「その薬草は毒かもしれぬ」と追放された令嬢薬師——領地に疫病が広がったとき、彼女の薬草園はもう枯れていた
朝露が薬草の葉先に宿り、東の空がうっすらと朱に染まる頃。
リリアーナは三つ編みの髪を揺らしながら、星霜の庭を巡っていた。
「おはよう。今日も元気そうね」
月見草の株に屈み、露を指先で確かめる。昨夜は満月だった。月見草は満月の翌朝に摘むと解熱の薬効が最も高くなる——それは母が遺した手記に記された、この庭だけの知恵だった。
「もう少しだよ。あと三日もすれば、ちゃんと摘み頃になるからね」
声をかけると、葉が朝風に揺れた。応えてくれたような気がして、リリアーナは目を細める。
星霜の庭。ハルトヴィヒ侯爵邸の東翼に広がる薬草園は、母が三十年かけて育てた宝物だった。数百種の薬草が季節ごとに花を咲かせ、一年を通して何かしらの薬草が収穫できるよう配置されている。
東の隅には氷雪蘭が青みがかった葉を広げ、南の陽当たりには陽だまり草が黄金色の穂を揺らしている。中央の花壇には星霜花——母がこの庭でたった一株から増やした固有種だ。冬を越した株だけが免疫を強くする薬効を持つ。どの薬草も、隣に何を植えるかで薬効が変わる。母はその組み合わせを三十年かけて見つけ出した。
朝の庭は特に好きだった。露が陽光に煌き、薬草の匂いが層をなして立ちのぼる。甘い月見草、清涼な氷雪蘭、ほろ苦い陽だまり草——混ざり合うその香りが、リリアーナにとっての「家」の匂いだった。
——この香りを失う日が来るとは、まだ知らなかった。
七年前、母が流行り病で倒れた日。枕元で母はリリアーナの手を握り、こう言った。
「あの庭の子たちを、頼むわね」
母を看取ったのは、この庭の薬草で煎じた薬だった。母自身が命を懸けて証明した——薬草は嘘をつかない。効く薬は効くし、効かない薬は効かない。
「リリアーナ様!」
門の外から声が響く。杖をついた老人が、肩で息をしながらやってきた。
「ヴィルヘルム爺さん。今年も咳の薬ですね」
「はい、そろそろ季節の変わり目で……姫君にしか頼れませんで」
リリアーナは微笑んで、庭の隅に設えた調合台に向かった。陽だまり草を三枚、月見草の根を少々、蜂蜜で練り合わせる。指先が手際よく動くたび、甘くほろ苦い薬草の匂いが立ちのぼる。
「これを朝晩、白湯で。一週間もすれば楽になりますよ」
「ありがたや……ありがたや……」
ヴィルヘルムは何度も頭を下げ、大事そうに薬袋を抱えて帰っていった。
その背中を見送りながら、リリアーナは思う。
この仕事が好きだ。母から受け継いだこの庭で、この手で薬を調合して、誰かの痛みを和らげる。
社交界にはろくに顔を出さない。十九にもなって刺繍も踊りも苦手だ。令嬢としては落第生かもしれない。けれど、この手で薬草を摘み、すり鉢で薬を練り、困っている人に渡すとき——この手が自分の誇りだと思える。
それだけでいい。それだけで——十分だ。
穏やかな日々が終わったのは、あの男がやってきた日だった。
新しい侍医マティアス・ヴェーバー。王都の医学院を首席で卒業した——という触れ込みで、ハルトヴィヒ侯爵邸に赴任してきた。
清潔な白衣、後ろに撫でつけた黒髪、灰色の瞳。初対面で交わした言葉は穏やかだった。
「侯爵令嬢のリリアーナ様ですね。薬草園をお持ちだと伺いました。ぜひ一度、拝見させていただければ」
「ええ、もちろん。どうぞご覧になってください」
庭を案内しながら、リリアーナは薬草の一つ一つを説明した。月見草の収穫時期、星霜花の免疫強化の薬効、氷雪蘭の解毒作用。マティアスは微笑みながら頷いていたが、その目は笑っていなかった。
最初の異変に気づいたのは、三日後のことだった。
いつものように薬を受け取りに来た領民が、少し困った顔で言った。
「姫君、侍医の先生に怒られてしまいまして。姫君の薬を飲んでいると言ったら、『正式な医師の処方を受けなさい』と……」
「そう……ですか」
胸がざわりとした。けれど、領民が困っているのだ。深く考えずに薬を渡した。
それから半月の間に、マティアスの態度は少しずつ変わっていった。
最初は遠回しだった。
「リリアーナ様、この薬草は医学院の薬物辞典に載っていないものですね。成分が不明では、安全性を保証しかねますが……」
「星霜花はこの庭の固有種です。母の代から使っていて、副作用の報告は一度もありません」
「ほう。しかし、それは医学的な根拠とは言えませんな」
穏やかな口調だったが、その奥に棘があった。
領民がリリアーナの薬を求めるたびに、マティアスの表情が険しくなっていくのが見てとれた。「先生の薬より姫君の薬のほうが効くんですよ」——領民のその一言が、侍医のプライドを深く抉ったのだろう。
けれど、リリアーナにはどうすることもできなかった。
薬草は嘘をつかない。効く薬は効くし、効かない薬は効かない。
「侯爵閣下。お嬢様の調合する薬について、ご報告申し上げたき儀がございます」
マティアスが父に謁見を求めたと聞いたとき、リリアーナの胸は凍りついた。
父の執務室に呼ばれたとき、マティアスはすでにそこにいた。白衣の胸ポケットに差した羽根ペンを神経質にいじりながら、穏やかな声で言った。
「お嬢様が領民に投与している薬の中に、成分不明の薬草が複数含まれております。医学的見地から申しますと、これらの薬草には毒性がないとは……いえ、危険がないとは言い切れません」
「毒だと? リリアーナの薬がか」
父——ハルトヴィヒ侯爵は眉を寄せた。
「毒ではありません!」
リリアーナは声を上げた。
「この薬草は母の代から三十年以上——」
「お嬢様」
マティアスが遮った。穏やかだが、確かな重みのある声だった。
「私は王都の医学院で八年間、薬理学を修めました。学院の薬物辞典に載っていない薬草を、正式な薬理試験もなく領民に投与することの危険性を、ご理解いただけますでしょうか。万が一——万が一にも毒性があった場合、侯爵家の名に傷がつきます」
巧みだった。「毒だ」とは一度も断言していない。「危険がないとは言い切れない」「万が一」——可能性を示唆するだけで、不安の種を撒いていく。
父の顔が曇った。
「リリアーナ。侍医殿の言葉を軽く見るわけにはいかん。念のため、薬草園での調合は——」
「お父様、あの子たちは毒なんかじゃ——せめて調べてください。お母様が三十年かけて育てた庭です。薬理試験をすれば安全だとわかります」
「調査の間にも万が一のことがあれば、侯爵家の名に傷がつく。念のためだ」
父はそれ以上、聞く耳を持たなかった。
翌日。クラウスが侯爵邸を訪れた。
婚約者のクラウス・フォン・ブレンナー。明るい金髪に青い瞳。幼い頃から一緒に育った、いつも笑顔の優しい人——のはずだった。
けれどその日のクラウスの顔は強張り、目が泳いでいた。
「リリアーナ。話がある」
中庭のベンチに並んで座った。クラウスの声は震えていた。
「侍医殿から聞いた。君の薬に——毒の可能性があると」
「クラウス様、それは違います。あれは讒言です。私の薬草は——」
「でも、君の薬が医学院に認められていないのは事実だろう?」
言葉に詰まった。確かに、星霜花も氷雪蘭も、王都の薬物辞典には載っていない。母が独自に発見し、この庭で育ててきた固有種だ。学院に報告する機会はなかった——その必要も感じていなかった。
「リリアーナ。すまない。でも、毒を扱う女と婚約していると噂されたら、ブレンナー家の名にも傷がつく。この婚約は——」
「——なかったことにしてくれ、と?」
クラウスは目を逸らした。
「……僕には判断できないんだ。侍医殿が言うなら、そうなんだと思う」
自分で確かめようとはしなかった。この庭に来て、薬草に触れて、領民の声を聞いてくれれば——わかるはずなのに。
リリアーナは唇を噛んだ。
「……わかりました」
涙は出なかった。泣くよりも先に、胸の奥の何かがすうっと冷えていった。
追放が告げられたのは、その三日後だった。
「リリアーナ。領民の安全のため、お前にはこの領地を去ってもらう」
父の声は硬かった。
「お父様。七年間、この庭の薬で何人の領民が救われたか——」
「侍医殿は王都の医学院出身だ。お前の独学よりも信頼できる」
——独学。
母の知恵を、三十年の積み重ねを、七年間の実績を、たった一言で片づけた。
反論の言葉は胸にあった。けれど、それを口にしても届かないことはわかっていた。マティアスの讒言は、政治的には完璧だった。学院の権威という盾の前に、「効く薬は効く」という素朴な真実は無力だった。
「……わかりました。お父様」
リリアーナは静かに頷いた。
荷造りは半日で終わった。
着替えをひとつ、母の手記を一冊、調合道具の最低限。それだけだった。
最後に、星霜の庭に足を向けた。
夕暮れの薬草園は、いつもと同じ穏やかな匂いに満ちていた。月見草が露を蓄え、星霜花が白い花弁を風に揺らし、陽だまり草が最後の陽光を浴びている。
リリアーナは一つ一つの薬草に触れて歩いた。
「ごめんね……もう、私は来られないの」
月見草の葉を指でそっと撫でる。
「誰かがちゃんと手入れしてくれるはずだから……」
嘘だ。この庭の薬草は、それぞれに固有の手入れが必要だ。水やりの時刻、剪定の角度、隣り合う薬草との相性。母が三十年かけて築いたその体系を、リリアーナ以外に理解している者はいない。
マティアスにできるはずがない。あの男は薬草を「ただの草」としか見ていない。
星霜花の前で膝をついた。白い花が、夕陽に染まって淡い桃色に輝いている。
「……ごめんね」
種鞘から、数粒の種をそっと摘み取った。小さな、けれど確かな重みが掌に乗る。
これだけは——持っていく。
門を出るとき、料理長のバルトがエプロンで目を拭いながら立っていた。
「お嬢様。お嬢様の薬に救われた者は、この屋敷にも大勢おります。どうかお元気で」
「……ありがとう、バルト。薬草園の手入れだけは、どなたかにお願いしてくれますか。あの子たちは、放っておくと枯れてしまいますから」
「必ず……必ずお伝えします」
振り返らなかった。
懐の星霜花の種を握りしめて、リリアーナは歩き出した。
お母様——ごめんなさい。でも、この種があれば。どこでもやり直せる。
ハルトヴィヒ領を出て東へ五日。
山道を一人で歩き続けた足はとうに限界を超えていた。靴底は擦り減り、足首には水膨れができている。標高が上がるにつれ空気が冷たくなり、薄い外套では寒さが骨に染みた。道端の草を見つけるたびに、つい薬効を考えてしまう自分がおかしかった。薬草師の性は、追放されたくらいでは抜けない。
三日目の夜、道端で野宿をしながら、星を見上げた。星霜花の名前の由来は「星の霜」——母が冬の朝、花弁に降りた霜が星のように煌めくのを見て名づけたのだという。懐の種を握りしめて、眠った。
けれど五日目の朝——山の空気に混じるその匂いに、リリアーナは足を止めた。
「……この匂い」
清冽で、どこか甘い。薬草師なら見間違えない。
「氷雪蘭? こんな場所に自生しているの……?」
星霜の庭では栽培が極めて難しかった希少種が、山の斜面に群生していた。寒冷地でなければ育たない——そう母の手記にも記されていた。
疲れが一瞬、吹き飛んだ。薬草を見ると体が勝手に動く。膝をつき、葉の厚みを指で確かめ、茎の太さを測る。
「すごい……。高山の寒さで育った分、葉が厚い。薬効が強そう……」
「おや。見かけない顔だね」
背後からしわがれた声が降ってきた。
振り向くと、白髪を団子にまとめた小柄な老婆が立っていた。腰に薬草袋を下げ、手には摘んだばかりの草が握られている。
「旅の人かい? こんな山奥まで来るなんて、珍しいね」
「は、はい……少し、休ませていただける場所を探しているのですが……」
老婆——ヘルダは、リリアーナの手をじっと見た。
薬草の汁で染まった指先。爪の間に残る土の色。
「……ほう」
ヘルダの薄い茶色の目が、深い皺の奥で光った。
「薬草を扱う手だね。いい手をしてるよ、お嬢ちゃん」
「……わかるのですか?」
「五十年、薬草を触ってきたからね。同じ手をした人間は、ひと目でわかるさ」
ヘルダはリリアーナの顔をまじまじと見た。それから、ふっと息を吐いた。
「追い出されたクチかい」
言い当てられて、リリアーナは言葉を失った。
「その顔を見りゃわかるよ。腕はあるのに居場所がない——って顔してる。何十年も薬草を触ってりゃ、人の顔色だって読めるようになるんだよ」
「……はい。追い出されました」
「そうかい」
ヘルダはそれ以上は聞かなかった。
「じゃあ、うちの畑を手伝いな。この村にゃ薬師がいなくてね。あたしも年だから、そろそろ誰かに引き継ぎたいと思ってたのさ」
「ヘルダさんが……薬草師なのでは?」
「だから年だって言ってるだろう。膝が痛くて、もう山を登れないんだよ」
ぶっきらぼうに言って、ヘルダは背を向けた。
「ほら、着いておいで。まずは温かいものでも飲みな」
小柄な背中が、山道を迷いなく歩いていく。リリアーナは、その背中に母の面影を重ねていた。
ベルクハイム村は、山裾に寄り添うように佇む小さな集落だった。石壁の家が二十軒ほど。人口は二百人に満たない。
ヘルダの小屋は村の外れにあり、裏手に小さな薬草畑が広がっていた。
「これは……」
リリアーナは目を見開いた。星霜の庭とは全く異なる薬草が、山の斜面に沿って植えられている。見たことのない草、匂ったことのない花。
「山の薬草は平地のとは違うんだよ」
ヘルダが誇らしげに言った。
「寒さに耐えた分だけ、薬効が強いのさ。ほら、この青い花——霜晶草ってんだけどね。咳に効くんだよ。陽だまり草より効くよ」
「陽だまり草より……? すごい……」
「学院の薬物辞典にゃ載ってないだろうけどね。この山の薬草は、この山にしかないんだよ。あたしの母さんがそう教えてくれた。そのまた母さんから受け継いだ知恵さ」
リリアーナの胸が熱くなった。
学院式の正統薬草学と、民間に伝わる土着の薬草学。体系は違えど、根は同じだ。薬草を愛し、人を癒す——その一点で繋がっている。
「ヘルダさん。一つ、お願いがあるのですが」
リリアーナは懐から、あの種を取り出した。
「この種……ここで育ててもいいですか?」
ヘルダは掌の種を覗き込んだ。
「何の種だい?」
「星霜花です。母が見つけた薬草で……免疫を強くする力があります。冬を越した株だけが薬効を持つ、少し気難しい子ですけれど……」
「いいとも」
ヘルダはあっさりと言った。
「お嬢ちゃんの大切なものだろう? 大切なものは、ちゃんと根を張らせてやらなきゃね」
——根を張らせる。
その言葉が、胸の奥に沁みた。
追い出されても。庭を奪われても。この種が根を張れば、そこが新しい庭になる。
翌日から、リリアーナはヘルダの畑の一角を借りて薬草を植え始めた。星霜花の種を丁寧に蒔き、霜晶草の隣に月見草を植え、陽だまり草の苗をヘルダから分けてもらった。
「ヘルダさん、この土壌なら月見草がよく育ちそうですね。ここに——あ、すみません、つい夢中になって」
「いいよいいよ。薬草の話をしてるお嬢ちゃんは、いい顔してるよ」
ヘルダの民間薬草学と、リリアーナの学院式知識。二つが交わることで、どちらか一方では作れない薬が生まれ始めた。
ある日、村の子供が高熱を出した。母親が泣きながらヘルダの小屋に駆け込んできた。
「先生! ユリウスが朝から熱が下がらなくて……!」
リリアーナは子供の額に手を当て、瞳孔を確認し、喉の奥を診た。秋霧熱の初期症状に似ている。星霜の庭ならすぐに処方を出せたが、ここには庭の薬草がない。
——けれど、この山の薬草がある。
リリアーナは星霜花の若い葉と、ヘルダの霜晶草を配合した解熱薬を調合した。母の手記にも、ヘルダの知恵にもない——新しい組み合わせ。星霜花が免疫を高め、霜晶草が熱を下げる。理屈の上では効くはずだが、実績がない。手が少しだけ震えた。
「飲めるかい? 苦いけど、すぐに楽になるよ」
子供は顔をしかめて飲み干した。翌朝には、熱は引いていた。
「リリアーナ先生、すごい! 昨日あんなに辛そうだったのに!」
母親の喜ぶ顔を見て、リリアーナは思った。
——ここでもやっていける。
学院式でも民間式でもない、両方を合わせた新しい薬草学。失ったものは大きい。けれど——ここでしか得られないものも、確かにある。
薬草は場所を選ばない。種と知識と、育てる手があれば。どこでだって、人を救える。
——リリアーナの追放から二ヶ月。
ハルトヴィヒ侯爵領は、静かに崩れ始めていた。
星霜の庭は見る影もなかった。
雑草が薬草を覆い、月見草は虫に食われ、陽だまり草は水を与えすぎて根腐れを起こしていた。マティアスが手入れを命じた使用人たちは、どの草が薬草でどの草が雑草かもわからず、ただ途方に暮れていた。
「こんなものは雑草の山だ。正統な薬があれば、このような庭は必要ない」
マティアスは吐き捨てた。
「しかし侍医殿、リリアーナ様が手入れの手順を書き残してくださったのですが……」
使用人が差し出した紙束を、マティアスは一瞥もせずに払いのけた。
「あの女の迷信に従う必要はない。私の薬で十分だ」
紙束が地面に散らばった。リリアーナが一晩かけて書いた、薬草一つ一つの世話の仕方。水やりの時刻、剪定の角度、隣り合う株との間隔——踏みつけられた紙の上を、マティアスの靴が通り過ぎていく。
その翌週、庭番の老人がマティアスに訴えた。
「侍医殿、氷雪蘭の葉が黄色くなっております。このままでは——」
「薬草の世話は私の仕事ではない。見た目が悪いなら刈ってしまえ」
老人は黙って庭に戻った。リリアーナに仕えて二十年。あの優しい姫君なら、枯れかけた一株にも膝をついて声をかけた。「大丈夫、もう少しだから」と。
刈られた氷雪蘭は、翌日には茶色く萎びていた。
月見草は次の満月を待てずに折れた。陽だまり草は根腐れから立ち直れず、どろどろに溶けた。そして——
星霜花が、最後の一輪を咲かせた。
白い花弁が風に揺れ——力を失うように、萎れて落ちた。
使用人たちが黙って見守る中、三十年かけて育てた庭は、二ヶ月で死んだ。
料理長のバルトが庭の端に立ち、エプロンで顔を拭った。
「お嬢様……すみません。お守りできませんでした」
秋。霧が深くなる季節。
最初の患者は、農夫の老人だった。高熱、激しい咳、全身の倦怠感。
秋霧熱——季節の変わり目に発生する流行り病。毎年、小規模に発生する。
けれど今年は違った。
一人が倒れ、三人が倒れ、十人が倒れ、二十人が——。
「先生、薬を! 薬をください!」
マティアスは正統医学の解熱剤を処方した。教科書通りの配合。学院で教わった通りの分量。
熱は一時的に下がった。半日だけ。そして夜にはぶり返し、前より高くなった。
「なぜだ……教科書通りの処方なのに……」
マティアスの手が震えた。白衣の袖口が汗で湿っている。
領民の一人が叫んだ。
「姫君の薬があれば! 去年は星霜花の予防薬で、誰も倒れなかったのに!」
マティアスは薬草園に走った。
門をくぐった瞬間、足が止まった。
そこにあったのは——枯れた茎と、雑草の山だけだった。
星霜花は一本も残っていなかった。月見草も、陽だまり草も、氷雪蘭も。三十年の歳月が育てた命の全てが、たった二ヶ月の無知と怠慢で失われていた。
かつてリリアーナが毎朝語りかけていた調合台には、蜘蛛の巣が張っている。彼女が丁寧に並べていた薬瓶は倒れ、中身は乾いてこびりついていた。
マティアスは枯れた茎の前に膝をついた。
「まさか……こんな雑草が……本当に……」
迷信だと笑った。ただの草だと見下した。
それが——領民の命を繋ぐ、唯一の盾だったのだ。
「マティアス! なぜお前の薬が効かないのだ!」
侯爵の声が執務室に響いた。
疫病は日を追うごとに広がっていた。死者が出始めている。
「こ、この熱病は通常の解熱剤では……も、もう少し時間をいただければ……」
「時間だと? 領民が死んでいるのだぞ!」
そこへ、扉を蹴るようにして飛び込んできたのはクラウスだった。
「リリアーナはどこだ!」
息を切らし、顔は青ざめていた。
「彼女を呼び戻さなければ——薬草のことがわかるのはリリアーナだけだ!」
「お前が婚約を破棄したのだろう!」
侯爵が怒鳴った。
「僕が……僕が間違っていた」
クラウスの声が震えた。あの軽薄な笑顔は消え、代わりにあったのは、手遅れの後悔だった。
「あのとき、ちゃんとリリアーナの話を聞くべきだった。侍医殿の言葉を鵜呑みにして……薬草園がどれほど大切なものだったか、考えもしなかった」
侯爵は沈黙した。
自分もまた同じだった。娘が七年間守ってきた庭の重みを、侍医の肩書き一つで天秤にかけ——軽い方を選んだ。
「リリアーナを探せ。全力で探すのだ」
そして侯爵は、ゆっくりとマティアスに向き直った。
「マティアス。お前は私に何と言った。——娘の薬に毒の疑いがある、と」
「そ、それは……成分が不明であれば、万が一ということを……」
「万が一だと?」
侯爵の声が凍りついた。
「万が一を口にしたお前の薬は、今この瞬間、領民を一人も救えていない。一方、毒かもしれぬと断じた娘の薬は——七年間、ただの一人も死なせなかった」
マティアスの顔が蒼白に変わった。
「侍医の職を解く。今日中にこの屋敷を出よ」
「こ、侯爵閣下——お待ちください。私は王都の医学院で——」
「その学院が、今この領地で何の役に立っている!」
侯爵の怒号が執務室の壁を震わせた。マティアスは膝から崩れた。
「さらに、讒言により侯爵令嬢を不当に追放させた件——王都の医師会に報告する。お前が再びどこかの領地で侍医を名乗ることは、二度とないと思え」
マティアスは床に這いつくばったまま、声も出せなかった。八年間積み上げた学院の権威が、一枚ずつ剥がれ落ちていく。それは、リリアーナから薬草園を奪ったときと同じだった。——ただし、彼の権威には、根がなかった。
だが、リリアーナの行方を知る者は誰もいなかった。
一方、ベルクハイム村。
秋霧の季節が巡ってきた。周辺の村からも、秋霧熱の噂が聞こえてくる。今年は大きな流行りになるらしい。
けれど——ベルクハイム村では、誰一人として倒れていなかった。
「リリアーナ先生の薬のおかげだね。今年は咳一つ出ないよ」
村人が笑う。
リリアーナが星霜花の若い株と、ヘルダの霜晶草、それに山の清水で煎じた予防薬を、秋の入り口に村人全員に配っていた。学院式の配合と民間薬草学の知恵を掛け合わせた、この土地だけの薬。
「お嬢ちゃん、大したもんだよ」
ヘルダが縁側で薬草を干しながら言った。
「あたしの薬草とお嬢ちゃんの知識で、こんなに良い薬ができるなんてね。母さんが聞いたら喜ぶよ」
「ヘルダさんの薬草があってこそです。この山の薬草は本当にすごい……平地では絶対に手に入らない力があります」
リリアーナは微笑んだ。
けれど、心のどこかがざわついている。
あの庭は——星霜の庭は、どうなっているのだろう。薬草たちは、元気だろうか。手入れはしてもらえているのだろうか。
……いや。わかっている。マティアスに、あの庭の手入れはできない。
ある朝、ベルクハイム村に一頭の馬がよろめきながら入ってきた。
鞍の上には、ボロボロの男が一人。ハルトヴィヒ侯爵家の紋章が入った外套を纏っている。
「リリアーナ……様……を……」
使者は馬から転がり落ち、村人に抱えられた。
リリアーナが駆けつけると、使者は震える手で二通の手紙を差し出した。
一通は、父から。
『リリアーナ。私は間違っていた。領地に疫病が蔓延し、薬草園は枯れ果て、侍医の薬は効かぬ。どうか戻ってきてほしい。領民を救えるのはお前だけだ。どうか——』
もう一通は、クラウスから。
『リリアーナ。僕が間違っていた。君の薬草がどれほど大切なものだったか、今になってようやくわかった。頼む。戻ってきてくれ。僕は——』
手紙が震えた。リリアーナ自身の手が震えていた。
「……」
「どうするんだい、お嬢ちゃん」
ヘルダが静かに訊いた。責めるでもなく、急かすでもなく。ただ、訊いた。
「……少し、考えさせてください」
夜。
リリアーナは薬草畑に座って、星を見上げていた。
星霜花の若い株が、月明かりに白く輝いている。母の庭から持ってきた種が、この山の土に根を張り、初めての蕾をつけ始めていた。小さいけれど、確かに生きている。
父の手紙を何度も読み返した。震える字で書かれた「どうか戻ってきてほしい」——その一文に、七年間聞けなかった言葉が詰まっている気がした。
戻れば、領民を救える。
けれど——戻るということは、自分を追い出した場所に頭を下げて帰るということだ。讒言を信じた父の下に。話を聞かなかった元婚約者の下に。自分を「毒を扱う女」と断じた男がいる場所に。
それは——嫌だ。
嫌なのだ。
怒りではない。恨みでもない。ただ、もう——あの場所に自分の居場所はない。
ベルクハイム村の人たちの顔が浮かんだ。薬を受け取って笑う子供。「先生」と呼んでくれる村人。ぶっきらぼうだけど温かいヘルダ。ここには、自分を「毒を扱う女」ではなく「薬草の先生」として見てくれる人がいる。
星霜花に手を伸ばした。蕾がそっと指に触れる。
「……お母様。私、ここに根を張りました」
答えは——もう、出ていた。
翌朝。
リリアーナは使者の前に立った。
「私は、この村に残ります」
使者の顔が絶望に歪んだ。
「で、ですが、領民が——」
「でも」
リリアーナは穏やかに、けれど揺るがない声で続けた。
「薬だけは、お届けします」
使者が顔を上げた。
「星霜花の予防薬と、秋霧熱の治療薬を調合します。量は多くなりますから、二日ほどお待ちください。馬をもう一頭用意してもらえれば、運べるだけお持ちいただけます」
「リリアーナ様……」
「私は戻りません。けれど、あの領地の人たちを見捨てることもできません」
振り返ると、ヘルダが腕を組んで小屋の前に立っていた。にやりと笑った。
「お嬢ちゃんらしいねえ。じゃあ、手伝うよ。霜晶草をたんまり摘んでくるからね」
二日間、リリアーナとヘルダは夜を徹して薬を調合した。星霜花の若葉、霜晶草、月見草の根、山の清水。学院式の配合と民間の知恵を注ぎ込んだ、渾身の薬。
使者に薬を託すとき、リリアーナは一通の手紙を添えた。
「クラウス様へお渡しください」
短い手紙だった。
『クラウス様。私の手は、薬草の匂いがします。それは変わりません。どうかお元気で。——リリアーナ』
リリアーナの薬は、ハルトヴィヒ領に届いた。
予防薬を飲んだ者の発症は止まり、治療薬を服んだ者の熱は引いた。三日で流行は峠を越え、一週間で疫病は鎮まった。
侯爵は枯れ果てた星霜の庭の跡に立ち、長い間動かなかった。
かつて娘が毎朝ここで薬草に話しかけていた。「おはよう」「今日も元気そうね」「もう少しだよ」——あの声を、窓越しに何度も聞いていた。聞いていたのに、その重みを量ろうとしなかった。
なぜ、調べさせなかったのか。妻が三十年守り続けた庭だ。薬理試験一つで白黒つけられたものを——侍医の言葉だけで、娘を追い出した。
「……私は、この庭の価値がわからなかった」
枯れた茎を拾い上げ、その軽さに顔を歪めた。三十年の命が、こんなにも軽い。娘の手紙には「戻りません」とは書いてあったが、「恨んでいます」とは書いていなかった。それが、よほど堪えた。
疫病の報は近隣領にも伝わった。「娘を追い出した侯爵」——その評判は、領主としての信用を静かに蝕み始めていた。
マティアスはその日のうちに屋敷を去った。去り際に、誰一人として見送る者はいなかった。門を出る背中には、かつての白衣の威厳は欠片もなかった。彼が払いのけた紙束——リリアーナの手入れの手順書が、庭の泥の中から見つかった。それを拾った使用人は、大切にしまったという。
クラウスはリリアーナの手紙を読んで、長い間座り込んでいたという。短い手紙だった。恨み言は一つもなかった。それがかえって、胸を抉った。彼女の指先についた薬草の匂い。「少し青臭いな」と笑っていた自分を思い出して、拳を握りしめた。あの匂いは——人の命を救う匂いだったのだ。
戻ってきてくれと言える資格は、もうない。
ブレンナー伯爵家には、翌月から縁談の断り状が相次いだ。「薬師の令嬢を捨てた家」——その噂は、クラウスが恐れていた以上に速く広がっていた。
ベルクハイム村。
翌年の春。小さな薬草畑の片隅で、星霜花が初めての花を咲かせた。
ハルトヴィヒ領の星霜の庭では大輪の花を咲かせていた。山の畑で咲いた花は、掌に収まるほど小さい。
けれど——確かに、咲いた。
「きれいだねえ、この花」
ヘルダが目を細めた。
「ええ。お母様の花です。ここでも、ちゃんと咲いてくれました」
リリアーナは小さな白い花に指先を伸ばした。薬草の汁で染まった指が、花弁にそっと触れる。
「よく頑張ったね。ここは寒いのに、ちゃんと根を張ったんだ」
花が風に揺れた。
応えてくれたような気がして——リリアーナは目を細めた。星霜の庭で、毎朝そうしていたように。
追い出された薬師は、新しい土地で新しい庭を作った。
枯れた庭は戻らない。けれど種が一つあれば、どこでもやり直せる。
薬草は嘘をつかない。
それは——彼女自身のことでもあった。
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