こうなってしまうのだった。
大空翔子は、こういう人間なのだ。
人のことは散々言っておきながら、自分のことは棚に上げてこうやって人のことを気にかけてしまう。本当に友達になりたかっただけかもしれないけれど、お人好しと思わざるを得ない。
多少強引だけれど、これも僕の彼女らしい。偽りの自分を作り上げてきて周りの人間を引き込んできた彼女だったけれど、多分、本来の彼女もそういう性格をしているのだ。
おそらく、彼女はこの場に誘われて、最初っからこうすることを考えていたのだと思う。水鏡杰が寂しい思いをしていると思って、寂しい思いをしているはずだと決めつけて、僕の彼女はこの場に来ていたのだ。
僕は思っている。
そして多分、大空翔子も思っている。
僕のような人間、水鏡杰のような特別な人間を助けられるのは、特別なことを知っている人間しかいないのだ。
その役目を彼女が買って出た。
それだけの話しだった。
水鏡杰は、嬉しそうに画面を見つめたあと、物欲しそうな目で僕に訴えてきた。
目を輝かせるな。
何を期待しているのだ。期待されても絶対に応えられないんだ僕は。
「いや、僕のケータイには彼女の連絡先だけしか入れるつもりはないから。僕に用事がある時はまず彼女に連絡してから用事を伝えてもらえればいいよ」
「そ、そうですか」
落ち込まれてもどうしようもない。まあ彼女がいる手前、彼女がこの場にいなくても連絡先を交換するつもりはないけれど、僕のスマホは彼女専用うんぬんなので。
「いいよ。真黒くん」
「いいの!?」
意外。
超意外。マジ意外。おったまげた。
「あの人とは違うし。水鏡さんなら信用できるし」
あ、やっぱりあのおねーさんはダメなんだ。そしてベランダの一件を考えれば信用されてるとは思えないけれど。
「まあ、じゃあ。そういうことなんで」
「ありがとうございますっ」
そういうわけで、水鏡杰と連絡先を交換するに至った。
多分、使われることのない番号だったけれど。
「友達になっていただいてありがたい限りなんですが、私は私のやり方を変えるつもりはありませんよ」
それに対して、僕の彼女はバツが悪そうに頭をかいた。
「あー、別にあたしも否定してるわけじゃないからさ。良いことをしてるのは間違いないし。それで救われている人がいることも事実だし。それをやめろなんては言わないし、言えないよ。ただ、あたしたちがいることは忘れないでね」
「それはもちろん。少しだけ、私も考え方を改めようと思いました。この特別な気持ちは、特別な相手がいてこそ感じられるものだとわかりましたので」
「あはは……」
散々言ったあとで、気まずさと恥ずかしさが押し寄せてきたのだろうか、しょこたんはすっかり冷めてしまったミルクティーを一気に流し込んだ。
これでまあ、水鏡杰との関係も一段落。
しょこたんに新しい友達ができて、水鏡杰にも初めての友達ができた。
これでこのエピソードは円満に終わりを迎えた。
それだけならばよかったのだけれど。
終わらない。
ハッピーエンドにはならない。
「それでは、これからよろしくお願いします」
水鏡杰は右手を彼女に差し出した。
「あはは……。改まってこういうのは照れくさいなあ」
しっかりと握手を交わすお二人様。
そしてお次は僕の番だった。
「真黒さんも、よろしくお願いしますね」
「まあお互いに見える者同士だからね。気になることがあれば言ってくれていいよ」
割としっかり手を握ってくる水鏡杰。
やめてくれよ。僕の彼女は胸のこと以外でも嫉妬深いんだぞ。
案の定というか、しょこたんの視線に反応して水鏡杰は慌てて僕の手を放した。
「あ、失礼しました。大空さん、私は真黒さんに特別な感情は抱いておりませんので」
「え? うん、心配はしてないよ」
首を傾げる僕の彼女。
「いえ、でも……」
僕の方を見て困った笑みを浮かべる水鏡杰だった。
そんな微笑みを向けられて困ってしまうのは僕だった。何かを目で訴えているようだけれども、僕にはそれが何なのかさっぱりわからなかった。
これが違和感だった。
異変だった。
「友達になったのですから、はっきり言ってもらっていいのですよ? ねえ、真黒さん」
「ねえと言われても、何のことを言っているのかさっぱりなんだけど?」
「あたしも水鏡さんが何を言っているのかわからないんだけど」
水鏡杰は眉をひそめる。まるで僕らがからかっているようだと言わんばかりに。
「だって、真黒さんからも大空さんの『黒』が見えているのでしょう? 私からは大空さんの『白』が見えなくなりましたよ。ベランダの時も思いましたけれど、心配性なんですね、大空さん」
クスクスと、水鏡杰にしては珍しくからかうように笑う。友達ということで何か気持ちが吹っ切れたのだろうか。
僕の彼女の『黒』は見えてはいるけれど、別段変わった様子はない。僕が水鏡杰と固い握手を交わしたところで彼女の嫉妬心に火をつけたりなんかしていない。
「キミの『白』がどう変わったのかわからないけれど、彼女の『黒』に変わりはないよ」
「あたしの前であたしの『白』『黒』がどうだと言われるのは変な感じ。でも水鏡さん、水鏡さんが真黒くんと握手したことを言ってるのなら、本当にあたしは気にしてないんだけど?」
「え? で、でしたら何を――」
そこで、水鏡杰は僕たちとの意見の食い違いの違和感に気付いたのか、慌てて周りを見回した。僕もつられて周りに目を向ける。
水鏡杰はせわしなくあちらこちらに目を向ける。
その行動を見て、僕はなんとなく水鏡杰に起こった異変に気が付いた。水鏡杰自身が言った言葉に違和感を覚えた。
水鏡杰はしょこたんの『白』が『見えなくなった』と言ったのだ。
僕からすると、水鏡杰にしても、それはありえないことなのだ。水鏡杰自身も気が付かなかったのだろう。
あまりにも唐突過ぎたから。
「み、見えません! 何も見えません! 誰にも見えません!」
せっかく巡り合えたと思った同士。いや、同種。
人のために自分の『白』が見える特別な能力を惜しみなく使う純真無垢で聖人君子な水鏡杰。
そんな水鏡杰は、この日から『白』が見えなくなってしまった。
奪ったのは、僕だった。




