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捨てられ令嬢は最後に笑う

「その薬草は毒かもしれぬ」と追放された令嬢薬師——領地に疫病が広がったとき、彼女の薬草園はもう枯れていた

作者: 歩人
掲載日:2026/02/28

 朝露が薬草の葉先に宿り、東の空がうっすらと朱に染まる頃。


 リリアーナは三つ編みの髪を揺らしながら、星霜せいそうの庭を巡っていた。


「おはよう。今日も元気そうね」


 月見草つきみそうの株に屈み、露を指先で確かめる。昨夜は満月だった。月見草は満月の翌朝に摘むと解熱の薬効が最も高くなる——それは母が遺した手記に記された、この庭だけの知恵だった。


「もう少しだよ。あと三日もすれば、ちゃんと摘み頃になるからね」


 声をかけると、葉が朝風に揺れた。応えてくれたような気がして、リリアーナは目を細める。


 星霜の庭。ハルトヴィヒ侯爵邸の東翼に広がる薬草園は、母が三十年かけて育てた宝物だった。数百種の薬草が季節ごとに花を咲かせ、一年を通して何かしらの薬草が収穫できるよう配置されている。


 東の隅には氷雪蘭ひょうせつらんが青みがかった葉を広げ、南の陽当たりには陽だまり草が黄金色の穂を揺らしている。中央の花壇には星霜花せいそうか——母がこの庭でたった一株から増やした固有種だ。冬を越した株だけが免疫を強くする薬効を持つ。どの薬草も、隣に何を植えるかで薬効が変わる。母はその組み合わせを三十年かけて見つけ出した。


 朝の庭は特に好きだった。露が陽光にきらめき、薬草の匂いが層をなして立ちのぼる。甘い月見草、清涼な氷雪蘭、ほろ苦い陽だまり草——混ざり合うその香りが、リリアーナにとっての「家」の匂いだった。


 ——この香りを失う日が来るとは、まだ知らなかった。


 七年前、母が流行り病で倒れた日。枕元で母はリリアーナの手を握り、こう言った。


「あの庭の子たちを、頼むわね」


 母を看取ったのは、この庭の薬草で煎じた薬だった。母自身が命を懸けて証明した——薬草は嘘をつかない。効く薬は効くし、効かない薬は効かない。


「リリアーナ様!」


 門の外から声が響く。杖をついた老人が、肩で息をしながらやってきた。


「ヴィルヘルム爺さん。今年も咳の薬ですね」


「はい、そろそろ季節の変わり目で……姫君にしか頼れませんで」


 リリアーナは微笑んで、庭の隅に設えた調合台に向かった。だまり草を三枚、月見草の根を少々、蜂蜜で練り合わせる。指先が手際よく動くたび、甘くほろ苦い薬草の匂いが立ちのぼる。


「これを朝晩、白湯さゆで。一週間もすれば楽になりますよ」


「ありがたや……ありがたや……」


 ヴィルヘルムは何度も頭を下げ、大事そうに薬袋を抱えて帰っていった。


 その背中を見送りながら、リリアーナは思う。


 この仕事が好きだ。母から受け継いだこの庭で、この手で薬を調合して、誰かの痛みを和らげる。


 社交界にはろくに顔を出さない。十九にもなって刺繍も踊りも苦手だ。令嬢としては落第生かもしれない。けれど、この手で薬草を摘み、すり鉢で薬を練り、困っている人に渡すとき——この手が自分の誇りだと思える。


 それだけでいい。それだけで——十分だ。




 穏やかな日々が終わったのは、あの男がやってきた日だった。


 新しい侍医マティアス・ヴェーバー。王都の医学院を首席で卒業した——という触れ込みで、ハルトヴィヒ侯爵邸に赴任してきた。


 清潔な白衣、後ろに撫でつけた黒髪、灰色の瞳。初対面で交わした言葉は穏やかだった。


「侯爵令嬢のリリアーナ様ですね。薬草園をお持ちだと伺いました。ぜひ一度、拝見させていただければ」


「ええ、もちろん。どうぞご覧になってください」


 庭を案内しながら、リリアーナは薬草の一つ一つを説明した。月見草の収穫時期、星霜花せいそうかの免疫強化の薬効、氷雪蘭ひょうせつらんの解毒作用。マティアスは微笑みながら頷いていたが、その目は笑っていなかった。


 最初の異変に気づいたのは、三日後のことだった。


 いつものように薬を受け取りに来た領民が、少し困った顔で言った。


「姫君、侍医の先生に怒られてしまいまして。姫君の薬を飲んでいると言ったら、『正式な医師の処方を受けなさい』と……」


「そう……ですか」


 胸がざわりとした。けれど、領民が困っているのだ。深く考えずに薬を渡した。


 それから半月の間に、マティアスの態度は少しずつ変わっていった。


 最初は遠回しだった。


「リリアーナ様、この薬草は医学院の薬物辞典に載っていないものですね。成分が不明では、安全性を保証しかねますが……」


「星霜花はこの庭の固有種です。母の代から使っていて、副作用の報告は一度もありません」


「ほう。しかし、それは医学的な根拠とは言えませんな」


 穏やかな口調だったが、その奥に棘があった。


 領民がリリアーナの薬を求めるたびに、マティアスの表情が険しくなっていくのが見てとれた。「先生の薬より姫君の薬のほうが効くんですよ」——領民のその一言が、侍医のプライドを深くえぐったのだろう。


 けれど、リリアーナにはどうすることもできなかった。


 薬草は嘘をつかない。効く薬は効くし、効かない薬は効かない。




「侯爵閣下。お嬢様の調合する薬について、ご報告申し上げたき儀がございます」


 マティアスが父に謁見を求めたと聞いたとき、リリアーナの胸は凍りついた。


 父の執務室に呼ばれたとき、マティアスはすでにそこにいた。白衣の胸ポケットに差した羽根ペンを神経質にいじりながら、穏やかな声で言った。


「お嬢様が領民に投与している薬の中に、成分不明の薬草が複数含まれております。医学的見地から申しますと、これらの薬草には毒性がないとは……いえ、危険がないとは言い切れません」


「毒だと? リリアーナの薬がか」


 父——ハルトヴィヒ侯爵は眉を寄せた。


「毒ではありません!」


 リリアーナは声を上げた。


「この薬草は母の代から三十年以上——」


「お嬢様」


 マティアスが遮った。穏やかだが、確かな重みのある声だった。


「私は王都の医学院で八年間、薬理学を修めました。学院の薬物辞典に載っていない薬草を、正式な薬理試験もなく領民に投与することの危険性を、ご理解いただけますでしょうか。万が一——万が一にも毒性があった場合、侯爵家の名に傷がつきます」


 巧みだった。「毒だ」とは一度も断言していない。「危険がないとは言い切れない」「万が一」——可能性を示唆するだけで、不安の種を撒いていく。


 父の顔が曇った。


「リリアーナ。侍医殿の言葉を軽く見るわけにはいかん。念のため、薬草園での調合は——」


「お父様、あの子たちは毒なんかじゃ——せめて調べてください。お母様が三十年かけて育てた庭です。薬理試験をすれば安全だとわかります」


「調査の間にも万が一のことがあれば、侯爵家の名に傷がつく。念のためだ」


 父はそれ以上、聞く耳を持たなかった。




 翌日。クラウスが侯爵邸を訪れた。


 婚約者のクラウス・フォン・ブレンナー。明るい金髪に青い瞳。幼い頃から一緒に育った、いつも笑顔の優しい人——のはずだった。


 けれどその日のクラウスの顔は強張り、目が泳いでいた。


「リリアーナ。話がある」


 中庭のベンチに並んで座った。クラウスの声は震えていた。


「侍医殿から聞いた。君の薬に——毒の可能性があると」


「クラウス様、それは違います。あれは讒言ざんげんです。私の薬草は——」


「でも、君の薬が医学院に認められていないのは事実だろう?」


 言葉に詰まった。確かに、星霜花も氷雪蘭も、王都の薬物辞典には載っていない。母が独自に発見し、この庭で育ててきた固有種だ。学院に報告する機会はなかった——その必要も感じていなかった。


「リリアーナ。すまない。でも、毒を扱う女と婚約していると噂されたら、ブレンナー家の名にも傷がつく。この婚約は——」


「——なかったことにしてくれ、と?」


 クラウスは目を逸らした。


「……僕には判断できないんだ。侍医殿が言うなら、そうなんだと思う」


 自分で確かめようとはしなかった。この庭に来て、薬草に触れて、領民の声を聞いてくれれば——わかるはずなのに。


 リリアーナは唇を噛んだ。


「……わかりました」


 涙は出なかった。泣くよりも先に、胸の奥の何かがすうっと冷えていった。




 追放が告げられたのは、その三日後だった。


「リリアーナ。領民の安全のため、お前にはこの領地を去ってもらう」


 父の声は硬かった。


「お父様。七年間、この庭の薬で何人の領民が救われたか——」


「侍医殿は王都の医学院出身だ。お前の独学よりも信頼できる」


 ——独学。


 母の知恵を、三十年の積み重ねを、七年間の実績を、たった一言で片づけた。


 反論の言葉は胸にあった。けれど、それを口にしても届かないことはわかっていた。マティアスの讒言は、政治的には完璧だった。学院の権威という盾の前に、「効く薬は効く」という素朴な真実は無力だった。


「……わかりました。お父様」


 リリアーナは静かに頷いた。




 荷造りは半日で終わった。


 着替えをひとつ、母の手記を一冊、調合道具の最低限。それだけだった。


 最後に、星霜の庭に足を向けた。


 夕暮れの薬草園は、いつもと同じ穏やかな匂いに満ちていた。月見草が露を蓄え、星霜花が白い花弁を風に揺らし、陽だまり草が最後の陽光を浴びている。


 リリアーナは一つ一つの薬草に触れて歩いた。


「ごめんね……もう、私は来られないの」


 月見草の葉を指でそっと撫でる。


「誰かがちゃんと手入れしてくれるはずだから……」


 嘘だ。この庭の薬草は、それぞれに固有の手入れが必要だ。水やりの時刻、剪定の角度、隣り合う薬草との相性。母が三十年かけて築いたその体系を、リリアーナ以外に理解している者はいない。


 マティアスにできるはずがない。あの男は薬草を「ただの草」としか見ていない。


 星霜花の前で膝をついた。白い花が、夕陽に染まって淡い桃色に輝いている。


「……ごめんね」


 種鞘たねざやから、数粒の種をそっと摘み取った。小さな、けれど確かな重みが掌に乗る。


 これだけは——持っていく。


 門を出るとき、料理長のバルトがエプロンで目を拭いながら立っていた。


「お嬢様。お嬢様の薬に救われた者は、この屋敷にも大勢おります。どうかお元気で」


「……ありがとう、バルト。薬草園の手入れだけは、どなたかにお願いしてくれますか。あの子たちは、放っておくと枯れてしまいますから」


「必ず……必ずお伝えします」


 振り返らなかった。


 懐の星霜花の種を握りしめて、リリアーナは歩き出した。


 お母様——ごめんなさい。でも、この種があれば。どこでもやり直せる。




 ハルトヴィヒ領を出て東へ五日。


 山道を一人で歩き続けた足はとうに限界を超えていた。靴底は擦り減り、足首には水膨れができている。標高が上がるにつれ空気が冷たくなり、薄い外套がいとうでは寒さが骨に染みた。道端の草を見つけるたびに、つい薬効を考えてしまう自分がおかしかった。薬草師のさがは、追放されたくらいでは抜けない。


 三日目の夜、道端で野宿をしながら、星を見上げた。星霜花の名前の由来は「星の霜」——母が冬の朝、花弁に降りた霜が星のように煌めくのを見て名づけたのだという。懐の種を握りしめて、眠った。


 けれど五日目の朝——山の空気に混じるその匂いに、リリアーナは足を止めた。


「……この匂い」


 清冽せいれつで、どこか甘い。薬草師なら見間違えない。


「氷雪蘭? こんな場所に自生しているの……?」


 星霜の庭では栽培が極めて難しかった希少種が、山の斜面に群生していた。寒冷地でなければ育たない——そう母の手記にも記されていた。


 疲れが一瞬、吹き飛んだ。薬草を見ると体が勝手に動く。膝をつき、葉の厚みを指で確かめ、茎の太さを測る。


「すごい……。高山の寒さで育った分、葉が厚い。薬効が強そう……」


「おや。見かけない顔だね」


 背後からしわがれた声が降ってきた。


 振り向くと、白髪を団子にまとめた小柄な老婆が立っていた。腰に薬草袋を下げ、手には摘んだばかりの草が握られている。


「旅の人かい? こんな山奥まで来るなんて、珍しいね」


「は、はい……少し、休ませていただける場所を探しているのですが……」


 老婆——ヘルダは、リリアーナの手をじっと見た。


 薬草の汁で染まった指先。爪の間に残る土の色。


「……ほう」


 ヘルダの薄い茶色の目が、深い皺の奥で光った。


「薬草を扱う手だね。いい手をしてるよ、お嬢ちゃん」


「……わかるのですか?」


「五十年、薬草を触ってきたからね。同じ手をした人間は、ひと目でわかるさ」


 ヘルダはリリアーナの顔をまじまじと見た。それから、ふっと息を吐いた。


「追い出されたクチかい」


 言い当てられて、リリアーナは言葉を失った。


「その顔を見りゃわかるよ。腕はあるのに居場所がない——って顔してる。何十年も薬草を触ってりゃ、人の顔色だって読めるようになるんだよ」


「……はい。追い出されました」


「そうかい」


 ヘルダはそれ以上は聞かなかった。


「じゃあ、うちの畑を手伝いな。この村にゃ薬師がいなくてね。あたしも年だから、そろそろ誰かに引き継ぎたいと思ってたのさ」


「ヘルダさんが……薬草師なのでは?」


「だから年だって言ってるだろう。膝が痛くて、もう山を登れないんだよ」


 ぶっきらぼうに言って、ヘルダは背を向けた。


「ほら、着いておいで。まずは温かいものでも飲みな」


 小柄な背中が、山道を迷いなく歩いていく。リリアーナは、その背中に母の面影を重ねていた。




 ベルクハイム村は、山裾に寄り添うように佇む小さな集落だった。石壁の家が二十軒ほど。人口は二百人に満たない。


 ヘルダの小屋は村の外れにあり、裏手に小さな薬草畑が広がっていた。


「これは……」


 リリアーナは目を見開いた。星霜の庭とは全く異なる薬草が、山の斜面に沿って植えられている。見たことのない草、匂ったことのない花。


「山の薬草は平地のとは違うんだよ」


 ヘルダが誇らしげに言った。


「寒さに耐えた分だけ、薬効が強いのさ。ほら、この青い花——霜晶草そうしょうそうってんだけどね。咳に効くんだよ。陽だまり草より効くよ」


「陽だまり草より……? すごい……」


「学院の薬物辞典にゃ載ってないだろうけどね。この山の薬草は、この山にしかないんだよ。あたしの母さんがそう教えてくれた。そのまた母さんから受け継いだ知恵さ」


 リリアーナの胸が熱くなった。


 学院式の正統薬草学と、民間に伝わる土着の薬草学。体系は違えど、根は同じだ。薬草を愛し、人を癒す——その一点で繋がっている。


「ヘルダさん。一つ、お願いがあるのですが」


 リリアーナは懐から、あの種を取り出した。


「この種……ここで育ててもいいですか?」


 ヘルダは掌の種を覗き込んだ。


「何の種だい?」


「星霜花です。母が見つけた薬草で……免疫を強くする力があります。冬を越した株だけが薬効を持つ、少し気難しい子ですけれど……」


「いいとも」


 ヘルダはあっさりと言った。


「お嬢ちゃんの大切なものだろう? 大切なものは、ちゃんと根を張らせてやらなきゃね」


 ——根を張らせる。


 その言葉が、胸の奥に沁みた。


 追い出されても。庭を奪われても。この種が根を張れば、そこが新しい庭になる。


 翌日から、リリアーナはヘルダの畑の一角を借りて薬草を植え始めた。星霜花の種を丁寧に蒔き、霜晶草の隣に月見草を植え、陽だまり草の苗をヘルダから分けてもらった。


「ヘルダさん、この土壌なら月見草がよく育ちそうですね。ここに——あ、すみません、つい夢中になって」


「いいよいいよ。薬草の話をしてるお嬢ちゃんは、いい顔してるよ」


 ヘルダの民間薬草学と、リリアーナの学院式知識。二つが交わることで、どちらか一方では作れない薬が生まれ始めた。


 ある日、村の子供が高熱を出した。母親が泣きながらヘルダの小屋に駆け込んできた。


「先生! ユリウスが朝から熱が下がらなくて……!」


 リリアーナは子供の額に手を当て、瞳孔を確認し、喉の奥を診た。秋霧熱の初期症状に似ている。星霜の庭ならすぐに処方を出せたが、ここには庭の薬草がない。


 ——けれど、この山の薬草がある。


 リリアーナは星霜花の若い葉と、ヘルダの霜晶草を配合した解熱薬を調合した。母の手記にも、ヘルダの知恵にもない——新しい組み合わせ。星霜花が免疫を高め、霜晶草が熱を下げる。理屈の上では効くはずだが、実績がない。手が少しだけ震えた。


「飲めるかい? 苦いけど、すぐに楽になるよ」


 子供は顔をしかめて飲み干した。翌朝には、熱は引いていた。


「リリアーナ先生、すごい! 昨日あんなに辛そうだったのに!」


 母親の喜ぶ顔を見て、リリアーナは思った。


 ——ここでもやっていける。


 学院式でも民間式でもない、両方を合わせた新しい薬草学。失ったものは大きい。けれど——ここでしか得られないものも、確かにある。


 薬草は場所を選ばない。種と知識と、育てる手があれば。どこでだって、人を救える。




 ——リリアーナの追放から二ヶ月。


 ハルトヴィヒ侯爵領は、静かに崩れ始めていた。


 星霜の庭は見る影もなかった。


 雑草が薬草を覆い、月見草は虫に食われ、陽だまり草は水を与えすぎて根腐れを起こしていた。マティアスが手入れを命じた使用人たちは、どの草が薬草でどの草が雑草かもわからず、ただ途方に暮れていた。


「こんなものは雑草の山だ。正統な薬があれば、このような庭は必要ない」


 マティアスは吐き捨てた。


「しかし侍医殿、リリアーナ様が手入れの手順を書き残してくださったのですが……」


 使用人が差し出した紙束を、マティアスは一瞥もせずに払いのけた。


「あの女の迷信に従う必要はない。私の薬で十分だ」


 紙束が地面に散らばった。リリアーナが一晩かけて書いた、薬草一つ一つの世話の仕方。水やりの時刻、剪定の角度、隣り合う株との間隔——踏みつけられた紙の上を、マティアスの靴が通り過ぎていく。


 その翌週、庭番の老人がマティアスに訴えた。


「侍医殿、氷雪蘭の葉が黄色くなっております。このままでは——」


「薬草の世話は私の仕事ではない。見た目が悪いなら刈ってしまえ」


 老人は黙って庭に戻った。リリアーナに仕えて二十年。あの優しい姫君なら、枯れかけた一株にも膝をついて声をかけた。「大丈夫、もう少しだから」と。


 刈られた氷雪蘭は、翌日には茶色く萎びていた。


 月見草は次の満月を待てずに折れた。陽だまり草は根腐れから立ち直れず、どろどろに溶けた。そして——


 星霜花が、最後の一輪を咲かせた。


 白い花弁が風に揺れ——力を失うように、しおれて落ちた。


 使用人たちが黙って見守る中、三十年かけて育てた庭は、二ヶ月で死んだ。


 料理長のバルトが庭の端に立ち、エプロンで顔を拭った。


「お嬢様……すみません。お守りできませんでした」




 秋。霧が深くなる季節。


 最初の患者は、農夫の老人だった。高熱、激しい咳、全身の倦怠感。


 秋霧熱あきぎりねつ——季節の変わり目に発生する流行り病。毎年、小規模に発生する。


 けれど今年は違った。


 一人が倒れ、三人が倒れ、十人が倒れ、二十人が——。


「先生、薬を! 薬をください!」


 マティアスは正統医学の解熱剤を処方した。教科書通りの配合。学院で教わった通りの分量。


 熱は一時的に下がった。半日だけ。そして夜にはぶり返し、前より高くなった。


「なぜだ……教科書通りの処方なのに……」


 マティアスの手が震えた。白衣の袖口が汗で湿っている。


 領民の一人が叫んだ。


「姫君の薬があれば! 去年は星霜花の予防薬で、誰も倒れなかったのに!」


 マティアスは薬草園に走った。


 門をくぐった瞬間、足が止まった。


 そこにあったのは——枯れた茎と、雑草の山だけだった。


 星霜花は一本も残っていなかった。月見草も、陽だまり草も、氷雪蘭も。三十年の歳月が育てた命の全てが、たった二ヶ月の無知と怠慢で失われていた。


 かつてリリアーナが毎朝語りかけていた調合台には、蜘蛛の巣が張っている。彼女が丁寧に並べていた薬瓶は倒れ、中身は乾いてこびりついていた。


 マティアスは枯れた茎の前に膝をついた。


「まさか……こんな雑草が……本当に……」


 迷信だと笑った。ただの草だと見下した。


 それが——領民の命を繋ぐ、唯一の盾だったのだ。




「マティアス! なぜお前の薬が効かないのだ!」


 侯爵の声が執務室に響いた。


 疫病は日を追うごとに広がっていた。死者が出始めている。


「こ、この熱病は通常の解熱剤では……も、もう少し時間をいただければ……」


「時間だと? 領民が死んでいるのだぞ!」


 そこへ、扉を蹴るようにして飛び込んできたのはクラウスだった。


「リリアーナはどこだ!」


 息を切らし、顔は青ざめていた。


「彼女を呼び戻さなければ——薬草のことがわかるのはリリアーナだけだ!」


「お前が婚約を破棄したのだろう!」


 侯爵が怒鳴った。


「僕が……僕が間違っていた」


 クラウスの声が震えた。あの軽薄な笑顔は消え、代わりにあったのは、手遅れの後悔だった。


「あのとき、ちゃんとリリアーナの話を聞くべきだった。侍医殿の言葉を鵜呑みにして……薬草園がどれほど大切なものだったか、考えもしなかった」


 侯爵は沈黙した。


 自分もまた同じだった。娘が七年間守ってきた庭の重みを、侍医の肩書き一つで天秤にかけ——軽い方を選んだ。


「リリアーナを探せ。全力で探すのだ」


 そして侯爵は、ゆっくりとマティアスに向き直った。


「マティアス。お前は私に何と言った。——娘の薬に毒の疑いがある、と」


「そ、それは……成分が不明であれば、万が一ということを……」


「万が一だと?」


 侯爵の声が凍りついた。


「万が一を口にしたお前の薬は、今この瞬間、領民を一人も救えていない。一方、毒かもしれぬと断じた娘の薬は——七年間、ただの一人も死なせなかった」


 マティアスの顔が蒼白に変わった。


「侍医の職を解く。今日中にこの屋敷を出よ」


「こ、侯爵閣下——お待ちください。私は王都の医学院で——」


「その学院が、今この領地で何の役に立っている!」


 侯爵の怒号が執務室の壁を震わせた。マティアスは膝から崩れた。


「さらに、讒言により侯爵令嬢を不当に追放させた件——王都の医師会に報告する。お前が再びどこかの領地で侍医を名乗ることは、二度とないと思え」


 マティアスは床に這いつくばったまま、声も出せなかった。八年間積み上げた学院の権威が、一枚ずつ剥がれ落ちていく。それは、リリアーナから薬草園を奪ったときと同じだった。——ただし、彼の権威には、根がなかった。


 だが、リリアーナの行方を知る者は誰もいなかった。




 一方、ベルクハイム村。


 秋霧の季節が巡ってきた。周辺の村からも、秋霧熱の噂が聞こえてくる。今年は大きな流行りになるらしい。


 けれど——ベルクハイム村では、誰一人として倒れていなかった。


「リリアーナ先生の薬のおかげだね。今年は咳一つ出ないよ」


 村人が笑う。


 リリアーナが星霜花の若い株と、ヘルダの霜晶草、それに山の清水で煎じた予防薬を、秋の入り口に村人全員に配っていた。学院式の配合と民間薬草学の知恵を掛け合わせた、この土地だけの薬。


「お嬢ちゃん、大したもんだよ」


 ヘルダが縁側で薬草を干しながら言った。


「あたしの薬草とお嬢ちゃんの知識で、こんなに良い薬ができるなんてね。母さんが聞いたら喜ぶよ」


「ヘルダさんの薬草があってこそです。この山の薬草は本当にすごい……平地では絶対に手に入らない力があります」


 リリアーナは微笑んだ。


 けれど、心のどこかがざわついている。


 あの庭は——星霜の庭は、どうなっているのだろう。薬草たちは、元気だろうか。手入れはしてもらえているのだろうか。


 ……いや。わかっている。マティアスに、あの庭の手入れはできない。




 ある朝、ベルクハイム村に一頭の馬がよろめきながら入ってきた。


 鞍の上には、ボロボロの男が一人。ハルトヴィヒ侯爵家の紋章が入った外套を纏っている。


「リリアーナ……様……を……」


 使者は馬から転がり落ち、村人に抱えられた。


 リリアーナが駆けつけると、使者は震える手で二通の手紙を差し出した。


 一通は、父から。


『リリアーナ。私は間違っていた。領地に疫病が蔓延し、薬草園は枯れ果て、侍医の薬は効かぬ。どうか戻ってきてほしい。領民を救えるのはお前だけだ。どうか——』


 もう一通は、クラウスから。


『リリアーナ。僕が間違っていた。君の薬草がどれほど大切なものだったか、今になってようやくわかった。頼む。戻ってきてくれ。僕は——』


 手紙が震えた。リリアーナ自身の手が震えていた。


「……」


「どうするんだい、お嬢ちゃん」


 ヘルダが静かに訊いた。責めるでもなく、急かすでもなく。ただ、訊いた。


「……少し、考えさせてください」




 夜。


 リリアーナは薬草畑に座って、星を見上げていた。


 星霜花の若い株が、月明かりに白く輝いている。母の庭から持ってきた種が、この山の土に根を張り、初めての蕾をつけ始めていた。小さいけれど、確かに生きている。


 父の手紙を何度も読み返した。震える字で書かれた「どうか戻ってきてほしい」——その一文に、七年間聞けなかった言葉が詰まっている気がした。


 戻れば、領民を救える。


 けれど——戻るということは、自分を追い出した場所に頭を下げて帰るということだ。讒言を信じた父の下に。話を聞かなかった元婚約者の下に。自分を「毒を扱う女」と断じた男がいる場所に。


 それは——嫌だ。


 嫌なのだ。


 怒りではない。恨みでもない。ただ、もう——あの場所に自分の居場所はない。


 ベルクハイム村の人たちの顔が浮かんだ。薬を受け取って笑う子供。「先生」と呼んでくれる村人。ぶっきらぼうだけど温かいヘルダ。ここには、自分を「毒を扱う女」ではなく「薬草の先生」として見てくれる人がいる。


 星霜花に手を伸ばした。蕾がそっと指に触れる。


「……お母様。私、ここに根を張りました」


 答えは——もう、出ていた。




 翌朝。


 リリアーナは使者の前に立った。


「私は、この村に残ります」


 使者の顔が絶望に歪んだ。


「で、ですが、領民が——」


「でも」


 リリアーナは穏やかに、けれど揺るがない声で続けた。


「薬だけは、お届けします」


 使者が顔を上げた。


「星霜花の予防薬と、秋霧熱の治療薬を調合します。量は多くなりますから、二日ほどお待ちください。馬をもう一頭用意してもらえれば、運べるだけお持ちいただけます」


「リリアーナ様……」


「私は戻りません。けれど、あの領地の人たちを見捨てることもできません」


 振り返ると、ヘルダが腕を組んで小屋の前に立っていた。にやりと笑った。


「お嬢ちゃんらしいねえ。じゃあ、手伝うよ。霜晶草をたんまり摘んでくるからね」


 二日間、リリアーナとヘルダは夜を徹して薬を調合した。星霜花の若葉、霜晶草、月見草の根、山の清水。学院式の配合と民間の知恵を注ぎ込んだ、渾身の薬。


 使者に薬を託すとき、リリアーナは一通の手紙を添えた。


「クラウス様へお渡しください」


 短い手紙だった。


『クラウス様。私の手は、薬草の匂いがします。それは変わりません。どうかお元気で。——リリアーナ』




 リリアーナの薬は、ハルトヴィヒ領に届いた。


 予防薬を飲んだ者の発症は止まり、治療薬をんだ者の熱は引いた。三日で流行は峠を越え、一週間で疫病は鎮まった。


 侯爵は枯れ果てた星霜の庭の跡に立ち、長い間動かなかった。


 かつて娘が毎朝ここで薬草に話しかけていた。「おはよう」「今日も元気そうね」「もう少しだよ」——あの声を、窓越しに何度も聞いていた。聞いていたのに、その重みを量ろうとしなかった。


 なぜ、調べさせなかったのか。妻が三十年守り続けた庭だ。薬理試験一つで白黒つけられたものを——侍医の言葉だけで、娘を追い出した。


「……私は、この庭の価値がわからなかった」


 枯れた茎を拾い上げ、その軽さに顔を歪めた。三十年の命が、こんなにも軽い。娘の手紙には「戻りません」とは書いてあったが、「恨んでいます」とは書いていなかった。それが、よほど堪えた。


 疫病の報は近隣領にも伝わった。「娘を追い出した侯爵」——その評判は、領主としての信用を静かにむしばみ始めていた。


 マティアスはその日のうちに屋敷を去った。去り際に、誰一人として見送る者はいなかった。門を出る背中には、かつての白衣の威厳は欠片もなかった。彼が払いのけた紙束——リリアーナの手入れの手順書が、庭の泥の中から見つかった。それを拾った使用人は、大切にしまったという。


 クラウスはリリアーナの手紙を読んで、長い間座り込んでいたという。短い手紙だった。恨み言は一つもなかった。それがかえって、胸をえぐった。彼女の指先についた薬草の匂い。「少し青臭いな」と笑っていた自分を思い出して、拳を握りしめた。あの匂いは——人の命を救う匂いだったのだ。


 戻ってきてくれと言える資格は、もうない。


 ブレンナー伯爵家には、翌月から縁談の断り状が相次いだ。「薬師の令嬢を捨てた家」——その噂は、クラウスが恐れていた以上に速く広がっていた。




 ベルクハイム村。


 翌年の春。小さな薬草畑の片隅で、星霜花が初めての花を咲かせた。


 ハルトヴィヒ領の星霜の庭では大輪の花を咲かせていた。山の畑で咲いた花は、掌に収まるほど小さい。


 けれど——確かに、咲いた。


「きれいだねえ、この花」


 ヘルダが目を細めた。


「ええ。お母様の花です。ここでも、ちゃんと咲いてくれました」


 リリアーナは小さな白い花に指先を伸ばした。薬草の汁で染まった指が、花弁にそっと触れる。


「よく頑張ったね。ここは寒いのに、ちゃんと根を張ったんだ」


 花が風に揺れた。


 応えてくれたような気がして——リリアーナは目を細めた。星霜の庭で、毎朝そうしていたように。


 追い出された薬師は、新しい土地で新しい庭を作った。


 枯れた庭は戻らない。けれど種が一つあれば、どこでもやり直せる。


 薬草は嘘をつかない。


 それは——彼女自身のことでもあった。

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― 新着の感想 ―
身勝手な感想に対応していただいたことに少し驚きつつ再読しました。 何度読んでも、侯爵は・・・と思わずにはいられませんが、より保身に走る姿とリリアーナの絶望が伝わってくるようでした。 そして、根を張りま…
薬の対価をしっかり支払ったのかな。どうも踏み倒した気がするね。
今の漢方薬だって数千年の人体実験の賜物ですからね。知識の積み重ねをバカにしてはいけない、という事なのでしょう。
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