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ギルドから逃げ帰った夜、コウタは暗い自室で、震える指先で端末を叩いた。
網膜に焼き付いたのは、あの不快な女の腕にあった火傷の痕だ。
認めれば、自分が恋い慕う「現場の彼女」が、あの最悪なブランド女だということになってしまう。
そんな絶望を塗りつぶすには、ネットの敵を殴りつけるのが一番の特効薬だった。
『コウタ:……最悪だ。今日、数ヶ月ぶりに例の「不快なブランド女」を見かけた。
相変わらず身の丈に合わない場所をうろついていて、見るだけで吐き気がしたよ。
彼女(社長令嬢)のような気品とは正反対の、ただの虚飾の塊だ。
お前のような底辺女でも、流石にあいつよりはマシな顔をしてるんじゃないか?』
送信。
コウタは、自分の動揺を「相手への攻撃」に変換することで、必死にメンタルを維持していた。
実際には、あの火傷が気になって、現場の彼女のために買った高価な軟膏を握りしめているというのに。
数秒後、カナからも、いつも以上の殺気を孕んだ返信が届く。
『カナ:ちょっと、その女と一緒にしないでくれる!?
私だって今日、あの「不審者くん」を数ヶ月ぶりに見かけて、一日の運気が全部死んだところなのよ。
相変わらずボロい格好で、掲示板の前で陰気なオーラを撒き散らしてたわ。
私の騎士様(現場の彼)は、もっと洗練されていて、あんなゴミみたいな男とは住む世界が違うの。
あんたみたいな「社長令嬢の紐(設定)」の男でも、あいつよりはまだ、マシな喋り方をするはずよ!』
カナは、高級ホテルのスイートにいる「設定」で、実際には安アパートの万年床で膝を抱えていた。
あの男の手にあった痣。
それを「ゴミ箱にぶつけた傷」だと思い込もうとすればするほど、胸の奥がざわついて止まらない。
『コウタ:ふん。まあ、そんなゴミみたいな奴のことは早く忘れろ。
視界に入れるだけで人生の損失だ。
お前も、その「10人の彼氏」とやらにでも癒してもらえばいいだろ。
俺も、これから令嬢が用意してくれたプライベートジェットで食事に行くから、これ以上お前の愚痴に付き合っている暇はない』
『カナ:言われなくてもそうするわよ!
あんたも、その「社長令嬢」に捨てられないように、せいぜい愛想を振りまいておくことね。
私はこれから、CEOの彼に頼んで、その不審者が二度と私の前に現れないように根回ししてもらうから!』
互いに、目の前の相手を「現実のアイツよりはまだマシな存在」と定義し、ネットの嘘で慰め合う。
自分が今日会った「理想の相手」を、自分が今罵倒している「ネットの敵」から守るために。
(……やっぱり、あいつはバカだな。
あの彼女が、あんな奴であるはずがないんだ)
(……本当に、こいつは性格が悪い。
あの騎士様が、あんな不審者であるはずがない。絶対に)
二人は、自分たちの正体を守るために、お互いの存在を「防波堤」として利用し合っていた。
ネットでつながる唯一の「理解者」が、リアルで最も嫌悪する「あのゴミ」だとは、夢にも思わずに。
ギルドから発せられた未曾有の緊急招集。
都市の存亡を懸けた大規模レイド「静寂の捕食者」掃討作戦に、数百人のハンターが集結していた。
コウタは、周囲の喧騒から逃れるように、防壁の最も影になる後方待機エリアに身を潜めていた。
手元にあるのは、錆びた剣と、そして傷だらけのフルフェイスヘルメットだ。
視線は、群衆の中をせわしなく泳いでいる。
(……どこだ。あいつは来ているのか)
探しているのは自分の創り出した「社長令嬢」でも、ギルドで見かけた「あの不快な女」でもない。
泥の中で背中を預け、唯一本当の自分を晒せた、あの「彼女」だ。
この戦場に彼女がいる。
そう確信しているのは、昨夜、あの忌々しいチャットの女に「明日、現場のあいつに会うんだ」と、つい口を滑らせてしまったからだ。
一方、カナもまた、後方の物資集積所の陰で、激しく脈打つ鼓動を抑えていた。
彼女の手には、使い込まれた二本の短剣。
そして、表情を一切読み取らせない鉄の仮面。
(……きっと、来てるわよね。あの人なら、逃げるはずがない)
彼女が探しているのは「10人の彼氏」ではなく、あの「騎士様」だ。
自分の絶望を知り、それでも隣にいてくれた彼。
この広大なキャンプのどこかに、彼がいる。
あの不審者くんが「明日、現場の女に格の違いを見せつけてやる」と豪語していたのが本当なら、彼は間違いなくこの戦域にいるはずだった。
二人は、互いに数十メートルという距離にいながら、互いの「素顔」を完璧に無視していた。
コウタの視界には、ブランド物のワンピースを脱ぎ捨て、不似合いな重装備に身を包んで震えている「カナ」が映った気がした。
(……ちっ、他人のそら似か。
まあいい、後方待機の雑用なら、あんな奴いるわけないさ。
今は、あの彼女を探すのが先だ)
カナもまた、フードを深く被り、隅っこで膝を抱えている「コウタ」の背中を一瞥し、鼻で笑った。
(……不審者くん、やっぱり後方で震えてるのね。
まあ、あんな弱そうな男が前線に出たら一瞬で肉塊だわ。
あんなの放っておいて、早く私の騎士様を見つけなきゃ)
お互いに、最も近くにいる「真実」をゴミのように切り捨て、存在しない「理想」を探して群衆を彷徨う。
その歪な執着が、やがて始まる殺戮の宴の中で、残酷な形で合流することになる。
やがて、開戦を告げる魔導信号が、重苦しい空を赤く染め上げた。
戦況は、最悪の一途を辿っていた。
前線が魔物の衝撃波によって紙屑のように散り、後方待機エリアにまで、死の臭いを孕んだ突風が吹き抜ける。
コウタは、震える手でフルフェイスヘルメットを被った。
視界が狭まり、鉄の匂いが鼻を突く。
だが、この無機質な闇に閉じこもった瞬間、彼は「無能な不審者」から、誰かを守るための「騎士」へと変貌する。
(……行かなきゃ。あいつが、あの子がこのどこかにいる)
コウタが混乱する群衆をかき分け、前線へと飛び出したその時。
瓦礫の陰から、同じようにフルフェイスの鉄仮面を被り、二本の短剣を握りしめた小柄な人影が飛び出してきた。
「……あ」
「……あんた、無事だったのね」
ヘルメット越しにくぐもった、けれど聞き間違えるはずのない、あの「彼女」の声。
激しい爆音と悲鳴が飛び交う戦場で、その一言だけが、コウタの耳に清流のように届いた。
カナもまた、鉄の仮面の裏側で、熱い涙が込み上げるのを感じていた。
周囲には、絶望して逃げ惑うハンターや、無様に倒れ伏す者たちばかり。
その中で、唯一変わらない重厚な佇まいでそこに立っていたのは、彼女が待ち焦がれた「騎士様」だった。
「……ああ。君こそ、無事でよかった。
ずっと探していたんだ……この地獄みたいな場所で、君だけが頼りだった」
コウタは一歩踏み出し、彼女の肩に手を置いた。
それは、現実の「カナ」には決して見せることのない、剥き出しの親愛。
「……怖いか?」
「……ええ。死ぬほどね。
でも、あんたが隣にいるなら、私、まだ戦えるわ」
カナは、震える手でコウタの手を握り返した。
二人の間には、もはや「10人の彼氏」も「社長令嬢」も存在しない。
ただ、互いの体温と、生きて帰りたいという切実な願いだけが、冷たい籠手を通じて通じ合っていた。
「……さっき、後ろの方で嫌な奴を見かけたんだ。
最悪な気分だったが……君の顔を見たら、いや、このヘルメットを見たら、全部吹き飛んだよ」
「ふふ、奇遇ね。私もよ。
ゴミみたいな男を見て吐き気がしてたけど……あんたがいてくれて、救われたわ」
二人は、自分たちが今「ゴミ」と呼んだ相手が、今まさに手を握り合っているこの相手だとは微塵も疑わず、深く、深く頷き合った。
これほどまでに自分を肯定し、支えてくれる人間は、世界中で目の前のこの一人しかいないと、確信しながら。
「行こう。……俺たちの『居場所』は、ここじゃない。
生きて、もっと別の場所へ行くんだ」
「ええ。合わせるわよ、相棒!」
二人は背中を合わせ、絶望の渦巻く前線へと、弾かれたように駆け出した。
周囲のハンターたちが、信じられないものを見るような目で立ち尽くす。
数分前まで、なすすべなく崩壊していた前線が、たった二つの鉄仮面によって、押し返され始めていたのだ。
コウタの大剣は、まるで生き物のようにしなやかに振るわれ、咆哮を上げる魔物の頭部を正確に砕く。
その一撃は重く、そして速い。
だが、彼が本当に恐ろしいのは、その後の動作だった。
彼の背後、カナの短剣が舞う。
コウタの剣が砕いた魔物の死角に回り込み、まだ息のある眷属の喉を正確に掻き切る。
まるで、コウタの剣の軌道を完全に予測し、その余波すらも利用しているかのようだった。
「ッ、左前方!」
コウタの短い叫びに、カナは反射的にその場を飛び退く。
直後、彼女がいた場所に、巨大な岩石が叩きつけられ、轟音と共に地面が抉れた。
彼らの間には、言葉を介さない、テレパシーのような連携が成立していた。
「すごい……なんだ、あの二人……」
「見たこともない連携だ。まるで、一人の人間が二人いるみたいだぞ!」
周囲のハンターたちは、後方の安全地帯から、その異常なまでの戦闘能力に息を呑んだ。
コウタは、かつてチャットで「世界中のギルドに名を知られた最強ハンター」だと豪語したが、その虚飾が、今、戦場で真実となっていく。
カナは「十人のエリートに愛される価値ある女」だと嘘を吐いたが、その嘘さえも、この瞬間、彼女の短剣の切れ味に宿る「自信」として輝いていた。
彼らが唯一、嘘偽りなく「自分自身」でいられるこの場所で、二人の魂は、恐ろしいほどの速度で共鳴し、成長を続けていた。
(……やっぱり、あんたの隣なら、どこへだって行ける)
(……ああ。君こそ、俺の最高の相棒だ)
互いに素顔を隠した鉄仮面の下で、二人は確信していた。
この無双は、お互いが「相手は自分にとって唯一無二の存在である」と信じているからこそ生まれる奇跡だった。
戦場は、もはや組織的な抵抗すら不可能なほどに荒れ果てていた。
悲鳴と絶望が渦巻く中、二つの鉄仮面だけが、逆流するように魔物の群れを切り裂き、倒れ伏したハンターたちを一人、また一人と安全圏へ放り投げていく。
コウタが大剣で巨大な土壌蜘蛛を両断し、その隙にカナが重傷の若手ハンターを肩に担ぎ上げた。
「……しっかりしろ! まだ死ぬ時間じゃない!」
コウタの叱咤に、救われたハンターたちは震えながら二人を見上げる。
周囲にいた「前線の精鋭」たちは、すでに戦意を喪失し、後退を始めていた。
だが、その視線の先で、後方待機の雑用係だったはずの二人が、神がかり的な連携で地獄を浄化していく。
「な、なんだよあの二人……後方の待機組だろ!? なんであんな動きができるんだ!」
「すごい……まるで、二人が一つの意思で動いてるみたいだ。おい、あんたらなら……あんたらなら、あのレイドボスを叩けるんじゃないか!?」
一人の叫びが、燎原の火のように周囲へ広がった。
逃げ腰だったハンターたちが、藁をも掴む思いで、二つの鉄仮面へ期待の眼差しを向ける。
「そうだ! あんたらならやれる! あのボスさえ沈めれば、俺たちは助かるんだ!」
「頼む、行ってくれ! 俺たちはここで残った奴らを回収する! あんたらなら……あんたらなら、あの化け物に勝てる!」
湧き上がる歓声と、身勝手な期待。
コウタはヘルメットの奥で、苦い笑いを浮かべた。
「……よせ。俺たちはただの、後方組だ。そんな大層な英雄じゃない」
「そうよ。私たち、日銭を稼ぎに来ただけなんだから……勝手に盛り上がらないで」
カナもまた、不快そうに短剣を振った。
だが、周囲の「英雄を求める熱狂」は止まらない。
彼らが救い出したハンターたちが、血まみれの手を合わせ、祈るように二人を押し上げる。
「大丈夫だ! あんたらならやれる、絶対にやれる!」
「本物のハンターってのは、あんたらみたいな奴のことを言うんだ!」
周囲の期待に押し出されるように、二人はボスの鎮座する最深部へと、一歩、また一歩と踏み出さざるを得なくなる。
かつてネット上で「最強」や「選ばれし者」と豪語していた嘘が、今、皮肉にも大衆の期待という形で、彼らを死地へと追い詰めていく。
「……おい。行けるか、相棒」
コウタが隣の鉄仮面に問いかける。
カナはヘルメットの中で、震える唇を噛み締め、そして力強く短剣を握り直した。
「……あんたが隣にいるなら、問題ないわね。
最高の騎士様にエスコートしてもらえるなら、地獄の果てまで付き合ってあげるわよ」
二人は背中を合わせ、周囲の狂信的な歓声を背に受けながら、巨大な災厄の待つ深淵へと駆け出した。




