12
嘘つきたちの終着駅
夜の静寂が、豪華なマンションの部屋に重くのしかかっていた。
コウタは、端末の青白い光に照らされながら、震える指で文字を打ち込んだ。
三〇〇一万。
目標としていた数字に到達した瞬間、彼の中に残っていた「嘘のエネルギー」が、音を立てて枯渇した。
空虚だった。
どれだけ稼いでも、どれだけ魔物を屠っても、隣にいた「彼女」は戻ってこない。
「……なあ、カナ。
最後に、全部本当のことを言っておくよ。
俺が言ってた『最高のハンター』なんてのは、全部デタラメだ。
ただの運と、死に物狂いの執念だけでここまで来た、薄汚いドブネズミだよ」
文字が、一滴ずつ血を流すように綴られていく。
カナは、ベッドの上でその画面を凝視し、呼吸をすることさえ忘れていた。
「顔だって、アプリの加工で盛りすぎて原形なんてなくなってる。
本当の俺は、お前がいつもバカにしてた、あの『不審者』みたいな顔なんだよ。
……嘘をついてて、悪かったな」
カナの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
知っている。
あんたの素顔も、不器用さも、あんたがどれだけ真っ直ぐに私を守ってくれたかも。
「……それから。
社長令嬢だっていない。
というか、いなくなったんだ。
……いや、最初から、俺が見ていた幻だったのかもしれない。
俺がこの三〇〇一万っていう壁を越えれば、また隣で笑ってくれると思ってたんだけどな」
コウタは、自室に置かれた「彼女の鉄仮面」に視線を落とした。
彼は今も、ネットのカナに「自分の惨めな真実」を告白しながら、リアルのカナへの純粋すぎる愛に、自分自身を焼き殺そうとしていた。
「……お前には、散々見栄を張ってきたけど。
もう、疲れたよ。
これでお別れだ。
お前は、その金持ちの彼氏と、幸せにやってくれ」
画面が、にじむ。
カナは、端末を抱きしめて声を殺して泣いた。
コウタが「嘘を捨てて真実に辿り着いた」と思ったその場所は、さらなる「彼女の嘘」という地獄の底だった。
二人は、最も残酷な「誠実さ」で、お互いの首を絞め合っていた。
ギルドの喧騒は、今の二人にとって遠い世界の雑音に過ぎなかった。
掲示板の隅、かつて「代用品」としての契約を交わしたあの場所で、コウタはまっすぐにカナを見据えていた。
その瞳には、一ヶ月前のような迷いも、飢えたような焦燥もない。
「……今日で、このパーティーは解散だ」
コウタの声は、驚くほど穏やかだった。
彼は、手元にある精算済みのカードをカナに差し出した。
そこには、目標の「年収三〇〇一万」を証明する数字と、事務的なシステム表示が刻まれている。
【精算完了】
コウタ(Rank: B)
カナ(Rank: B)
「……コウタ?」
カナの喉から、掠れた声が漏れた。
現場で一度も名乗っていなかったその名を呼ばれ、コウタは自嘲気味に口角を上げた。
「……お前、カナって言うんだな」
「……なんでよ。これからじゃない。
二人合わせれば、もっと上を目指せる。あんた、あいつを探すんじゃなかったの?」
カナは、震える声で食い下がった。
昨日、ネットであんな「遺言」のような告白を聞かされて、はいそうですかと離れられるはずがない。
「……もう、いいんだ。
昨日、俺の唯一の『敵』に、全部ぶちまけてきた。
俺がどれだけ惨めで、嘘つきで、どうしようもない不審者かってことをな。
……そしたら、なんだか急に、あいつを探す資格なんて、俺には最初からなかったんだって気づいたんだよ」
コウタは、足元に置いた「あの紙袋」をカナに差し出した。
中には、歪んで錆びついた「彼女のヘルメット」が入っている。
「これは、お前にやるよ。
……もし、どこかであいつに会うことがあったら、伝えてくれ。
『嘘つきの騎士は、もう引退した』ってな」
コウタが背を向け、歩き出す。
カナの視界が、一気に涙で溢れ出す。
このまま彼を行かせれば、二人は一生、偽物の思い出の中で凍りついたままになる。
「……待ちなさいよ、この大バカ!」
カナの叫びが、ギルドの空気を震わせた。
彼女は、差し出された紙袋を床に叩きつけ、自分のヘルメットを乱暴に脱ぎ捨てた。
ブランド物のバッグも、高価なピアスも、すべてが今の自分を縛り付ける呪いに見えた。
コウタの足が、凍りついたように止まった。
ゆっくりと振り返る彼に、カナは震える手でスマホを突きつけた。
画面には、今朝コウタがネットの宿敵に送った、あの文章が光っていた。
「……最後に、本当のことを言うよ。俺の名前は、コウタだ。社長令嬢なんていない。俺は、お前がいつもバカにしてた、あの不審者みたいな顔なんだ」
コウタの頭の中が、真っ白に染まった。
混乱が、全身を駆け巡る。
ただ、システム画面の名前と、アプリの宿敵の名前が重なったことに、激しい眩暈を覚えているようだった。
「……そんな、わけ……ないわよね」
カナは自分に言い聞かせるように呟き、スマホを隠そうとした。
だがその拍子に、彼女が隠してきたアプリの「プロフィール画面」が、コウタの眼前に晒された。
そこにあったのは、見覚えのある自撮りアイコン。
そして、この一ヶ月間、憎しみと共に眺め続けてきた名前。
「……カナ?」
コウタの声は、もう、自分のものとは思えないほど掠れていた。
現場の相棒。街のブランド女。ネットのクソ女。
三つのレイヤーが、一文字の狂いもなく、最悪の形で同期した。
「……お前、だったのか。ネットで毎日、俺を……」
「嘘でしょ」
カナは、震える指でコウタの胸ぐらを掴んだ。
瞳には、激しい羞恥と絶望が混ざっていた。
「なによ、三〇〇一万って! この、大バカ不審者!」
カナは、溢れ出す涙を拭いもせず、一歩、また一歩とコウタに詰め寄った。
「……あんたが探してる『鉄仮面の女』なんて、どこにもいないわよ
「あいつを探すために、必死で……」
「……あの日、あんたの隣で震えて、あんたの素顔を見て逃げ出した……卑怯で、惨めな私しか、ここにはいないんだから……!」
カナは、叩きつけた紙袋からあの歪んで錆びついた「鉄仮面」を取り出し、頭から被った。
視界が狭まり、懐かしい鉄の匂いが鼻腔を突く。
その瞬間、目の前のコウタの肩が、目に見えて大きく跳ねた。
「……ごめんなさい。
偶然、気づいたの。
あんたが言ってたことが、ネットのあいつの話と……あまりにも一致しすぎてて。
ずっと、言えなかった。怖かったから」
鉄仮面の奥から響く、くぐもった声。
それは間違いなく、コウタが魂を削って探し求めていた「騎士の相棒」の声だった。
「……えっ……? ネットの、カナ……?
お前が、あの、性格の腐ったブランド女……なのか?」
コウタはあまりの衝撃に足元がふらつき、背後の柱に背を預けた。
自分が憎み、けれど唯一本音を晒してきたネットの宿敵が。
自分が愛し、追いかけた理想の女性だった。
カナは鉄仮面を被ったまま、自嘲するように素顔を晒す。
「……これ、私のなの。
あんたが探してたのは、私だったのよ。コウタ」
初めて呼んだ、彼の本名。
二人の間に積み上げられた十億の嘘が、その名前一つで崩れ去っていく。
残ったのは、泥にまみれた鉄仮面と、泣きじゃくる一人の女。
そして、嘘を脱ぎ捨てて立ち尽くす、一人の男だけだった。
コウタは震える手で、その鉄仮面の縁に触れた。
「……ネットに、本名載せるなよ。
危ねえだろ。あんな場所に」
それは、呆れ果てた不審者くんとしての指摘だった。
カナは鉄仮面を少しずらし、赤くなった瞳で睨み返す。
「……お互い様でしょ。
……てか、写真。あんた、盛りすぎよ。原形がないわ。詐欺で訴えられるわよ」
「……うるせえ。
お前だって、あの『CEOの彼氏』、どこから拾ってきたんだよ」
「……拾ったんじゃないわよ、フリー素材よ!
悪い!?」
二人の間に流れる空気は、あの汚いネット掲示板に近い温度へと戻っていった。
「……三〇〇一万、稼いじまった。
これ、どうする。社長令嬢はもういないし、俺には使い道がねえ」
「……バカね。
……とりあえず、その金で、私のこのボロボロのヘルメット、もっといいやつに作り直してよ」
コウタは今日初めて、少しだけ本当に笑った。
「……ああ、そうだな。
最強のやつを、特注してやるよ」
二人は、十億の嘘を瓦礫に変えて、その上に腰を下ろした。
ただの嘘つきな二人が、ようやく本当の顔で隣り合った、歪で、静かな再出発だった。
ギルドの片隅、座り込んだままのカナを見下ろし、コウタは大きく息を吐いた。
手元の「年収三〇〇一万」のカードをポケットにねじ込み、彼はゆっくりと、彼女の隣に腰を下ろした。
豪華な装備も、積み上げた嘘の称号も、今の二人の間では何の役にも立たない。
「……遅くなって、ごめんなさい」
カナが膝に顔を埋めたまま、消え入りそうな声で呟いた。
あの日、逃げ出した瞬間の後悔。
ネットで彼を罵りながら、その裏で彼を求めていた矛盾。
その全てを込めた謝罪。
コウタは無言で、床に転がった錆びついた鉄仮面を拾い上げた。
そして、それを愛おしそうに撫で、カナの隣にそっと置く。
「……いいよ」
コウタの声は、今までで一番優しかった。
彼は正面を見据えたまま、迷いのない言葉を口にする。
「カナ。マッチングアプリの、最低な嘘から始まった出会いだけど……。
俺と、付き合ってくれ。
俺は、ずっとお前のことを探してた。
仮面を被ってても、被ってなくても……俺が必死に追いかけてたのは、お前なんだよ」
カナは、ゆっくりと顔を上げた。
涙で汚れた顔。
ブランド物のメイクも崩れ、ネットで加工していた美貌とは似ても似つかない、ありのままの「カナ」の顔。
彼女は鼻をすすり、信じられないものを見るようにコウタを見つめた。
「……当たり前じゃない。
……でも、本当に……私でいいの?
性格も悪いし、嘘つきだし、あんたが理想にしてた『優しい』人間なんかじゃないのよ?」
コウタは苦笑して、隣に座る彼女の、少しだけ震えている肩を引き寄せた。
ブランド物の香水の匂いと、少しだけの鉄の匂いが混ざり合う。
「お前がいいんだよ。
……俺だって、ただの不審者で、嘘つきの成金だ。
似た者同士だろ」
カナは、コウタの肩に頭を預け、ようやく小さく笑った。
嘘を吐く必要のない、本当の安らぎ。
二人が積み上げた三〇〇一万の数字は、これからの二人の、不器用で真っ直ぐな日常を支えるための、ただの「生活費」へと姿を変えた。
ギルドの外には、どこまでも青い空が広がっている。
二人は、もう仮面を必要としない。
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(エピローグ)
ギルドの自動ドアが開き、心地よい春の風が二人の頬を撫でる。
コウタの隣を歩くカナは、もう高価なブランドバッグも、自分を偽るための厚いメイクも纏っていない。
代わりに、コウタが特注した「新しいヘルメット」を大切そうに抱え、ごく普通の、けれどどこか晴れやかな表情で歩いている。
「……ねえ、コウタ。
今更だけど、さっきの告白。
『お前がいい』なんて、あんな大勢の前でよく言えたわね。
不審者のくせに、変なところで度胸があるんだから」
カナはわざと呆れたような口調で言ったが、その頬は朱に染まっている。
コウタは前を見据えたまま、照れ隠しに鼻を鳴らした。
「……うるせえな。
ネットじゃ毎日、もっと恥ずかしい罵り合いをしてただろ。
それに、嘘を全部捨てたら、あの言葉しか残らなかったんだよ」
コウタはポケットの中で、年収三〇〇一万のカードを弄ぶ。
かつては彼を縛り付ける呪いだったその数字も、今はただ、隣にいるこの面倒な女と、明日何を食べるかを決めるための平穏なチケットに見えた。
「……ふん。まあ、いいわ。
あんたがそこまで言うなら、付き合ってあげなくもないわよ。
ただし、これからは嘘禁止。
写真の加工も、変な見栄も、全部なし。
……もちろん、私 の 前 だ け でいいけど」
カナは少しだけ歩調を速め、コウタの前に回り込んで、悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔は、かつてネットで拾ってきたフリー素材の美女よりも、ずっと歪で、ずっと眩しい。
「ああ。……分かってるよ。
これから一生かけて、お前の本当の顔を見てやるよ」
コウタが手を差し出すと、カナはその大きな手を、今度は逃げることなくしっかりと握り返した。
二人はたった一つの、不器用で真っ直ぐな真実を抱えたまま、光の指す方へと歩き出していった。




