大空翔子 後日談
大空翔子の病室を訪ねてから約一か月が過ぎた。
彼女の噂も落ち着き、校内で彼女の話しを聞くこともあまりなくなってきた。それでもまだ話題の一部をかっさらっているのがやはり大空翔子なのだろう。あれから彼女の友人らも教師らも見舞いには行ったようだけど、その時にどんな会話が交わされたのかはわからない。
僕はあれ以来彼女の病室を訪ねることはなく、彼女も学校へは戻ってきていないので今の彼女の様子はわからないのだ。
大空翔子の件はあの時に終わったのだ。
彼女の悩みを聞いた。聞き役には適していない僕だったけれど、それでも彼女は僕だけに話すということだったので、僕の目的は達成された。
彼女の『黒』の原因を知るただ一人の人間と成り得た。
もっとも、あの後に彼女が他の誰にも話していなければの話しだけれども。
まあ……なんだそりゃ、というのが正直な感想だった。
贅沢な悩みだなあ、と。
彼女のことは正直にすごいと思う。尊敬できる。
僕とは真逆なのだから。
彼女は彼女の力で両親の不仲を解消させた。まあ、子供がそこまでやるなよとも思う。僕は両親の壊れていくさまをただ見ているだけだった。それが自然だったし、それをどうしようとも思わなかった。だから彼女を尊敬できるし、理解できなかった。
彼女が今後どうなっていくのかあまり興味はない。
もう彼女の『黒』の中身は全て知ってしまった。『黒』がなくならなかったら今までと変わらず、なくなったら彼女の悩みは解決したということだろう。
それはもちろん、彼女自身で解決したということだ。
彼女の件に関して僕がどう言ったところでどうしようもない。僕は精神科医ではないんだし。飛び降りる前にできることなんていくらでもあったと思うけれど、当然彼女もそんなことはわかっていたはずだ。素直に自分はこういう奴だと、無理をしているんだと、騙していたと、そんなことを言ってやればいい。でもそれができないからあんな手段を選んだ。
人のせいにしようとして。
生まれ変わろうとして。
でももしかすると、飛び降りたことは正解だったのかもしれない。それで彼女はもう陸上ができなくなった。彼女に期待しようとしてもできない状況になった。真剣に陸上に取り組んでいる奴からすると、彼女のとった行動に怒り心頭するだろうけれど。それでも誰も彼女の心の内はわからないのだから仕方がない。お前ならどうしたと誰が問われても、口だけならどうとでも言えるが彼女の気持ちは誰にも推し量れないのだから。
彼女自身が後悔しないのなら何をしたっていいと思う。
ただ、僕には一つ疑問が残る。
彼女は自分がわからないと、生まれ変われるかもと吐露していたが、果たして本当の彼女とは何なのだろう。僕の前で見せたあの大空翔子が本当の彼女なのだろうか。本音で、本心で話していたとは思うけれど、長らく大空翔子として生きてきたのは、友人らの前で、大衆の前で見せていた大空翔子なのだ。建前で、偽りだけで生きていたのなら、それはもう本物になっていたんじゃあないかと。根本にあるものは、僕が話していた大空翔子なんだろうけど。僕が考えたところでどうなるものでもないのだけれど、まあ、どうなのだろう。これは本人にもわからないことかもしれない。だからこそ悩み、決意したのだから。
疑問は今後の彼女をたまに見かけることで僕なりに答えを出して行こう。それが僕の彼女へのただ少しの興味となる。
誰だって本音をさらけ出すだけでは生きていない。誰だって周りに合わせ、自分を偽る時もある。大空翔子は常時、それが常日頃、自分すら偽っていた、という話だった。
さて、僕も次の『黒』を見つけないとならない。
僕の趣味はその悪いことしかないのだから。
しかしながら、もう明日から夏休みに入ってしまう。それはそれは退屈なひと月半がやってくる。
今日は終業式だ。
みんなの『黒』が一番薄らぐ時でもある。二学期が始まった時にみんなの『黒』がどうなっているのか、それだけが今の楽しみだった。
そんなことを考えながら僕が一学期最後の朝の習慣を慣行していた時、思ってもいなかったものが目に留まった。
大空翔子だった。
松葉杖を両手に、必死に歩きながら校門に姿を現した。
僕が彼女だと認識できたのは、その容姿と、松葉杖をついて歩いている姿を見たからだ。
もう、『黒』だけで大空翔子と言えなかった。周りの生徒と比較すると少しばかり大きい『黒』だけど、以前からするとずっと小さく薄くなっていた。
周りに友人の姿はない。待ち合わせをしていなかったのか、彼女が友人に何かを話したのか、友人が距離を置いているのかまではもちろんわからない。
大空翔子は一人だった。
周りから向けられる様々な視線には気にする様子も見せず、一人で昇降口に向かっていた。
僕はその様子を見届けたあと自分の席に着き、廊下へ視線を向ける。
しばらくして、以前よりも倍以上の時間を待って、大空翔子が目の前を通りかかる。
彼女の傍らには前にも見た友人が付き添っていて、彼女の鞄を持って教室へ向かうのを手伝っているようだった。
以前、彼女が言葉を濁したことを思い出す。
「前と変わらずか、それとも本当の友達が見つかったのかな?」
大空翔子の背中に一人呟いた。
彼女は僕の方を見ることはなかった。
彼女が通り過ぎたあとに静観していたクラスメイトがざわつく。それは教師がやってくるまで落ち着くことはなかった。
終業式は滞りなく終わり、ホームルームを終えた僕は足早に教室を去る。
いつもながら、夏休み前の浮かれムードには慣れない。誰よりも早く学校を出て、静かに家路に着くのだ。
そして昇降口までやってきて、僕は目を丸くした。
靴箱の横に大空翔子が立っていたのだった。
でも、僕はここで彼女にかける言葉を持ち合わせていなかった。
僕と大空翔子の関係はあの病室で終わったのだ。
彼女の視線は感じていた。けれど僕はそれを無視して、上履きから靴に履き替えた。
そして出て行こうとする時に、
「ちょっと」
声をかけられたのだった。
なぜか、少しだけ胸を撫で下ろす僕がいた。声をかけられて安心してしまったとでもいうのだろうか。話しかけられたかったのだろうか。
この僕が? ありえない。
でも、彼女から声をかけてきたのだ。立っているだけでもきついだろうに、その貴重な時間を僕に話しかけることに使ったのだ。それならば、答えなくてはならないだろう。一応、知人として。彼女の悩みを知っている者として。
いろいろと理由をつけなければ話すこともできない僕は、自分が恥ずかしくて情けなかった。
僕は振り返り、一月半ぶりに彼女と目を合わせた。髪が少し伸びて、今日は太陽のヘアピンをつけている。オレンジがアクセントだ。気分は晴々ということだろうか。まさか。
「やあ、久しぶりだね。もう退院できたのかい?」
「ほんっと、久しぶり! あれ以来たったの一度もお見舞いに来ないなんて!」
どうやらご立腹の様子だった。いや、これは表情を見てわかってはいたのだけど。
以前の癖だ。
「この前だって僕は別にお見舞いに行ったんじゃないよ?」
「またそんなこと言う。今日は終業式で夏休みに入る前にみんなの顔見ておきたかったから、無理言って来たの」
そんなことを言いながら、彼女は自分の鞄をまさぐり始めた。取り出しにくそうだったので手伝おうかとも思ったけれど、女子の鞄を扱うなど僕には恐れ多いことだったので黙って見ていた。
「これ」
取り出したのは寄せ書きの色紙だった。見覚えがある。どうやら僕のクラスのものらしい。
「あなたの探すのに苦労したんだから」
「それは僕に言われても困る。書くスペースを残してくれなかったクラスメイトに文句を言って欲しいな」
「名前も書いてないし」
「スペースがね」
「でもすぐにわかったよ。フライングだよね。どっちにしろ、用意してくれてたんだ」
「…………」
「あたしの悩みを聞く前なのにあの時とおんなじこと書いてるなんて、あなたってホントに不思議」
「何のことかさっぱりだよ」
「んん? 読んであげよっか? キミは――」
「あー! わーかった! わかったから! 目の前で読まれるのはさすがの僕でも照れ臭いからやめてください!」
「ふふーん」
「確かに自分の書いたことを引用したよ。悪かったね」
僕がそう言うと、彼女は満足げに笑った。
「ううん。逆にね、その、嬉しかったっていうか。ああ、わかってくれてたんだなって」
「わかってないよ。わからないよ。常套句だって言ったろう?」
「よく聞く言葉でも、自分が言われると励みになるんだって思ったよ。でも普通に聞くかなあ? ドラマの見すぎじゃない?」
「もういいから。それ言いたかっただけなら僕は帰るよ。みんなのお祭りムードに巻き込まれたくないんだ」
「そんなことだろうと思って足を理由に早退して待ってたんだから」
「うわお」
相変わらず鋭すぎるだろ。僕が見透かされやすいのだろうか。
それから彼女はまた不機嫌面になり、手を差し出してきた。
「スマホ……」
「えっ?」
「音楽聴いてた。それだけにしか使ってないだろうけど、持ってたでしょ。ケース使ってる?」
「あ、ああ、うん。一応。って聞き捨てならないな。僕だって一応電話の機能だってたまに使う」
「見せて」
「いや、別に飾りっ気もないごくごく普通のやつだけど」
「落ちた時にあたしの壊れたから。次の買う時の参考にする。質感とか」
「いや、ゴムっていうかシリコンっていうのか」
「いいから見せなさいよ!」
「わ、わかったよ……」
渋々、僕はスマホを取り出し彼女に手渡した。悔しいけれど、音楽を聴くこと以外に用途はない。
「ふーん……。うわー、ホントに誰の連絡先もない」
「ちょ、勝手に見るな! 連絡先は記憶する主義なんだよ!」
「今さら何見栄張ってるの? はい、ありがと」
見栄を張るのは、指摘されたのが悔しかったからに他ならない。
彼女から返してもらったスマホの画面には、何かが表示されていた。
「これは……」
『しょこたん』と表示されていた。
「あたしの連絡先、登録しといたから。あなたのはあとでメールしてね」
「いや、ちょ……壊れたのでは?」
「そんなの嘘だし。その名前で登録しとけばさ、誰かに見られてもアイドルの名前入れて妄想してるんだって思われるでしょ?」
「思われたくないし」
なんだこれは。こんなもの、僕には必要ない。即刻削除だ。
「消さないでよ?」
彼女は言って、松葉杖を振り上げた。それは歩行を補助するためのものであって決して武器ではなかったはず。いや、性格はあれだと思っていたけれど、暴力にまで及ぶとは思ってもいなかったんですが。
「もし今日中にあなたからメールが来なかったら、あたしが飛び降りた理由をあなたのせいにして警察に話すからね」
「うわお……」
「そのうえで捕まったあなたの面談にあたしの友達を全員連れて行っていじめてあげる」
「わーお……」
僕は後悔していた。
関わり合いになるべきではなかった。
全てにおいて甘かったのだ。
「わ、わかりました。でも、理由くらいは教えて欲しいな」
「あなたを利用させてもらうね」
「僕を利用?」
「あたしが友達になってあげる」
うーん、理解不能。
それがどう転んで僕を利用することになるのだろうか。いや、考えるまでもない。僕に友達はいらない。相手が誰であれ。僕はひとりでいい。
だからもちろん、僕はこう答えるのだ。
「いや、遠慮しとぐぅ!?」
どつかれた。もちろん松葉杖で。散々だった。
「あなたを人避けにしようと思って。あなたと一緒にいたら、誰も寄って来なくなると思うんだよね」
「そ、そんなのごめんだね」
彼女はまた松葉杖を振り上げた。これはもう本当の自分を取り戻したどころか幼児退行現象の類じゃないだろうか。
いやしかしまあ、身体は成長しているものなのだ。
振り上げた松葉杖に彼女のスカートが引っ掛かり、めくれた。
オレンジのパンツだった。
もちろん彼女もそのことに気付いていた。
言い逃れはできなかった。
「ヘ、ヘアピンとのコーディネートだったんだね」
今日は終業式。
友達ができた。
夏休み初日、僕は病院に行くことになった。




