求罰望罰
罪も、罰をも、与えてくれないのならば
せめて、どうか
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幅が掌を余る厚みの本を漸く読み終え、その本を音を立てて閉じながら、私は伸びをした。
ぎしりと、緩やかな背もたれのある椅子が軋む。
そして、本を持って椅子から立ち、本棚へと本を返した。
両手で持たなくては運べないこの本は、最も上の棚にあった物だ。
私の為にと用意された踏み台を登り、背伸びをして、どうにか本を元の場所へ戻す。
早く、父様のように大きくなりたい。
私は、自分の小さな手を見ながら切実にそう思った。
指の間に水かきを張ったこの手は、まだあの人の半分程度しかない。
ここは、水の系統の精霊を束ねる、<王>の一人<氷王>の館。
<氷王>とはつまり、私の父様であるヒョウガキ様の事だ。
私は、その第一子にあたる。
まだ、息子でも娘でもない。
純粋な水の精霊というのは精霊の中でも特異な存在で、ある一定の時期までは両性体だからだ。
魚のひれのような形状をした耳が赤く染まり始めると性分化が始まり、大体一週間程度で耳の色が元に戻り、性別が決まる。
私はまだ半人前の両性体で、未だ耳の赤くなる兆候はない。
でも、もうすぐだ。思いながら、魚のひれに似た自分の長い耳を撫でる。
ずっと息子のように扱われているから、恐らく私は『男』になるのだろう。
「……さて、と」
私は踏み台を降り、自由に読んで良いとされている父様の本棚を物色した。
けれど、手が届く範囲から手当たり次第に読んだので、めぼしい物はもう読み尽くしている。
だから、私は父様の机に目を向けた。
机の上に、大きな本があった。
机の物には手を触れてはいけないと、きつく言われている。
しかし、そこには本があった。
そして、開いていた。
近寄り、机の横からそれを覗き込む。
「水の、龍の、呼び方」
声に出して、書面の大きな項目を見る。
これは父様の魔術書だ。
私は目を輝かせた。
慌てて、同じ部屋にある己の机から、書き写す為に紙とペンを持って戻る。
机の上にある物に触れなければ問題は無いだろう。
水の龍。
大丈夫だ。
私は<氷王>ヒョウガキの第一子。
出来るに決まっている。
「そうだ、ヨウスイにも見せよう」
私は、書き写し終えてからふときょうだいの顔を思い浮かべて呟いた。
一人でやってしまうより、証人が居た方が良い。
だから、私より年下の、穏やかな微笑を浮かべるきょうだいの前でやろうと。
そう決めて、部屋を出た。
大丈夫。
絶対出来る。
それは、奇妙なまでの自信だった。
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私たちが住む父様の館は、その半分を巨大な湖の上に、残り半分を岸辺の花畑へと乗り上げた格好をしている。
何処の館も通常は陸上にあるのに、その半分を湖の上にしているのは、水中でしか生きていくことが出来ない母様のためだ。
特別純粋な母様の子供ではあるけれど、水の精霊でも一番に強い精霊を父に持っているから、私もヨウスイも陸上で活動することに支障はない。
館と湖の周囲は、背の高い木々で囲まれている。
深い森の中央に建っているのだと、以前やって来た父様の友人が言っていた。
確か、風の精霊だったと思う。
私は、花畑のあちらこちらに顔を出している大きな岩の一つに近寄った。
そして、平たいそれに指を噛んで滲ませた血を擦りつけ、紙に書き取ってきた通り、そこに円を描く。
初めてやる行為に、私の胸は高鳴っていた。
後ろから、ヨウスイが不安げに覗き込んでいるのが分かる。
「大丈夫なの? 兄様……」
まだ性別も決まっていない私を『兄』と呼ぶ、幼いきょうだいを肩越しに見やって、大丈夫だと微笑んだ。
「見ていろ、ヨウスイ。きっと綺麗だ」
円を描き終えて、指を舐めた。血と土の味がする。
僅かな痛みを放つ傷をさっさと治して、私は己の血で記した円の前で、片手に持っていた紙に目を落とした。
紙に書き取ってきたまま、たどたどしく、唄のような言葉を唱える。
意味は分からないが、それを唱える度に何かが体から流れ出るような感覚があった。
辺りの空気が水を含み、霧を生む。
兄様、とヨウスイの細い声がして、でも大丈夫だと答えてやる余裕は無く、私は少し視線をやる事で答えた。
力の風が渦を巻くのが、眼の端に映る。
精霊獣を操る事が出来るのは、大人の精霊だけだ。
もしも出来たら、きっと。
父様は誉めてくれる。
「……現れろ、水龍!」
唄を最後まで唱え終え、私が叫んだ瞬間に、目の前の霧が集って一つの塊になった。
そして伸び、目を開く。
全ての形が、ゆっくりと水から造られていく。
私とヨウスイの目の前に現れたのは、龍だった。
赤い瞳がこちらを映している。
大きな口が裂けるように開き、龍は低く産声を上げた。
「……やった……!」
体の力が抜けて、へたり込みながら呟く。
呼べた。
出来た。
出来たのだ。
きっと父様は誉めてくれる。
自慢の子だと頭を撫でてくれるに違いない。
飛びあがりそうなほどに嬉しくて、口が綻んだ。
けれど、その喜びは、ほんの一回の瞬きの間しか持たなかった。
水の体を得た龍が、こちらを睨んで襲いかかって来たのだ。
「う、うわ!」
驚いて声を上げながら、無謀にも両方の掌を突き出す。
水かきがいっぱいに広がって、龍の身を止めようと足掻く。
しかし、強い力を持った水の獣は、その体を刃に変えた様に易々と、私の両の手にある水かきを全て切裂いた。
その勢いに押されて、後ろに倒れ込む。私の上を、龍が通過していく。
起き上がり振り向くと、長い体を煩わしそうに蠢かせながら、龍が体の向きを変えていた。
地に付いた手が、熱い。
痛い。
「……何で……!?」
私は、信じられない思いで、己が呼んだ獣を見た。
どうしてだ。
私が呼んだのに。
私は何も命じていないのに。
主は私なのに。
どうして。
「……どうして……!」
今までに無いことだった。
どんなに難解な本だって理解出来たし、父様がやって良いと言ってくれた魔術で、出来ぬ物は一つも無かったのに。
どうして。
龍は、高く長く、咆える。
そして、突進はせずに身を振った。
その体が伸び、尾の先が尖る。
龍は、それで私の首を撥ねる気なのだろう。
それは分かった。
けれど、私の体は動かなかった。
「兄様!」
その声はすぐ傍から上がり、私は仰向けに倒された。
少し斜めなのは、左から右へと押し倒された所為だろう。
花の中に隠れた石があったのか、頭を硬い物でぶつけて、痛い。
くらくらする。
自分の心臓の音が、大きい。
私は眉を寄せ、反射で閉じていた目を開いた。
胸の上を、何か温かな物が広がっていく。濡れているようだ。
それが何なのか確かめる為に、肘を付いて身を起こす。
大きくあるのは、赤い染み。
その中央を、ころりと何かが転がり落ちる。
「―――ッ!!」
それは、ひしゃげた眼球だった。
すぐ側には、ヨウスイが伏している。
私を引き倒したのはヨウスイだ。
その髪が、手が、顔が、血で汚れている。
この血を流したのはヨウスイだ。
ならば、この眼球の主は誰なのか。
そんなこと、分かりきったことだった。
長い長い、音が聞こえた。
それが、自身の叫びだと気付くのに、少し掛かった。
「ああぁあぁああぁあぁぁぁぁあぁッ!!」
私は叫んでいた。
叫び続けながら、私は前を見る。
同じ血で繋がったきょうだいの瞳を抉り潰した獣を見る。
水でその形を作り上げた龍の目は紅く、にたりと笑っているようだった。
大きな口が開くと、間を水が数筋繋いで、まるで獲物を前にした肉食獣の唾液のようにも見えた。
手が痛い。
ヨウスイが死んでしまう?
私は死ぬだろうか。
殺されるのだろうか。
目の前の獣に。
己が作り出した物に?
ヨウスイが動かない。
どうして?
頭の中を、ぐるぐると言葉が回る。
まだ、私は叫んでいるのだろうか。
それとも、もう黙っているのだろうか。
それすら分からない。
ただ、恐ろしかった。
「氷の牙よ!」
低い声が、突然響く。
それと同時に、水龍の体へ大きな氷柱が数本突き刺さった。
液体の体が逃れる前に、氷柱は触れた所を冷やし、凝固させていく。
ほんの数秒を置いて、龍はやがて一つの氷像になった。
草を踏む足音が聞こえて、私はゆっくりそちらを見やる。
こちらへと近づいて来るその音の主は、額の中央に海と同じ蒼の魔法石を宿していた。
私達と同じ魚のひれのような形の耳の、背の高い、気難しい顔をした男性だった。
「……父様」
<氷王>だった。
父様は、その、凍てつくような深い青い瞳で私を見て、そしてその目をヨウスイへと移し、足を速めてヨウスイの傍へと急いだ。
屈んだ父様が、ヨウスイの体に触れる。
仰向けに倒させると、気絶したきょうだいは力無くそれに従った。
その顔は、血塗れだった。
その体に、父様の指が触れていく。
傷を癒す気なのだ。
ぼんやりと、その光景を私は見ていた。
水の力で、その体の細胞分裂を早め、傷を治す。
いつも、父様がやっていることだ。
けれど、それではどうにならない。
私は、自分の胸に広がる赤いしみと、膝の上に落ちたままのひしゃげたそれを見下ろした。
無い物は、治らない。
「……と……父様……!」
呼ぶと、父様は私の方を見た。その目はとても冷たくて、怒っているのが分かった。
その眼前に、血で汚れて痛みを訴える指を使って拾い上げたそれを差し出す。
「こ、これ、ヨウスイの……つ、つなげて、あげて……!」
「無理だ」
低い声はすぐさま切り返される。
「それは、もう、元には戻らない」
息が詰まった。
父様は、集中する為にその目をヨウスイへと戻す。
「……もう片方も、中でずたずたか。……無理、だな……」
小さく漏らしたのだろうその言葉が、とても大きく聞こえた。
私の手から、元に戻せないヨウスイの片目が落ちる。
それは私の膝を伝い、汚れた草の間に覗く地を転がってやがて止まり、意志無き視線で空を仰いだ。
それを見ながら、ゆっくりと、手を自分の顔へと伸ばす。
ひしゃげた眼球。ズタズタの目玉。
それは、もう元には戻せない。
なら、無傷の物ならどうだろうか。
血塗れの指で、左の瞼をなぞった。
ここにある、これ、なら。
「……止めろ」
処置を終えたらしい父様が、そう言って私の腕を掴んだ。
顔から引き離されて、瞼から与えていた圧迫感があっさりと消える。
「そんな事をするな」
全てを見通したような声が、私に言う。
「でも……でも、父様」
力の強い腕に手を捕らえられたまま、私は父様を仰いだ。
「この目を、ヨウスイにつないではくれないでしょうか……?」
厳しい顔がゆっくりと左右に振られて、私に答えを返す。
「駄目だ。……他人の体を、その者に与える事など出来ない。その目は、つながる事は無い」
絶望を与える言葉が、その口から落とされた。
絶句する私の両の手を、父様がそっと握る。
すると、その手にあった傷が暖かくなった。
癒されているのだ。
見詰めれば、癒しを受けている私の手は少し発光していた。
「……父様」
少し黙ってから、口を開く。
「何だ」
「……怒らない、のですか」
声も、その目も、見ただけで分かるほどに凍てついているのに、この手を癒しながら、どうしてその唇は責めないのだろうか。
私の問いに、父様はため息と共に答えた。
「……それが、何になると言うんだ」
まるで、その言葉は刃のように耳を撫でる。
「怒り、お前を責めて、それで何か変わるのか?」
父様は言い放ち、私の耳から冷えた言葉を遠ざけるように、また黙った。
私は、もう何も言えなかった。
突き放されたのだと、感じた。
どうしてだろう。
私は、両手を癒される格好のまま、目を動かした。
視界に、仰向けに倒されたヨウスイが映る。
二度と光を感じられないきょうだいを見る。
何て事を、してしまったのだろう。
図々しい程に、過剰な自信を持って、取り返しのつかない事をしてしまった。
どうしてだろう。
目の前がぼやりと霞む。
口がわななきそうになるのを感じて、必死になって歯を食いしばった。
馬鹿なことをしでかしたのは私なのに、この場で泣くなんてことが許されるはずもない。
そう思うのに、どうにも止まらない雫がぼろりと私の目から零れ、自分の膝へと落ちていく。
「……泣くんじゃない」
父様が言って、私の手を放した。
その大きな手はそのまま私の顔に伸びて、指が頬を拭ってくれた。
「泣いても、何も、元には戻らない。泣くな」
とても冷たいその声は刃物のように凍てついているのに、父様は決して怒らない。責めない。
「……泣くんじゃ、ない」
叱ってはくれない。
宛がわれた刃はその存在を示すくせに、決して切り裂いてはくれない。
どうして。
この手の傷は消えたのに、どうして、あの目は元に戻らないのだろう。
+++
どうか
誰か
誰でも、良いから
何もかもを、奪ってくれて構わないから
どうか、罰を
どうか
償いを、させて
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