5
純潔という名の檻
「……よし、送信」
カナは、安物のコンビニサラダの容器を片手に、魔導端末の画面を満足げに眺めた。
画面の中では、コウタという「負け犬」に対して、自分の架空の幸せを見せつける言葉が並んでいる。
「私の彼は、あんたみたいなゴミとは違うの。
来月には、三千万の指輪を贈ってくれる約束なんだから。
あんた、一生そうやって一人で魔物の返り血でも浴びてなさいよ」
暗い自室。
唯一の明かりは、端末から漏れる青白い光だけだ。
コウタからの既読がつくのを待ちながら、彼女は無意識に、洗濯物の山が放置されたままの万年床に身を沈めた。
現実の彼女は、友達もいなければ、男に手を握られた経験すらない。
この薄暗い四畳半で、見えない相手に嘘のナイフを突き立てることだけが、彼女にとって自分が「特別である」と信じるための儀式だった。
コウタからの反応は相変わらず鈍い。
それが逆にカナの苛立ちと、歪んだ快感を煽った。
「あいつ、今頃嫉妬で顔を真っ赤にしてるんだろうな」
そう思い込むことで、口の中にある味の薄いサラダが、少しだけ豪華なディナーの味に変わる気がした。
だが、そんな彼女にも、ついに「本物」が訪れた。
マッチングアプリの画面に、一通の通知が届く。
『レン:初めまして。カナさんのプロフィール拝見しました。
もしよければ、今度ゆっくりお話ししませんか?』
画面に映るレンの写真は、洗練されたスーツを着こなし、知的な微笑みを浮かべていた。
カナは、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
これまでの男たちとは、醸し出している空気からして違う。
彼なら、自分のこの隠しきれない孤独を、気高く、美しい「純潔」として認めてくれるのではないか。
カナは震える指で、レンに返信を打つ。
コウタに送る罵倒とは違う、慎重に、可憐に、そして少しだけ傲慢な「理想の自分」を演じながら。
「……見てなさいよ、コウタ。
私、本当に幸せになって、あんたを地の底まで見下してあげるんだから」
彼女は、まだ見ぬ王子様との未来を夢見て、暗い部屋で一人、毒のように甘い独り言を吐き出した。
『レン:カナさんみたいな人は、きっと自分の価値を安売りしたくないだけなんだよね。
そういう真っ直ぐなところ、僕はすごく尊敬するな』
カナはベッドの上で、端末を胸に抱きしめるようにして転がった。
レンとのやり取りは、驚くほど滑らかに、そして深く彼女の心の隙間に染み込んでいった。
彼だけは、自分の「頑固さ」を「気高さ」と言い換えてくれる。
誰にも触れさせてこなかった自分の身体を、汚れていない「真珠」のように扱ってくれる。
「……あいつとは、やっぱり格が違うわ」
カナは、画面を切り替えてコウタとのチャットを開いた。
そこにあるのは、相変わらず無骨で、夢も希望もない男の言葉ばかりだ。
レンという本物の光を手に入れた今、コウタという存在は、自分の幸せをより際立たせるための「薄汚い背景」に過ぎなかった。
「ねえ、あんたみたいな『選ばれない男』には一生理解できないでしょうけど。
私、本物の愛を見つけたみたい。
彼は私のすべてを尊重してくれるし、あんたみたいに言葉の端々に下品さが滲み出ることもない。
あんた、せいぜい誰からも愛されないまま、独りで朽ち果てていくのを楽しみにしてるわ」
送信。
以前よりもずっと冷酷な、憐れみすら込めた言葉。
カナは、コウタからの反論を待つことさえせず、すぐにレンとのチャットに戻った。
レンは、来週の土曜日に、静かな隠れ家風のバーで会おうと誘ってくれた。
「服、買わなきゃ……」
貯金残高を確認する。
ハンターとしての稼ぎは微々たるもので、生活はカツカツだ。
だが、レンの隣に立つ女が、安物の服を着ているわけにはいかない。
たとえ来月の食費が尽きようとも、自分は「最高級の純潔」を包むための、最高級の包装紙を用意しなければならない。
カナは鏡の前に立ち、自分の顔を覗き込んだ。
そこには、孤独に怯える女ではなく、幸福な絶頂を目前にした「選ばれし女性」の顔があるはずだった。
現実はそんなのどこにもないけど。
「待っててね、レン。私、あなたの前では、世界で一番綺麗な私でいたいから」
画面の向こうでレンが微笑んでいる。
その微笑みの裏に、カナの価値を「円」で換算する冷徹な天秤が隠されていることなど、今の彼女には想像もできなかった。
「…イケる」
カナは鏡の前で、無理をして購入したブランドもののバッグを肩にかけた。
家賃を回し、食費を削って整えた「偽りの自分」。
けれど、その重みが今のカナには、レンという王子様にふさわしい「資格」のように感じられた。
足取り軽く、待ち合わせ場所へ続く商業施設を歩く。
その時だった。
前方から歩いてきた、うだつの上がらない風体の男と、激しく肩がぶつかった。
「……っ、痛いじゃない! どこ見て歩いてるのよ、この不審者!」
反射的に怒鳴りつけた。
見上げれば、そこにいたのはあの日、路地裏で自分を助けようとしたあの男――コウタだった。
彼はボロボロの靴を隠すように、ワゴンセールの安物を手に持っている。
あまりの「格の違い」に、カナの口角が自然と吊り上がった。
「……何よ、またあんた?
つきまとわないでよ、気色悪い。
こんな高級店、あんたみたいな薄汚いハンターが来る場所じゃないでしょ」
カナは、自分の手にある高級ブランドのロゴをこれ見よがしに男に見せつけた。
自分には、これからレンという最高のパートナーが待っている。
こんな、ワゴンセールを漁るしか能のない負け犬とは、住む世界が違うのだ。
ところが、男は意外なことに余裕の笑みを浮かべてみせた。
「あなたこそ、その素敵な彼氏さんに、良いプレゼントが見つかるといいですね」
その突き放すような物言いに、カナの頬が屈辱でカッと熱くなる。
――――――――
「当たり前よ! あんたに心配されなくても、最高のデートになるんだから!
じゃあね、二度とぶつからないでよ!」
捨て台詞を吐いて、カナは足早にその場を離れた。
背中に向けられた男の視線が、まるで自分の化けの皮を剥ごうとしているようで不快だった。
けれど、スマホを握ればレンからの「楽しみに待ってるよ」というメッセージが、すべての不安をかき消してくれる。
「あんなゴミ、もう二度と思い出さないんだから」
カナは、待ち合わせ場所のバーへと向かう。
自分の「純潔」という価値が、ただの金銭的な査定対象として処理されようとしている場所へ。
「……素敵なお店」
カナは、重厚な扉の向こうに広がる隠れ家のような個室に、小さく感嘆の声を漏らした。
微かに漂うシガーと高級な酒の香り。
暖色の照明が、レンの彫りの深い横顔をより優雅に演出している。
先ほど街中でぶつかったコウタという「不審者」の、あの安っぽいワゴンセールの匂いなど、ここでは一瞬で浄化されるようだった。
「今日はカナさんのために、特別な席を用意したんだ。
他の誰にも邪魔されず、ゆっくり君と向き合いたかったから」
レンの低い、心地よい声が鼓膜を震わせる。
カナは、目の前に置かれた琥珀色のカクテルを一口、喉に流し込んだ。
少しだけ熱を帯びる体。
レンはテーブル越しに、そっとカナの指先に自分の手を重ねてきた。
その大きな手のひらの温もりに、カナの心臓は激しく跳ねた。
「カナさんは、本当に……純粋だね。
目がとても綺麗だ。汚れていない、宝石みたいだよ」
「そんな、私……」
カナは伏せ目がちに呟き、重ねられた手を握り返した。
これまでずっと、自分の孤独を「高潔さ」だと自分に言い聞かせ、必死に守り抜いてきた身体。
処女である自分を「重い」と笑う男ばかりの世の中で、レンだけはそれを価値あるものとして愛でてくれる。
「私、……あなたになら、全部……」
喉の奥で、その言葉が熱く震えた。
コウタへのマウントでも、自分を守るための嘘でもない。
今、目の前にいるこの完璧な男性に、自分という存在の全てを捧げたい。
それが、自分がこれまで孤独に耐えてきたことへの、唯一の報いのように思えた。
「本当かい? 嬉しいな。
僕も、君のその大切な『初めて』を、誰よりも特別な形で受け止めたいと思っているんだ」
レンの微笑みは、聖母のように慈悲深く、優しさに満ちていた。
そのすぐ後の会話で、彼の口から「特別な形」の具体的な内容として、自分自身の査定金額が語られることになるとは夢にも思わず。
カナは、甘い眩暈の中で、自分から彼の方へと身を乗り出した。
「……カナさん。君のその『純潔』、僕が最高の価値に変えてあげるよ」
レンの指先が、カナの頬を優しく撫でる。
その言葉を、カナは最上級の愛の告白だと思い、目を閉じて身を委ねた。
だが、次に聞こえてきたのは、布が擦れる音ではなく、端末を操作する無機質なタップ音だった。
「まずは、この契約書に目を通して。
君の年齢、ルックス、そして何よりその『未経験』という付加価値……。
市場に出せば、一晩でかなりの額が動く。君へのバックも相当なものになるよ」
「……え? 契約……? 市場……って、何のこと?」
カナは、凍りついたまま目を開けた。
レンは、さっきまでと同じ完璧な微笑みを浮かべたまま、一枚のデジタル書面を提示している。
そこには、彼女の身体を「商品」としてランク付けし、パパ活や高級会員制クラブへの斡旋、さらには「初夜」のオークション形式での売却益について、詳細なパーセンテージが並んでいた。
「困ったな、理解が遅いよ。
愛してるからこそ、君の価値を最大化したいと言ってるんだ。
君が今まで必死に守ってきたその身体……。
僕と一回寝て終わりにするなんて、もったいないだろう?
ビジネスとして運用すれば、君もブランド品を我慢しなくてよくなる」
レンの声から、熱が消えていた。
それは、獲物を解体するハンターの、あるいは商品を査定する商人の、冷徹な響き。
彼にとってカナは、愛する女性ではなく、掘り出し物の「高純度な素材」でしかなかったのだ。
「やめて……。私、そんなことのために……」
「そんなこと? 君、さっき自分から『全部捧げる』って言ったよね。
だったら、僕の利益になるように動くのが筋じゃないかな」
レンは、拒絶するカナの手を、今度は愛おしむためではなく、逃がさないための力で強く掴んだ。
逃げ場のない個室。
甘いカクテルの香りは、いつの間にか、腐った生ゴミのような悪臭に変わっていた。
「……冗談、でしょ」
カナは、震える手でレンを突き飛ばし、個室から転がるように逃げ出した。
背後から聞こえる「時間の無駄だったな」という冷淡な声。
それは、彼女が必死に守り抜いてきた「二十数年の自尊心」が、一瞬で紙クズに変わった音だった。
夜の冷たい空気が、ブランド物の薄いコートを容赦なく刺す。
足元を見れば、無理をして履いたヒールが、慣れない逃走で無残に折れていた。
まるで、今の自分そのものだ。
高級な包装紙で包んだところで、中身は誰からも選ばれない、ただの空っぽなゴミ。
「……はは、あはははっ……!」
壊れたように笑いながら、カナは魔導端末を取り出した。
この耐えがたい惨めさを、誰かにぶつけなければ、自分が消えてしまいそうだった。
開いたのは、いつものチャット画面。
そこには、コウタからの新しいメッセージが届いていた。
『コウタ:……なあ、聞いてくれ。
今日、女に会うはずだったんだ。
でも、全部嘘だった。俺がついた嘘も、相手の言葉も、全部……』
画面に躍る、自分と同じ「敗北」の匂い。
それを見た瞬間、カナの心にドス黒い歓喜が湧き上がった。
自分だけじゃない。
この世の底辺に、自分よりもさらに惨めで、マヌケな男がいる。
その事実だけが、今の彼女にとって唯一の救いだった。
「はあ? あんた、またそんな惨めな話してるの?
いい加減にしなさいよ。私の彼は、今ちょうど私のために最高級のシャンパンを注文してくれたところなんだから。
あんたみたいな『選ばれなかったゴミ』に構ってる暇なんてないのよ」
カナは、止まらない涙を拭いもせず、震える指で嘘の盾を構え直した。
そして、数時間前に店で見た、あの「不審者」の姿を思い出す。
あの時、自分を見下すような目で笑ったあの男。
彼が、目の前のチャット相手である「コウタ」だとも知らず、彼女は最大級の毒を叩きつけた。
「あんたみたいなやつ、どうせさっき店で見かけた不審者と同じ顔してるんでしょホントは。
惨めったらしく、ワゴンセールのネクタイなんか握りしめて。詐欺盛り加工写真ヤロウが。
あんな男の同類だと思われたくないなら、一生その暗い広場で震えてなさいよ」
送信。
カナは、折れたヒールを引きずりながら、闇の中へと消えていく。
自分が今、唯一の理解者であったはずの相手を、自分と同じ深淵へと突き落としたことにも気づかずに。




