海へ出る
俺は海へ出る。漁師だから。
父もそうだった。
かなりな荒天でもないかぎり、海へ出て、魚を獲って戻ってきた。
俺と、母の待つ陸へ。
海から戻ると、父は魚を市場へ売り、舟を整備し、家で網を繕うか、そうでなければ眠っていた。
母の作った飯を食い、酒をちびちび啜り、とくに面白おかしい会話をするでもなく、家では道具の手入れをするか、でなければごろごろするばかりの父であったけれど、俺はそんな父が、嫌いではなかった。
とくに可愛がられた、という記憶はない。といって厭われていたようでもなかった。適当な距離感が好もしかった、母と比べて。
母は煩わしい存在だった。まあ長じた今にして思えば母とは、おしなべてそういうものであろうけれども、やれ、あれをしろ、それをするなと、口やかましくてかなわなかった。俺にだけではない。近所の女連中との井戸端会議のかしましさと言ったら。そんな母が、なぜか父の前では余計なおしゃべりを慎んで、しおらしく世話を焼いているのがおかしかった。俺へのしつけは父の前だろうが陰日なたなかったが、父への態度はあきらかに、他の誰へ対するのとも違っていた。
母をそうさせる父は、なんだかわからないが凄い、と思った。
それに、海へ出るときの父。舟を操り、ひとり海原へと漕ぎ出す後ろ姿。
惚れ惚れした。と同時に茫漠とした寂しさもおぼえた。
帰りは、いつになるか、いつも、わからなかった。
その日に戻ってくることもあれば、数日もどらないことも。天候を読み、風を読み、海を読み、五感を、おそらく第六感も駆使して、計画は父の胸ひとつに秘めて漁をしていた。
母は、父の帰りをただ待ちわびてなぞいなかった。
俺にあれこれ指図し、近所の女連中と快活なやりとりをし、飯を炊き、掃除をし、洗濯をし、魚を干し、畑を耕し、夜はああ疲れたと言うが早いか、ことりと眠ってしまう。
「ねえ母ちゃん」
もう半分くらい夢の世界へいきかけた母へ、無理やり問うたことがある。
「母ちゃんは、父ちゃんが心配じゃないの」
心配なんか、しても仕方ないだろ。
それが返事。すぐ寝息が聞こえてきた。なるほど、母は正しい。日中あれほど明るく忙しく立ち働いていた訳。こうして、眠りにおちるため。不安を寄り付かせないため。なるほど母は、かしこい。
俺も、それに倣おうと思った。思ったが子供にはもてあますくらいの時間がある。遊ぶのにも手伝いをするにも、それほど根気が続かない。気づけばぼんやりと海のほうを見やったりしている。このままでは駄目だと思いなおした。だから戻ってきた父へ願い出た。俺も海へ連れて行っておくれ、と。六つの頃だった。
「早すぎるよ」即座に母が反対した。
父はしばらく黙考したのち「おとなしくしていられるか」と聞いた。
「あんた」と母。
「うん」と俺。
ほぼ同時。
俺ひとりの言い分であればねじ伏せられたであろうが、父が決めたこととなれば、母は否を唱えぬ。
「気をつけてね」
送り出す、いつもの言葉。その日はいつもの倍の重み。母の、俺と父に対する。
その日ばかりは母とても「心配なんかしても仕方ないだろ」と、うそぶけたかどうか。
とはいえ当時の俺はといえば、眼前にひろがる大海原に心うばわれるばかり。母の心情など慮ってはいられなかった。陽は銀色に輝き、波もそれを受けてきらきらと光をはじく。浜は凪いでいたが沖へ進むにつれ、うねりが増してきた。
「ほら」父は俺に、木桶を手渡した。
「なに?」と訊ねると「船酔いしたら、それへ戻せ」と答えた。舟のふちへ寄って海へじかに吐こうとするな、落ちるといけないから、と。
「ふなよい?」俺は真剣に問うた。
「おまえ、酔ってないのか」と問い返されたので、首をかしげたら、めずらしく父は笑顔を見せて「頼もしいな」と俺の頭に手を置いた。とにかく気分が悪くなって吐きそうになったらそれへ出せ、と言い聞かせてから、父は仕事に没頭した。俺はその様子を、邪魔にならない場所に座らされて見守った。
「ねえ父ちゃん、なにやってるの?」
父は俺を指先一本立てただけで、黙らせた。振り返りもしない。静かにしてろ、質問は無しだ、背中がそう言っていた。
おとなしくしていられるって、おまえ、言ったよな。
その背は俺を、ほとんど恫喝していた。もう後は木桶を抱えて文字どおり、おとなしくしている他なかった。本当は、父の一挙手一投足の意味をいちいち訊ねたくてうずうずしていたのだが。父は天を仰ぎ、海を見渡し、風を受けて、潮の匂いをかぎ、鳥を観察し、舟を進め、餌をばら撒き、網を投げた。それからしばらく動かなかった。この不動の間が、とてつもなく長く感じられた。話しかけてもいいだろうか、なにもしてないんだから話しかけてもいいんじゃないだろうか、でも……と逡巡してるうちに、父は次の動きを見せた。
話しかけなくてよかった、と俺は胸をなでおろした。父はなにもしていなかったのではなかった。待っていたのだ。計っていたのだ。網を引き上げる瞬間を。
魚は手持ちの箱へ山盛りに詰まった。金、銀、赤、青、箱の中でぴちぴちとはねるウロコがきらめくさまは、魚というよりまるで財宝の一塊。
「すごい」と俺は思わず口走った。叱られるか、ひやっと肩をすくめたが父は機嫌よく「これを片付けたら飯にする、待ってろ」と言って慣れた手つきで網をさばいた。その後の飯というのが、素晴らしかった。俺とて漁師の子、いいかげん新鮮な魚を食ってきたが、とれたての刺身の美味さは格別。こんなものを食い続けてはいずれ罰が下るのでは、と畏怖の念に駆られたほど。
「うまいか」と聞かれて「うん」と答えた。父にはそれで十分、通じた。
「今日みたいな日は、なかなかない。たった一回でこんなに獲れるなんてな。おまえは験がいい」と、そこで不意に眉間のあたりを曇らせて「良すぎるかもだ」と付け加えた。
俺の不思議そうな顔色を読んだか、父はみずからの言葉を打ち消すように「さて、帰るか」と腰を浮かせて伸びをした。その姿勢のまま、固まった。視線は海上で凍り付いている。俺は父の視線の先を追った。そこには海亀が出現していた。
でかい。ばかでかい。なんてでかいんだ。俺は背中に乗れると思った。甲羅には苔が生え、尻尾には仙人めいた髭がたくわえられていた。拳大の眼がおれを見て、ゆっくりまばたきをした。誘われた、と思うまもなく、引き寄せられた。
そっちへ行くな、と父の声がしたが、亀の瞳に吸い寄せられた。亀が海中へ没しようとした。俺はそれを追いかけ、海へ。
「りんたろう!」
鱗太郎。だれだろう。自分の名前だとは認識しなかった。冷たい、と感じたのは一瞬。海水はすぐ肌になじんで、ねっとりとやさしく、まとわりついた。呼吸も、まるで苦しくない。上も下もわからない、でもそんなことはどうでもいい、海の中。頭上に巨大な海亀の影。落ちているのか、昇っているのか、でももうそんなことはどうでもいい。ただあいつの背中にしがみつくこと、それだけが大事で。
連れて行っておくれ。あそこへ。ほら、きれいな大きな屋根が幾層にも重なって見える、海の底。赤いね。ぴかぴか輝いているね。欄干にひらひらと揺らめいているのは、おひめさまの衣かな。
夢見心地の俺の腕を、人間が掴んだ。乱暴に。こぼ、と不快な音がして、海水がのどに流れ込んできた。必死にもがく。海亀が遠ざかる。やめろ。はなせ。はなせ。はなせ。おれの邪魔をするな!
人間の大人の男は俺を引きずって、海上へ顔を出させた。俺は大量の海水を吐き、かわりに空気を肺へ送り込まれた。海へ落ちたときは思わなかった。海から引き上げられてから思った。死ぬ、と。
人間の大人の男は、父だった。父は俺を強引に舟へと押し上げ、それから自分も這い上がって、ぜいぜいと苦しげな呼吸を繰り返しつつ、仰向けに横たわった俺へとおおいかぶさって「おまえ、見たのか」と言った。次に「おまえも、見たのか」と。
なにを、とは問わなかった。わかりきっていたから。あれだ。
竜宮城。
では、父も見たのか。それも問わなかった。わかりきっていたから。
俺は、ただ、咳き込んだふりをして、少し、泣いた。
海へ落ちたことは、母には秘密にしておいた。暗黙のうちに俺も父も。
それ以来、俺は海へ行きたがらなくなった。父も、連れて行こうとはしなかった。父は俺を漁師にはしたくないようだった。なんとか工面して上の学校へやりたがったが結局、叶わなかった。父の数少ない友人のひとりが借金を踏み倒し、連帯保証人にされていた父がそれを肩代わりしたからだ。こつこつ貯めた金は、それに消えた。
俺は十六になっていた。もう選択の余地はなかった。海へ出て、漁をするしか。家業を継ぐしか。
この期に及んでも母は父を責めたりしなかった。が、今回の不祥事は身から出た錆と父本人が骨身に染みていて、とうとう観念するような形で、俺に漁師のいろはを教え込んだ。他の漁師が知らない、父独特の法則があって、それをことごとく伝授してもらった。俺は筋がよかったが、父はそれを喜ぶでもなく。親鳥が雛に餌を与える、それを人はどう見るだろう。かいがいしく世話をしている、と思うだろうか。俺はそうは思わない。あれは本能に突き動かされてしていることだ。愛情とか、といって損得などでもなく、ただ、本能のままに。父の漁法の伝え方はまさに俺が感じる雛に対する親鳥のごときものだった。
親鳥の思惑がどうであれ、雛は育ち、巣立つ。それでいい。それこそが肝心なのだ。俺もひとり立ちすることができた。十八になる頃には、すっかり。あんたたち親子がふたりして獲りあさったら、この界隈に魚はいなくなっちまうよと軽口を叩かれたりした。軽口が悪口になる前に、世間の怖さを少しは知った父が引退を決めた。引退を決める前に、ちょっとした通過儀礼があった。晩酌の席で、父は唐突に切り出した。海亀の話を。
「……亀?」俺は、とぼけてみせた。とんだ猿芝居。ほんの気休め。けれど父にはそれが必要なのだ。俺も、父のように、海へ出たなら必ず帰ってくるという約束が。海亀の誘惑には負けない、という不文律が。
正直なところ、おれには自信がなかった。父が陸へ戻ってきた理由、それは俺と母。俺は……父母は無論、好きだ。好きだし、大切にすべきだとわかっている。だがあの海亀が俺ひとりのとき舟べりへまたのっそりと現れて大きな黒目で俺をみてゆっくりまばたきをしたなら、断れるだろうか。
板子一枚下は、地獄。よく言われる。しかし俺は見た。あの下にあるのは。あれは。
竜宮城だ。
父母への思いは果たして俺を陸へとどまらせておいてくれるか。不安が残る。それでも海へ出る。出ないわけにいかない。海が呼んでる。海亀が。竜宮城が。そんなふうに海へ陸へと綱引きをされながら暮らしているわけだが、近頃ではさらに悩ましい存在が気にかかる。
枷椰は昔から近所に住んでいて、子供の頃は転げまわって共に遊んだ仲だった。いまや声も匂いも身体つきも、女らしさが溢れかえって。だのに幼馴染みの気安さが抜けず、見かければ鱗ちゃんりんちゃんと屈託なくにこにこと駆け寄ってくる。海女として働いているが、海からあがったばかり薄着がさらに透けてみえるような格好でそうしてこられた日には、目のやり場にも困る。なにかの策略か、とまで勘繰ってしまう。
なにかの。俺を陸につなぎとめておくための。そんな邪推が頭をよぎると、却ってなにか意地になるようで竜宮城へと魂が飛んでいきそうになる。とはいえ枷椰は文句なく愛らしい。髪は芳しく日に焼けた肌はハリがありつやつやとして海からあがったばかり水滴が宝石のように身を飾るそのさまはまるで、枷椰こそ竜宮へ連れ去られてもおかしくないような艶姿でさえあるのに。
俺よりもっとずっと頻繁に海中へ潜りながら、枷椰は連れ去られたりなど、しない。
竜宮の住人たちはもしかしたら枷椰に魅了されているかもしれないが、枷椰は竜宮に魅了されたり、しないから。枷椰は俺に魅了されている。こんな男のどこがいいのかわからないが、竜宮よりも俺がいいらしい。
翻って、なぜ俺は。枷椰が思ってくれるように、思い返してやれぬのだろう。相変わらず魂の半分は竜宮城へ持っていかれたまま。まずいことに枷椰に惹かれるおのれを自覚するごと、恐れを感じて海亀の再来を心待ちにするような、ありさま。
これでは父の二の舞をふんでしまう、などと。
陸にしばりつけられようとする自分をにくむ気持ちまで涌いてくる。
今日、俺は海へ出る。今日、海亀はやってくるだろうか。
明日も、俺は海へでる。明日、海亀はやってくるだろうか。
俺はそれを待っているのか、待っているとして、どうしたいのか。誘われたいのか、断りたいのか。
断ち切りたいのは、どちらだ。海か。陸か。わからない。わからないまま。
今日も、俺は海へ。
裏タイトルが『海へ出たっきり戻らないかもしれない話』でした
感想プリーズ、って、書きにくいかな、えへへ。