第3話
吐き気が収まっても僕は暫くの間トイレから出なかった。
アリアと顔を合わせたく無かったし、もう一言でも何か会話するのが億劫に思えたから。
・・・嫌な奴。
アリアを傷付けたのは僕なのに。
「はは・・・」
蔑みにも似た気持ちで自嘲する。
ほんと、素の自分って嫌な奴だ。
「くしゅんっ」
軽いくしゃみの後、肌寒さを感じている事を自覚する。
そういえばバスタオル1枚の下は何も着てないんだ。
「寒・・・」
このままだと、いい加減風邪を引いてしまう。
無論夕食を食べる食欲など無いから、2人が部屋から出てる間に先に帰って寝ておく積もりであるがタイミングが解らない。
だが埒もあかないので、少なくとも着替えだけは済ませておこうと脱衣場の扉を開けた瞬間──僕は酷く後悔した。
「・・・・・・」
何でまだ居るんだよ・・・
アリアは奥の方の椅子に座り、ずっと僕を待っていた。
前方の時計は7時半を差していたから、もう1時間以上はここで待っていた事になる。
僕は必死に動揺を抑えて、新しい服に着替え始めた。
──何考えてんだ、自分の夕食の事考えろよ。遅れたら食べれない事知ってるくせに・・・
自分がお門違いな言い分をしている事位判りきってる。
だけどやはりアリアには居て欲しくなかったし、この事で逆にアリアが僕の事を気にしているとしたら自分は辛い。
着替えを終えた後、どうすれば良いのか分からず立ち止まっていた。
何か声を掛けるべきなのか、それとも帰るべきなのか──否、どちらにしても謝るのが先である。
「ごめん」
だが、その台詞を吐いたのはアリアの方だった。
「・・・え?」
きっと今の自分の顔を鏡で見れば、酷く呆けた表情をしているだろう。
「賢治を傷付けた」
──何を言ってるんだろう・・・
確かにアリアの言葉は耳に伝わっているのに、脳がその意味を変換出来ない。
彼が何で、ごめん、と言ったのか僕には理解出来なかったから。
「・・・・・・」
彼の瞳からはもう、尖った氷柱の様な冷たさは感じられなかった。
只、無表情な顔にもどこか悲しげな雰囲気を漂わせ、僕の反応を静かに待っている。
その態度が余りにも居たたまれなくて、彼の真意を探ろうと思えば思う程、自己嫌悪で胸がいっぱいになった。
苛立ちや情けさや悲しみが混じった様な訳の分からない感情を──この気持ちを何と呼べばいい?
「謝るなよっ」
この敗北感にも似た怒りはアリアに対してなのか、自分に対してなのか。
「自業自得何だから当たり前だ。当然の報い何だよ! 嫌な思いさせたのは俺何だから・・・そんな同情みたいな台詞言わないでくれっ」
こんな事が言いたい訳じゃないのに、口から溢れ出る言葉を抑える事が出来なかった。
その場で崩れ落ち、唇を噛み締めて涙を必死に堪える。
「怒るなら最後まで怒ればいいだろ、哀れでる積もりなのか・・・? 可哀想とか思ってんのかよ、そんなの余計なお世話だっ」
──違う、図星を突かれて恥ずかしかっただけだ。
アリアの言う通り、僕は怯えてばかりの弱い人間だから。
それでも自分が駄目な人間だと思い知らされるのは堪えられないし、気を遣って謝られる何てプライドが許せない。
そんな言葉を聞きたいんじゃ無くて、只少しだけ時間が欲しかったんだ。
頭を冷やす時間を、冷静になる時間を。
「同情じゃ無い」
上からくぐもった声が落とされる。
僕は俯いてた顔を無意識に上げた。
「賢治の言葉は無意識だけど、僕は君が動揺すると分かって言った。君に悪意は無くて、僕にはあった。だから謝った・・・」
「・・・・・・」
「君に謝らないと僕は自分が嫌になる。今よりももっと嫌になる・・・」
「アリア」
「君を哀れんだ事は一回も無い」
「──何でそんな泣きそうな顔するんだ・・・」
真白な肌に傷みが無い真っ直ぐな金髪、まるで天使みたいなのに──その瞳は冷めていて、いつも周りと一線離れた所に居た。
まるで感情を表現出来ない石像の様な、美しい無機質。
だけど君の怒りや涙を堪える姿で、やっと自分の思い違いに気付いたんだ。
「賢治の方が泣きそうだけど・・・」
「俺の事はどうでもいいんだよ」
アリアだけは大丈夫何て、何でそんな風に思ったんだろう。
何がその人の傷で、何がその人を苦しめるか何て本人にしか分からないのに。
「泣きそうになったのは乳児以来だ」
「・・・ある意味、凄いと思うけど」
きっと色々な人生があったのだろう。
「他人の偏見何てあまり気にしなくて良いんだ。アリアと同じ人間で、それは一生変わらない。自分を誤魔化す必要も我慢を強いられる覚えも無いんだ」
──桜雪もエディもアリアも、不安を抱え迷いながら道を歩んでいる。
「アリアに授けられた個性や能力は、きっと君の支えになるから」
「・・・ありがと」
そうして僕は、初めてアリアの笑顔を見る事になる。
それはまるで本物の天使の如く──翼を生やせば飛んでしまいそうだった。
「戻ろう」
「うん・・・」
だけど何故か僕の心には重石が乗っていたままだった。
視界がぐらつく様な奇妙な、ぐにゃぐにゃした感覚。
「賢治?」
────僕は?
「・・・平気」
先に居るアリアの後を追いかけ、再び歩き出す。
「・・・そんな事有り得ない」
新たな違和感が頭をよぎっていたけど、直ぐにそれを記憶から抹消した。