海賀絵美 Ⅱ
夏休みも明け、一週間が過ぎた。
新学期初日、まっくろ黒だった生徒一同は、ようやく新学期生活に慣れてきたのか日焼け痕程度の黒さを披露するにまで至っていた。つまり平穏な学校生活に戻った。日常に戻ったということだ。
先々月に学校を賑わせた優等生も体の調子を取り戻し、偽りの友人らと仲良しごっこに勤しんでいるようだった。
残暑ならびに猛暑の残る九月。
僕にも等しく訪れた新学期。
決して誰とも交わることのなかった僕の学校生活にも変化が起きた。
言うまでもない、奴だ。
名前を挙げることも恐ろしい、かの有名な優等生の奴だ。
『約束通りひとりで来たよー』
まずは約束という言葉の意味を考え直した僕だった。おそらく僕にとって何の意味ももたないその言葉は、お互いにひとつの事柄の確実性を確認する言葉のはずだった。未来を決める言葉だ。お互いの信頼関係があってこそ成り立つ言葉だ。お互いに確認し合ってない場合はただの思い違い、勘違い、先走りの言葉だ。『黒』が見える僕にとって、この言葉は何の意味ももたない。ついでに誰とも信頼関係を築いていない僕にはこの言葉は何の意味も成さない。うん、この要因が大きい。つまりは一方通行で投げ放たれたこの『約束』という言葉は『強要』と捉えることができるのだ。まあ、一概にそう言えないけれど、僕と奴との間ではそうなってしまうのだ。こうなる以前に約束できるような事柄を話したつもりなんて全くなかったのだから。
まあ、『約束通り~』なんてことを言いながら僕の教室に入ってきた奴の手には弁当箱が収められていたのだった。
これまで僕が昼休み、昼食を食べる時にどうしていたかと言えば、それは机でひとりで食べていた。僕に友達がいないのはクラスメイトにとっては周知の事柄であり、昼休みが訪れるたびに教室から出て行くようでは、毎度憐みの眼差しを向けられてたまったものではないからだ。幸いにもこのクラスには僕以外にもひとりで昼食を済ませる奴が数人いたため、僕もそれほど目立つことはなかった。
奴がこれまで昼休みをどう過ごしてきたか知らないけれど、人気者の奴がひとりでうろついているのも珍しいようで、奴が教室にやってきた時には小さなどよめきが起きた。実際、僕も奴が単独行動している姿はあまり見たことがない。時の人ということもあっただろうけれど。
その奴が向かってきたのが僕の方だった。いやまあ、最初の叩き文句も僕に向かって放っていたのだけど。僕は頭の回転が速い方ではないけれど、学習能力がゼロではない。これに似た光景をすぐに思い出し、ついでに夏休みの間の記憶も思い起こし、すぐに席を立った。敵前逃亡を図ったのだ。
『どこ行くの?』
力いっぱいに腕を掴まれ行軍停止を余儀なくされる。今はもうはっきりと見ることができる奴の顔はすっごい笑顔だった。いろんな意味ですんごい笑顔だった。つまりは怖かった。
『ご飯、買いに行かなくちゃ』
そして僕はこんなことを言ったと思う。これと似たようなことを言ったと思う。多少可愛げがあるように脚色した。特に意味はないけれど。
『あるよ』
と、奴は弁当箱を掲げた。
よくよく見れば、二つあった。僕が持ってきた弁当と合わせて三つあった。
『はっはー。おいおい甲斐甲斐しいじゃないかベイビー。僕の弁当まで用意してくれたってのかい? でもそれならそれで教えてもらわないと。いくら僕でもおいしくいただける量には限りがあるんだぜい』
これと似たようなことを言った。いや、内容はまるで違ったかもしれない。
『言ったらあなた逃げるでしょ』
なんでもお見通しな奴だった。なんでも見透かされる僕だった。お見通されな僕だった。
こんなわけで、計画的犯行に及んだ奴の手により、僕は周囲の視線を浴びる中で奴の弁当を平らげる羽目になったのだ。
ちなみにまずくはなかったので感想を求められた時にはおいしいと答えた。
この次の日から、僕は昼休みになると教室を抜け出し、誰もいない場所で昼食を済ませることになってしまったのだ。教室内の喧騒は僕にとって数少ない情報収集の場であったために、この事態は僕にとって非常に面倒なことだった。
そんなことが新学期二日目に起こり、今日はそれから一週間後。
「やっと見つけた」
奴に見つかった。
メールで場所を尋ねられても徹底的に無視していたのに。
「毎日おべんと持ってきてたのに」
「さて、と。えっと、なんだったかな。たしか担任に呼ばれてるんだった」
「別にいいでしょ。ここなら他に誰もいないんだから。あの時はさ、あたしもやり過ぎたって思ってるの! あのあとあたしだって……その……いろいろ、か、勘違いされて大変だったし」
ここは階段を上り切った屋上の出入り口前の踊り場だった。目の前の大空翔子が飛び降りたおかげで屋上が封鎖され、それから誰もここには近づかなくなっていた。
「僕だって珍しくクラスメイトに話しかけられて大変だったんだ。キミと付き合ってるのかって聞かれてさ」
「うん。悪かったと思ってるよ」
そして彼女は僕の横に座って弁当を広げ始めた。広げながら言った。
「それで? あなたは何て言ったの?」
「僕の答えはこうさ。ご想像にお任せするよって」
「えっ!?」
「続けてこう言ったよ。『想像できたかい? 思っただろ、ありえないって。その通りだよ』ってさ」
アメリカンジョーク的にげらげらげら。
「ふうん。口ごもってるところを見限られて『やっぱりありえない』ってあなたに聞いたのが馬鹿らしくなるような感じで言われたのね可哀想」
「あまり正しいことばかり言う人間は嫌われるよ、キミ。それと一息で言うな」
それと見透かし過ぎだ。
「真黒くんに限ってそんなこと言えるの、ありえない、から」
それは自覚してたりする。
「でもキミさ、あんなことしてたら本当に友達がいなくなるよ。僕のことを人避けにするなんて言っていたけれど、本当に誰も寄り付かなくなって僕みたいになったら嫌だろう?」
僕がそう言うと、彼女は箸を置き、咀嚼していたからあげを飲み込んでから鋭く僕を睨み付けた。
「そんな友達なんていらない」
「……うん?」
それはどっちのことを言っているのだろう。僕のことを言っているのか、それとも……。
「あたしが真黒くんと話してるだけで距離を置くような友達なんていらない。そんなの本当の友達じゃないと思う。だってあたしはあたしだもん。真黒くんの……と、友達! の、あたしも、あたしだもん」
「あ、ああ、そう……」
よくわからないけれど、本人がそれでいいならいいのだろう。そもそも僕が彼女の交友関係まで気にする必要もないのだし。でも、ぼっちの真黒くんの相手してあげるなんていい人だね翔子ちゃん、となる可能性だって十分にあるんだけど。
「ところでさ、どうして真黒くんってひとりなの?」
「どうしてって言われてもなあ」
「真黒くんって自分から話しかけないだけで、別にみんなに嫌われてるってわけでもないんでしょ?」
「不気味がられてるとは思うけどね」
「そこだよね。自分から距離を置いてるからそう思われてるんだよ」
それはわかってる。そういうふうに振る舞っているのだからそう思われて当然だ。そう思われようとしているのだから。
「わかるだろ? 僕は人と話すのが苦手なんだよ」
「でも今は普通に話してるでしょ? どして?」
なんだよその興味津々って感じは。
「も、もしかしてあたしが特別だからとか?」
特別か。彼女の『黒』に興味があったから近付いたということであればそれは特別なんだろう。でもその話ももう終わったこと。僕の彼女に対する興味も失われた。なのになぜ彼女がまだ僕の目の前にいるのかといえば、それは彼女が近付いてくるからに違いない。そして彼女の『黒』を知ってしまっているが故に、僕は彼女と普通に話せているのかもしれない。彼女が僕に近づいてくる理由としては簡単に説明できる。それは出会った当初と変わっていない。僕は彼女の本音のはけ口。何を言っても平気な相手だからだ。光栄なことであり、迷惑なことでもある。僕に癒しを求められても困るのだ。
「キミは子供っぽいからね」
「それはあたしの体型のことを言ってるのかー!」
「そんなことは言ってない。それに発育のいい子供だっている」
体型がコンプレックスなのか。ちゃんとくびれてるけどな。
「うわ、ちょっと本気で引いちゃったよあたし」
「キミだってまだ成長期は終わってないはずぅわ!」
彼女の箸突が繰り出される。今は片手だけれど双剣使いに変わらないことを願う。
「このっ! ロリコン! ロリコン! ロリロリコロン!」
「イメージだといちご味だね」
大人になるとサワークリーム味だ。甘酸っぱい。
しばらく箸で遊んでいたしょこたんは、そのうちに箸を落としておかずを手でつまんで食べる羽目になった。彼女には何度も言った自業自得である。
「でも真面目な話、真黒くんって将来どうするの? そんなんじゃ何の仕事もできないよ?」
緩急の差が激しいなぁ。
「僕は保育士になりたいんだ。保父さんだね」
「…………冗談でしょ?」
真顔で言うな。真剣に心配そうな顔で言うな。
「嘘じゃない。子供は嘘つかない。これ世界の常識。それとロリコンだからとかいう理由じゃないから」
「それが理由なら通報するよ。でも、あたしって嘘ばっかりついてたしなー」
「そんな子供は嫌いだ」
「えーっ……真黒くんって子供好きなの?」
「子供は無邪気でわがままだからね」
「うん、まあーそんなところが可愛いって思う人もいるだろうけれど」
「キミも言ってたじゃないか。わがまま言わない子供なんて可愛くないって」
「よく覚えてるね。ふうん、そうなんだ。えっとー、じゃあさ、真黒くんって結婚したら子供たくさん欲しい人なの? あ、あたしもさ、賑やかな方がいいかなって」
「いや、全然。自分の子供なんていらない」
「えっ! なにそれっ!」
「だって自分の子供だったら大人になるまで面倒見ないといけないじゃないか」
「当たり前じゃん!」
「そんなのごめんだね」
「もうわけわかんないよー……」
自分の子供に『黒』を向けられるなんて耐えられない。だから子供だけを相手できる保育士がいいのだ。自分の欠点をあまりさらすことなく仕事ができる夢のような職場だ。
「でも保育士も大変なんだよー。どちらかと言えば子供の相手よりも保護者さんの相手が」
「わかったよ。僕が目指してるのは孤高の作家だ」
しょこたんはぶんぶんと首を横に振った。
「もう主夫しかないね」
「それは無理だよ。まず結婚しないといけない」
「いい人探すんだよー。そうだね、何でもできるような優等生のような人がいいよー。社交性もあって知的で毎日お弁当なんて作ったりしてさー。うんうん、それがいいよー」
「キミみたいな人だね」
「え? そ、そーお?」
「でも弁当自分で作るなら主夫いらないじゃないか」
「し、失敗したぁ!」
しょこたんは頭を抱えてうずくまった。ちなみにその先には彼女の弁当があったのでハッと顔を上げた時には可愛いおでこにご飯粒がついていた。今更だけど、素手で白飯を食べるつもりなのだろうか。箸を洗えば済むことだけど。
「あ、あの、持ってきてたお弁当ね、実はお母さんに頼んで余分に作ってもらってたの。あたしって本当は料理できないから」
「えっ? 僕が言えた義理じゃないけどあんなことしておいて親に余計な負担かけたらいけないよ。ちょっと待って、せめて食材費くらい払うから」
「ち、違うの! どうしてそんなとこだけ律儀なの! もう帰るー!」
と、しょこたんこと大空翔子は空を飛ぶ勢いで去って行った。リハビリも順調のようだった。こんな場所で多少不謹慎な発言だけど彼女にぴったりの表現だった。
「さあて」
どうしよう。
この食べかけの弁当は。
僕はもう済ませているのでいらないし、いくら知った仲の彼女とはいえ女子の食べかけの弁当を綺麗にするというのもどうかと思う。
なので弁当箱のふたを閉めて彼女の下駄箱に入れておくことにした。
教室まで届けてやる勇気はない。
大空翔子の下駄箱を探すのにもいろいろと勇気がいるものだと思いながら階段を下りていたところで、何かの衝撃が僕の体を伝った。
一瞬では理解できない事態で視界が反転、回転し、視界が真っ暗になった時にようやく階段を転げ落ちたのだと理解できた。
その日、僕は大空翔子に弁当箱を届けることができなかった。
以前とは真逆の展開。
幅跳びで崖を飛び越える大空翔子と、崖を転がり落ちる僕の夢を見た。
笑えなかった。
全力で駆けて行ったしょこたんのおでこに、ご飯粒がついていたことを教えてやらなかったことを悔やんでいた。
あとが怖い。
笑えなかった。




