海賀絵美 Ⅴ
「失礼しまーす……」
恐る恐る、美術室の扉を開ける。海賀絵美ひとりならまだしも、他に誰もいないとは限らないのだから。
ここ美術室は校舎三階に位置している。屋上へ続く階段を上り、三階にたどり着いた正面にある。一年生の目もあるだろうが、気にしたら負けということで僕は一年の教室がある方を見ることなく美術室の前に立った。
放課後で、美術部という核がなくなってしまった美術室には誰もおらず、僕の目的だった『黒』も見当たらなかった。
普通の教室にある机よりも傷ついた、使い古された机が並び、端にはデッサンモデルである果物の模型やらが乱雑に置かれている。何か粘土臭さのような匂いが充満していて、床にはこぼれ落ちた絵の具のあとがところどころについていた。
その教室の窓際に異質なものがあった。ここが美術室ということであれば普通なのだろうけれど、普段からあまり目にかけないものだったからだろう、珍しいと思った。
ひとつの椅子と、ひとつのキャンバス。
海賀絵美が何か描いていたのだろうかと、僕は正面に回り込む。
真っ白いキャンバス。
これだけ言えば何か曲の題名みたいだけれど、何のことはない、何も描かれていない真っ白いキャンバスだった。それにしてもキャンバスって、紙じゃないんだな。知らなかった。まあ今はどうでもいい。
しかしまいったな。
海賀絵美が、『黒』がいないのならここへ来た意味がない。また日を改めるしかないのか。だけどなあ、今日はなんとなく勢いでここに来てしまったというのがあるからまた出直すのも気が引ける。
スマホを取り出し、壁紙、待ち受けを見る。
画面の左側を指で隠し、長い黒髪の少女を見る。
うつむき加減のために顔ははっきり見えないけれど、女の子という印象を受けるのが海賀絵美だ。どこか幼さを感じさせる口元で、恥ずかしそうにうつむいている姿が、女の子という感じだ。
先入観だけで言ってしまうと、こういう子がまっくろくろな『黒』を宿しているというのも不思議だと思ってしまう。いい子、という雰囲気なのだ。
だからと言って、いい子だからと言って『黒』がないわけではない。大空翔子だって表向きはとてもいい子、すんごいいい子だったのだから、人というものは何を考えているのかわからないものなのだ。
しばらく画面の少女を眺め、先日ダウンロードしたアプリで大空翔子の顔に落書きをしながら時間を潰していたものの、海賀絵美は現れなかった。ちなみに落書きしても保存はしない。万が一こんなことしていたのが大空翔子にバレてしまった時にはどうなるか知れたものではないからだ。
今日はやはり諦めて帰ろうと思っていたところで、ひとつの扉が目に映った。
準備室の扉である。
美術の授業で使う道具が保管されてある倉庫のような部屋だ。
もしかすると、僕がここに来たことに気が付いて、海賀絵美はあそこに逃げ込んだのかもしれない。人見知りだという性格から言ってありえないことではない。キャンバスが出しっぱなしにしてあるのに一向に戻って来ないことを考えれば、その可能性は高かった。
「ふう……」
僕は息を吐いて、準備室のドアノブに手をかける。ドアノブは回る。鍵はかかっていないようだった。
いよいよだ。
さあ、キミの『黒』を暴いてあげよう。
僕は静かに、扉を開けた。
「…………」
いなかった。
ごめんなさい。
自分の中では結構確信的だったのだけど、それらしい雰囲気で挑んだのだけれど、いませんでした。
僕は肩を落として周囲を見渡す。
狭い部屋の中に所狭しと置かれている教材やら石膏像。一見使い物にならないような画材道具なんかもあちらこちらに置かれていた。いろんな匂いが混じって埃っぽくもあり、居心地は悪かった。
まあ、一目見て誰もいないとわかる狭さなので、もうここに用はない。でも一応、一通り置かれている物を見てみることにした。美術部魂をたった一人で宿してここに通っている海賀絵美の私物でも置いてあるかもしれないと思ったからだ。変質者的な行為かもしれないけれど、僕にとっては何てことはない。だって僕は人の心を覗き見るのだから。これくらいちゃらちゃらへっちゃらなのだ。物漁りしている姿を見られてしまうと、さすがに困ってしまうかもしれないけれど。
あまり物的証拠を残さないように、物をあまり動かさないようにしながら調べる。
一通り見て特に面白そうなものもなく、成果もなさそうだと思ったところで、奥の隅の方で僕の目に止まったものがあった。この埃っぽく、使い古された道具たちの中で異彩を放つ、真新しい真っ白い布。それは何かを覆い隠しているようで、半分が棚と壁の隙間に突っ込まれていた。取って調べろと何かが告げる。直感的にこれは海賀絵美のものだと思った。これが何かもすぐにわかった。
キャンバスだ。壁一枚向こうでついさっき目にしていたからわかる。
僕はそれを傷つけないようにそっと抜き出す。そして覆っていた布を剥ぎ取る。姿を見せたものは何枚かのキャンバスだった。
「おぉ……」
自然に感嘆の声が漏れる。
うまい。
素人目の僕から言えることは単純なその一言だけれど、そう思わせて、声を漏らさせる絵画だった。
そしてこれは、やはり海賀絵美が描いたものだと確信できた。
想像通り、ご想像通り、描かれていたのは大空翔子だった。
他の絵も見てみる。
キャンバスに描かれていたのはどれもこれも大空翔子だった。
談笑している大空翔子、机に向かっている大空翔子、走っている大空翔子、跳躍中の大空翔子、と、なんだ? 水着姿の大空翔子……? 胸、あるけど……。
しかし本当にうまいもんだ。絵が生き生きしている。単純に見てみれば、単純にこの絵を眺めてみればそう思うけれど、みんなそう思うだろうけれど、僕は違う。
でもなあ、これじゃあ海賀絵美はまるで、
「ストーカーみたいじゃないか」
心臓が跳ね上がる。絵を投げ捨てそうになって寸でのところで止まった。
「そう思いますよね。そんなの、見たら」
海賀絵美。
まっくろくろの『黒』の中に浮かび上がる二つの瞳が、準備室の入り口から僕を見ていた。
「ひどいです、先輩。勝手に、見るなんて」
驚いた。びっくりした。人の気配に敏感な僕でも彼女が来たことに全く気が付かなかった。恐ろしいスニーキング技術である。うん、ちょっと怖い。
「これ、キミが描いたのかい? すごいね。思わず魅入られたよ」
「それ……もういいなら、戻してくれると、嬉しいです」
「ああごめん。悪かったよ。キミを探してたら、ここに迷い込んじゃってね」
僕は丁寧に布をかけ直し、キャンバスを直しこんだ。
「わたしを?」
「そうだよ、海賀絵美さん。僕はキミに会いに来たんだ」
「…………」
長い黒髪がゆらゆら揺れる。動揺しているのか、怖がっているのか、表情が読めないのでわからない。話した今の感じだと、おとなしいというか、暗い印象を受ける。大空翔子のせいで近頃忘れていた、元来僕が接触してきた人間はこういう人間だったのだ。妙な懐かしささえも覚える。
さて、本人に会えたことは会えた。不意打ちだったけれども。
さあどんなことから話そうか。
しかしまあ、まず先日の礼だけは済ませなくてはなるまい。
まだ湿布は貼り続けているんだ。
「僕を殺し損ねた気分はどうだい?」
さしあたって僕は、こう尋ねるのだった。




