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戦いから戻ったアパートの静寂は、時として魔物の咆哮よりも鋭くコウタの神経を逆撫でした。

ボロを隠すために買った安物の柔軟剤の匂いが、自分の生活の「底」を強調している。

コウタは震える指で端末を開き、暗闇の中で青白い画面に縋り付いた。



『コウタ:……なあ、少し聞きたいことがある。

俺の彼女である社長令嬢のことは話したよな。

彼女は完璧だ。だが、最近現場で組む女ハンターが、どうも俺に気があるらしくて困っているんだ。

彼女(令嬢)を裏切るつもりはないが、その女も「生きるために戦う」なんて殊勝なことを言う、骨のある奴でね。

お前みたいなビッチと違って、男の扱いを分かっている女性なら、こういう時どう動くものなんだ?』



送信。

コウタは、現場の彼女に惹かれている自分を認める代わりに、「向こうが俺を狙っている」という形に記憶を改ざんした。

最強の男である自分。社長令嬢に愛される自分。

その「設定」を守るためには、この相談すらマウントの一種でなければならなかった。


数秒後、即座に既読がつき、猛烈な勢いで文字が躍り出た。



『カナ:はあ!? 何よそれ、惚気? 死ぬほど気持ち悪いんだけど。

その女、どうせあんたが「社長令嬢と付き合ってる」っていう嘘に騙されて、玉の輿でも狙ってるんじゃないの?

奇遇ね、私の方も今困ってるのよ。

私の十人の彼氏たちはみんな完璧なエリートだけど、昨日またひとり私の彼氏に立候補する男が、どうも私に「運命」を感じちゃったみたいで。

漏れ出る私の「魅力」に当てられちゃったんでしょうね。

本物の騎士を気取って私を守ろうとするから、エスコートされるのも疲れちゃうわ』



カナは、安物コーヒーの空き缶を握りつぶしながら打ち込んだ。

現場の「彼」への恋心を、「10人の彼氏に愛される私への、新たな貢ぎ物」として定義し直す。

そうしなければ、泥にまみれて戦う自分の惨めさに耐えられない。



『コウタ:騎士? お前の頭の中は花畑か。

だが、その男が本気でお前を狙っているなら、助言してやる。

男ってのはな、ミステリアスな部分に惹かれるもんだ。

素顔を見せず、私生活も語らない。現場での「完璧な戦士」という虚像を貫き通せ。

もしお前が不用意にヘルメットを脱いで、その薄汚い素顔を見せたら、そいつの夢は一瞬で崩壊するだろうからな』



『カナ:あんたに言われなくても分かってるわよ!

あんたこそ、その女を繋ぎ止めておきたいなら、絶対に「社長令嬢」の話を出し続けることね。

男の価値は女で決まるんだから。

現場では孤独で高潔なフリをして、でも「実は令嬢に愛されている男」っていう背景を見せつければ、女は勝手に執着するわ。

まあ、あんたがその女に会う時に、間違ってもそのボロい姿を見られないように祈ってるわよ!』



互いに、相手を嘲笑い、人格を否定し、最低のアドバイスを送り合う。

その実、彼らが必死に伝えているのは「俺(私)の理想の相手でい続けてくれ」という悲鳴だった。


「絶対に素顔を見せるな」

「孤独な戦士を演じろ」


敵から贈られた呪いのような助言を、二人は「理想の恋」を叶えるための聖書バイブルとして、深く胸に刻み込んだ。

次の現場で、さらに深く、分厚い仮面を被ってお互いを騙し合うために。



下水道の最深部。

最後の一匹を片付けたコウタは、大剣を肩に担いで、心地よい疲労感に浸っていた。

隣では、フルフェイスの女――カナが、短剣の血を慣れた手つきで払っている。

汚泥と返り血にまみれた最悪の現場のはずなのに、不思議と空気は軽かった。



「……今の、左からの回り込み。

正直、助かったよ。あんたがいなきゃ、一撃もらってた」



コウタが素直な称賛を口にすると、ヘルメットの奥でカナが小さく、けれど弾んだような声で笑った。



「ふふ、そう?

あんたのあの一撃も、見事だったわよ。

重いだけじゃなくて、ちゃんと私の動きを待ってくれてたでしょ。

……即席ペアにしては、上出来すぎるくらいね」



「違いない。……また次も、あんたなら歓迎だ」



「そうね、私も。……じゃあ、お疲れ様。またどこかで」



二人は軽く手を挙げ、それぞれの出口へと向かった。

泥臭い現場、ボロボロの防具。

けれど、鉄仮面の裏側の表情は、二人ともここ数ヶ月で最も穏やかだった。



アパートへ帰る夜道、冷たい風がコウタの火照った顔を冷やす。

ふと、昨夜のチャットでの罵り合いが脳裏をよぎった。


「……あ」


コウタは足を止め、自分のマヌケな顔を闇に晒した。

あのアバズレ女から、何か「令嬢との愛を見せつけろ」だの何だのアドバイスをされていた気がする。

だが、現場の彼女と過ごす時間は、そんな下らない虚飾を差し挟む隙がないほど、純粋で充実していた。



「……ハッ。あんなビッチの言うことなんて、あてになるわけないか」



コウタは鼻で笑い、ボロアパートへの階段を駆け上がった。

嘘のステータスで着飾るよりも、あの戦場での信頼感こそが「本当」なのだ。

そう確信しながら、彼は端末を開いた。


一方、カナもまた、ボロ靴を脱ぎ捨てた玄関先で、同じことを考えていた。



「……忘れてた。ミステリアスな虚像、だっけ」



あの不審者くんが言っていた、愚かな男の恋愛テクニック。

あんなもの、今の自分たちには必要ない。

現場の「彼」は、泥にまみれた私の戦いぶりを見て、ちゃんと「助かった」と言ってくれた。

そんな彼に、わざわざ「10人の彼氏」なんて嘘の壁を作る必要なんて、どこにあるというのか。



「本当、あいつの言うことなんてゴミ同然ね。

……さて、あのアホをたっぷり煽って、今日の戦利品(いい気分)を台無しにしてあげようかしら」



カナは嫌味な笑みを浮かべ、いつもの「10人の彼氏に溺愛される美女」の仮面を被って、チャットを起動した。


二人は、自分たちが今まさに「不要だ」と切り捨てたアドバイスが、実は目の前の理想の相手に「最も効くはずだった一撃」であることも知らず。

再び、嘘で塗り固めた最悪な人格へと戻り、キーを叩き始めた。





戦いから戻った後のチャットは、いつも以上に荒れていた。

現場での「本当の充実感」が大きければ大きいほど、それを汚されたくないという反動が、ネットの敵への攻撃性となって溢れ出す。



『コウタ:ふん、お前みたいな「数」でしか愛を測れない女に、本当のパートナーシップなんて一生理解できないだろうな。

今日、俺の彼女(社長令嬢)がわざわざ俺のために特注の回復薬を手配してくれたんだ。

見返りなんて求めない、ただ俺が無事ならいいという献身、健気すぎる。

お前とは180度性格が違うわぁ。

って、そりゃ聖人のベストアンサーだわ』



コウタはボロアパートの床に座り込み、実際には薬局で買った一番安い湿布を貼りながら打ち込む。

頭にあるのは、先ほど現場で「助かった」と笑ってくれた、あのヘルメットの彼女だ。

彼女のような女性こそが、自分の言う「理想の令嬢」に相応しい。

そう思い込むことで、目の前のカナをさらに激しく罵倒した。



『カナ:特注の回復薬? 笑わせないでよ。そんなの愛じゃなくてただの「介護」でしょ。

私の十人の彼氏たちはね、私が指を一本鳴らすだけで、世界中の名医を私の寝室に揃えてくれるわ。

あんたみたいな「一人の女に依存しないと生きていけない負け犬」には分からないでしょうけど。

私の彼らはね、私がどんなにワガママを言っても「君はそれでいい」って跪いてくれるの。献身?気持ち悪い自立してないニート根性の塊みたいなクソねあんた!』



カナは、泥を落としたばかりの赤くなった手で端末を叩く。

あのヘルメットの彼がくれた「上出来だ」という言葉。

それを、自分の中にいる「10人のエリート」たちの賛辞にすり替え、目の前の不審者コウタを徹底的に見下すためのエネルギーに変えた。



『コウタ:は? 言わせておけば……。

あのな、現場の彼女はそんな安っぽい女じゃない。

お前みたいな、自分を「魅力的」だなんて呼んで悦に浸っている空っぽな女とは、魂の純度が違うんだよ。

彼女は、俺が何を言わなくても隣で支えてくれる、本物の「美しさ」なんだ。

お前の言う「跪く男」なんて、どうせ金で飼われた奴隷か、お前の見栄に付き合わされているだけの哀れな道化だろ』



『カナ:道化はあんたの方よ!

社長令嬢に飼われて、現場で小銭稼いでる不審者くん。

私の騎士はね、黙って背中で語るのよ。あんたみたいに口先だけで嘘を並べ立てたりしないわ。

彼は、私が一番辛い時に、何も言わずに隣にいてくれる。

あんたみたいな「他人の靴の剥げを探すことしかできないクズ」には、一生かかってもその沈黙の重さは理解できないわね!』



互いに、目の前の敵を殴りながら、その拳の裏側には、現場で出会った「あの人」への純粋な賞賛が隠されている。

「本物の美しさ」

「沈黙の騎士」

自分が今日感じた本物の恋心を、敵への罵詈雑言の中に巧妙に織り交ぜることで、誰にもバレないように守り、磨き上げていく。


(……本当に、あいつ(コウタ)は救いようがないな。

あんなゴミみたいな言葉を吐く奴が、この世にいるなんて。

それに比べて、あの彼女(現場)は、なんて気高いんだ……)


(……信じられない、あのコウタ、本当に死ねばいいのに。

チャットで嘘を吐くことしかできない最低の人間。

ああ、あの人(現場)に会いたい。あの人の隣なら、私は「商品」じゃなくて「私」でいられる気がするのに……)


二人は、自分たちが今「理想」として熱烈に語っている相手が、たった今自分を「ゴミ」と呼んで罵った本人だとは、一ミリも、微塵も、天地がひっくり返っても想像しなかった。



 

ギルドの掲示板の前で、二人の時間は凍りついたままだった。


 

最後に言葉を交わしたのは、もう何ヶ月も前。

あの路地裏で、ブランド品を汚されたと喚く女と、それを不審者扱いした男。

最悪の出会い以降、二人は互いの存在を「この街に漂う不浄なノイズ」として処理し、徹底的に視界から排除してきた。


コウタはフードを深く被り、掲示板の隅にある「掃討依頼」に視線を落とす。

隣に、あの鼻を突く香水の匂いが漂ってきたが、彼は微動だにしなかった。

そこにいるのが「あの女」であることは、気配だけでわかる。

だが、声をかける理由もなければ、目を合わせる価値もない。



「……」



カナもまた、無言だった。

以前のようにヒステリックに噛みつく気力すら、この男に対しては湧かない。

ただ、視界の端に入る色褪せたジャケットと、剥げかけたブーツが不快なだけだ。

彼女は、自分がここへ「依頼を漁りに来た」ことを悟られないよう、ただの通りすがりのふりをして、所在なげに掲示板の空いたスペースを眺めていた。


数分の沈黙。

お互いに相手が立ち去るのを待ち、けれどどちらも一歩も動かない。

よそよそしく、冷ややかな拒絶だけが、二人の間に壁を作っている。


その時、不意に掲示板の裏から冷たい突風が吹き抜けた。

カナが風に煽られた髪を押さえようとした瞬間、ワンピースの袖が大きく捲れ上がる。


赤く腫れ、生々しい火傷の痕。

それは、数日前の地下水路で、土壌蜘蛛の酸からコウタを庇った際に「ヘルメットの彼女」が負った、あの傷と全く同じ場所だった。


(……っ。あの傷……)


コウタの目が、一瞬だけ鋭く細められた。

だが、即座に彼は意識を逸らす。

あんなに献身的で、言葉を交わさずとも魂が通じ合った「彼女」が、この虚栄心にまみれた、自分をゴミ扱いした女であるはずがない。

思考が結びつく前に、脳がそれを「あり得ないノイズ」として抹消した。



「……相変わらず、薄汚い格好ね」



カナが、耐えきれなくなったようにポツリと漏らした。

その声には、以前のような激しさはなく、ただ遠くのゴミを眺めるような、乾いた軽蔑だけがあった。



「……お前もな。相変わらず、身の丈に合わない場所をうろついている」



コウタは、彼女をハンターだとすら思っていない。

また金持ちの男でも探しに来たのか。

そう断じた彼は、掲示板の手すりを強く握りしめた。

その手の甲には、あの地下水路で彼女を助けるために岩壁を殴りつけた、「ヘルメットの彼」と同じ位置に、独特な形状の「拳の痣」が刻まれている。


(……嘘。あの痣……)


カナの心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。

あの、背中で語る騎士のような彼。

その手首にあった傷跡が、なぜ、この不審者の手に刻まれているのか。


(……いや、違う。絶対に違うわ)


彼女は激しく首を振った。

目の前にいるのは、かつて自分を怒鳴りつけ、今もこうして陰気に掲示板を独占している、人生の敗北者だ。

あの気高い彼を、こんな男と結びつけること自体、彼への冒涜だ。

カナは、その痣から無理やり目を逸らし、逃げるように背を向けた。



「……本当、不愉快」



「同感だ。二度と視界に入るな」



二人は、数ヶ月ぶりの再会を、ただの「不運な事故」として処理した。

互いに、自分を救ってくれた「理想の相手」が目の前にいることなど、一ミリも、微塵も信じることなく。

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