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二つの虚像、十億の嘘


あの日から三ヶ月、世界は何も変わらず、コウタだけが透明な檻の中にいた。


サユのアカウントは消え、新しく送った不特定多数へのメールも、返信が来るたびに指が震えた。

また品定めされているのではないか。

靴の剥げを、魂の汚れを見透かされているのではないか。

対面での対話を恐れるようになったコウタにとって、唯一呼吸ができる場所は、皮肉にもあの最悪な女・カナとのチャット画面だけだった。



「……今の俺の年収?

悪いが、もう国家予算レベルで動いてるから、正確な数字は把握してないんだ。

昨日は隣国まで飛んで、伝説級の魔物を一匹片付けてきたところだよ。

世界中のギルドに俺の名を知らない者はいない。正直、目立つのも疲れるな」



コウタは、家賃の支払いを待ってもらっているボロアパートの片隅で、端末を叩く。

画面の中の自分は、もはや一国の王すら平伏させる最強のハンターだった。

踏み込めない現実の代わりに、嘘の翼はどこまでも肥大化し、収拾がつかないほど高く、遠くへ羽ばたいていた。


対するカナの嘘もまた、狂気じみた極地へと達していた。



「はあ? 国家予算? 笑わせないでよ。

私の今付き合ってる十人の彼氏たちは、それぞれが金融、IT、魔導科学のトップエリートよ。

昨日は石油王の彼とプライベートアイランドで過ごして、今は宇宙開発のCEOの彼に、月旅行のチケットをねだられて困ってるところ。

あんたみたいな『野蛮なだけの男』なんて、彼らの足元にも及ばないわ」



カナもまた、あの夜にレンに突きつけられた「商品価値」という名の絶望を塗りつぶすように、架空の愛を増殖させていた。

一人では足りない。十人の完璧な男に愛されていなければ、自分の価値を証明できない。

そんな、崩壊寸前の積み木のような虚飾。


お互いに、相手が送ってくる言葉の全てが「嘘」であることなど、とうの昔に気づいている。

だが、どちらもそれを指摘しない。

指摘すれば、自分の足元にある脆い嘘まで崩れてしまうから。



「……クソが」



コウタは端末を放り出し、天井の染みを見つめた。

最強のハンターであるはずの自分は、今日、一食のパンを買うのにも躊躇している。

そんな時、端末が短く震えた。

カナからではない。

それは、ギルドからの強制招集通知――「未踏区域の緊急調査」だった。



「行かなきゃ……死ぬな」



家賃のため、生存のため。

最強ハンターの仮面を脱ぎ捨て、コウタは錆びついた剣を手に取り、這いずるように外へと出た。

その調査地点で、同じく「完璧な生活」を維持するために、泥を啜って稼がざるを得ないカナと再会することになるとは、予感すらしていなかった。



ドブ浚いの掃討戦


鼻を突く悪臭と、絶え間なく響く滴り。

都市の最下層を流れる地下水路は、華やかな大通りからは想像もつかないほど淀んでいた。


コウタは、傷だらけのフルフェイスヘルメットの中で、重苦しい溜息を吐いた。

手元にある端末の画面が、暗闇の中で白く浮かび上がる。

今の自分は、国家予算を動かす伝説のハンター。

だが現実は、日銭を稼ぐためにヘドロに塗れ、錆びた剣を握りしめている。



「……隣国からの緊急要請で、少し離脱する。

俺がいなくても、世界は回る。精々、十人の彼氏とやらに守られて過ごせよ」



送信。

自分を追い詰めるような、傲慢な嘘を打ち込み、コウタは端末をポケットにねじ込んだ。

顔を上げると、自分と同じように傷だらけのフルフェイスヘルメットを被り、泥まみれの防具に身を包んだ「相方」が、汚水の溜まり場に立っていた。



「……あ……はじめまして。あんたが今回のペア?」



ヘルメット越しにくぐもった声が響く。

カナは相手の男が被っている、安物だが頑丈そうなヘルメットを値踏みするように一瞥した。

コウタもまた、彼女のボロボロの防具と、その頭部を完全に覆う無機質な鉄仮面を見て、心の中で「ハズレを引いた」と舌打ちする。



「……ああ。よろしく、とは言わないでおく。

仕事だ、無事に終わらせるぞ」



「ええ、そうね。私も別に、あんたと仲良くするつもりなんてないし。

ただ、足を引っ張って私の足を止めさせないで。迷惑だから」



よそよそしい、冷淡な言葉の応酬。

お互いに相手の素性など興味もないし、知りたいとも思わない。

今はこのドブの臭いから一刻も早く逃れるために、目の前の魔物を処理することしか頭になかった。


二人の間には、一メートル以上の不自然な距離がある。

信頼も親近感もない。

ただ「死なないために隣にいる」だけの、殺伐とした沈黙が流れる。


暗闇の奥から、粘り気のある足音が聞こえてくる。

二人は互いに視線も合わせず、互いに素顔を隠した鉄仮面の裏側で、それぞれの孤独な武器を構えた。




「……はぁ。臭え、いつまで経っても慣れないな」



コウタは、ヘルメットの奥で濁った溜息をついた。

汚水に浸かったブーツが、歩くたびに嫌な音を立てる。

さっきまで端末の中で「国家予算級の報酬」について語っていた自分が、今は日当数千円のドブ浚いに勤しんでいる。

その落差に、眩暈がしそうだった。



「……本当。こんなところに魔物が湧くなんて、最悪よね」



横を歩く、同じくフルフェイスのヘルメットで顔を隠した小柄なハンターがポツリと漏らした。

彼女もまた、泥にまみれた防具を不快そうに揺らしている。

コウタは、自分と同じようにこの過酷な現場に駆り出された「同類」に対し、少しだけ肩の力を抜いた。



「あんたも、緊急招集か?」



「ええ……。まあ、断れるほど余裕があるわけじゃないし。

お互い、大変ね。こんな仕事、好き好んでやる人なんていないでしょうけど」



ヘルメット越しの声はどこか疲弊しており、先ほどの棘は少しだけ鳴りを潜めていた。

カナもまた、端末の中で「十人のエリート彼氏」に囲まれている設定を維持するため、現実ではこうして泥にまみれ、なりふり構わず稼がなければならない。



「……そうだな。まあ、死なない程度にやろう。

報酬をもらわなきゃ、やってられないからな」



「そうね。……あんた、名前は?」



「……今は、名乗るほどのもんじゃない。仕事が終われば、ただの他人だろ」



コウタの素っ気ない返しに、彼女はヘルメットの中で小さく鼻を鳴らした。

名前を知れば、自分の「嘘」に綻びが出るかもしれない。

お互いにそんな防衛本能が働き、それ以上の踏み込みを拒絶する。


けれど、真っ暗な地下水路を進む二人の間には、先ほどまでの殺伐とした空気ではなく、底辺で泥を啜る者同士の、微かな、そして空虚な連帯感が漂い始めていた。




「……来るぞ」



コウタが短く告げると同時に、汚水の水面が激しく波打った。

闇の奥から這い出したのは、粘液を撒き散らす巨大な土壌蜘蛛の群れだ。



「数が多いわね……!」



隣の女――カナが、ヘルメット越しの声を鋭く響かせる。

彼女は流れるような動作で二本の短剣を抜き放ち、泥に足を取られることもなく前方へ踏み込んだ。

コウタはその背中を一瞬だけ凝視し、即座に大剣を構えて彼女の死角へと滑り込む。


本来、初対面の即席ペアがこれほど密接に動くのは自殺行為だ。

だが、不思議だった。

彼女が右へ避ければ、コウタは自然と左の敵を叩き斬っている。

コウタが重い一撃を放ち、その硬直を狙われそうになると、必ず彼女の刃が横から割り込んで敵を退ける。



「……あんた、意外と動けるじゃない」



「そっちこそ。……余計な指示がなくて助かる」



言葉は最低限。

けれど、その呼吸は驚くほど深く重なっていた。

まるで、何百回も言葉を交わし、互いの思考の癖を知り尽くしているかのような。

実際には画面越しに罵詈雑言をぶつけ合っているだけなのだが、その「言葉の殴り合い」で培われたリズムが、皮肉にも戦闘の呼吸として完璧に機能していた。


互いに素顔を隠したまま背中を預け、互いの体温を微かに感じる距離。

無機質な鉄仮面の向こう側で、二人は初めて、相手を「不快な他人」ではなく「信頼に足る武器」として認識し始める。



「次、奥の大きいの。私が揺さぶるわ!」



「分かった。……合わせろよ!」



泥を蹴り、二人は同時に跳んだ。

ネット上では国家予算や石油王を語る虚飾の塊であっても、今この瞬間、泥にまみれて剣を振るう姿だけが、二人の持つ唯一の「真実」だった。




「……ふぅ。これで、全部か」



コウタは大剣を鞘に納め、血と泥に汚れた壁に背を預けた。

足元には魔物の残骸が転がり、換気扇の回っていない地下水路には、重苦しい静寂が戻る。



「……そうみたいね。あんた、腕は確かじゃない。助かったわ」

 

「そっちこそ」


カナは荒い息を吐きながら、手近な石段に腰を下ろした。

ヘルメットを被ったまま、激しい運動で肩が上下している。

彼女は震える手で魔導端末を取り出し、泥のついた指で慣れたように画面をなぞった。


コウタも無意識に、自分の端末に手を伸ばす。

そこには、三ヶ月前よりもさらに肥大化した、自分の「嘘」が詰まっている。

最強ハンター、国家予算、世界中からの称賛。

その輝かしい文字の羅列と、目の前の暗く、臭い現実。



「……なあ。あんたは、何のためにこんなことしてるんだ?結構ウデあるし」



ポツリと、コウタの口から問いが漏れた。

普段の自分なら、こんな無防備な質問は絶対にしない。

だが、死線を共にした直後の高揚感と、この場所の暗さが、彼の警戒心を少しだけ麻痺させていた。


カナは端末の画面を見つめたまま、ヘルメットの中で自嘲気味に鼻を鳴らした。



「……何って、生きるためよ。それ以外にある?

……本当はね、もっとこう……誰からも羨まれるような、綺麗な場所にいたいんだけど。

現実は、これ。笑っちゃうわよね」



彼女の呟きは、いつものチャットでの高圧的なマウントとは正反対の、弱々しく、剥き出しの響きを持っていた。

カナにとって、十人の恋人について語る時間は「夢」であり、この泥を啜る時間が「罪」のようなものだった。


コウタはヘルメットの奥で、苦い笑みを浮かべた。



「……そうか。俺も同じだ。

本当の自分なんて、誰にも見せられないようなもんだからな」



顔を隠し、声を偽り、そうしてようやく「本当のこと」を少しだけ共有できる。

二人は、お互いがネット上で最も嫌悪し、かつ依存している相手だとは知らず、暗闇の中で静かに並んで座っていた。




「……そろそろ時間ね。報告に戻らなきゃ」



カナは重い腰を上げ、防具についた泥を乱暴に払った。

結局、最後までお互いのヘルメットを脱ぐことはなかった。

けれど、この三ヶ月間、嘘の鎧を纏って他人を殴り続けてきた二人にとって、この名もなき共闘は奇妙なほどに心を穏やかにさせていた。


コウタも壁から背を離し、ずっしりと重い大剣を背負い直す。

彼は一度だけ、鉄仮面を被ったままの彼女の方を向いた。



「……ああ。またどこかの現場で一緒になったら、その時はよろしく頼む」



「ええ。あんたみたいなまともな腕の人が相方なら、私も助かるわ。

……じゃあね、ヘルメットさん」



「ああ。じゃあな」


二人は、それ以上の接触を避けるように、別々の出口へと向かった。

地上へ出れば、またそれぞれの「嘘」が待っている。

コウタは最強のハンターへ、カナは選ばれし美女へと、再びその身を偽らなければならない。


(……あの人、落ち着いたいい声だったわね。

どこかのチャットで喚いてる、あの救いようのない不審者とは大違い)


カナは、折れたヒールを修理するための金を手にした満足感と共に、そんなことを考えた。


(……あいつ、サバサバしてて、戦いやすい相手だったな。

国家予算がどうとか言っても、鼻で笑わずにいてくれそうだ。

あの、マッチングアプリで騙されて発狂してた女とは、似ても似つかないな)


コウタもまた、冷たい夜風に吹かれながら、そう確信していた。

地上で出会う最悪な連中とは、人種が違う。

性格も、立ち居振る舞いも、何より自分に向けられる視線の温度が違いすぎるのだ。


二人はそれぞれの安アパートに戻り、再び端末を開く。

そして、たった今別れた「信頼できる相棒」のことなど微塵も想像せず、いつものように毒をたっぷり込めた嘘の言葉を、お互いに送りつけ合うのだった。




「……はぁ? また始まったわね」



カナは、コウタから届いた「社長令嬢の彼女」というメッセージを鼻で笑い飛ばした。

狭い自室、カップ麺の残骸。

現実の自分は、ドブ浚いの現場で知り合った、あの無骨だが信頼できる「ヘルメットの男」の横顔(と言っても鉄仮面だが)を思い出して、少しだけ胸を熱くさせているというのに。



「私の新しい彼氏できちゃって、あんたより強い最強ハンターとしてメチャクチャ成功してるんだから。

あんたの名前なんて聞いたこともないわよ。

彼は、現場でも指示が的確で、私を完璧に守ってくれるの。

あんたみたいな『不審者くん』と違って、本物の強さを持ってるんだから」



送信。

カナが思い描いているのは、あの地下水路で背中を預け合ったヘルメットの男だ。

彼との時間は、嘘で塗り固めた十人のエリート彼氏たちよりも、ずっと心を満たしてくれた。

だからこそ、その「リアルな好感」を、チャット相手のコウタを叩くための新しい武器として加工した。


一方、コウタもまた、ボロアパートの万年床で端末を強く握りしめた。



「偶然だな。

最近俺にも彼女ができて、おしとやかでメチャクチャ俺にふさわしい社長令嬢だわ。

最近スポンサーの社長にどうしても会ってくれって頼まれてな。

そこで紹介された彼女は、戦う俺を陰で支えてくれる、慎ましやかな女性だよ。

どっかの、マッチングアプリで騙されて喚いてるようなヒステリックな女とは、品格が違うんだ」



送信。

コウタの頭に浮かんでいるのは、フルフェイスの奥で静かに「お互い大変ね」と漏らしたあの女性ハンターだ。

彼女のような「まともな感覚」を持つ女性を、理想の彼女像として投影し、目の前のチャット相手を全否定する。


お互いに、たった今出会った「本物の相手」に惹かれ始めている。

そして、その「本物」を、最も憎むべき「チャットのアイツ」への攻撃材料に転用するという、救いようのない喜劇。


二人は、自分たちが今まさに「理想の相手」として語っている人物が、この罵詈雑言を送り合っている本人だとは露ほども思わず。

画面の向こうにいるはずの「ゴミ」のような相手を、今日も全力で蔑み続けた。

 

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