11
ギルドの片隅、喧騒から少し離れた薄暗い柱の影。
カナは、新調したばかりのヘルメットを抱え、何度も深呼吸を繰り返していた。
(……ネットのあいつは、好きな人ができたなんて言って、もう私との不毛な言い合いなんてやめるつもりみたいだし)
画面の向こうにいる顔も知らない男は、もう自分を必要としていない。
けれど、目の前を通り過ぎようとしている「不審者くん」は、今や英雄として名を馳せながらも、自分が脱ぎ捨てた古い仮面を抱えて、幻を追い続けている。
(……もう、いいじゃない。どうせ誰も私を見てくれないなら、せめて騎士様の隣に……)
カナは、自分の中の「ブランド女」のプライドを無理やり押し殺した。
嘘を吐き続けることにも、幽霊のような理想を追いかけることにも、もう疲れてしまった。
たとえ、彼が愛しているのが「鉄仮面の私」であっても。
隣にいれば、いつかこの「生身の私」を、ほんの少しでも見てもらえる日が来るかもしれない。
「……ちょっと。不審者くん」
コウタの足が止まった。
彼は死んだような目で振り返り、そこに立つカナを、まるで風景の一部であるかのように眺めた。
「……なんだ。またお前か。
言っただろ。俺は今、人を探してるんだ。お前に構ってる暇はない」
「分かってるわよ、そんなこと。
……でも、あんた。その『彼女』がいつまで経っても現れないなら、いつまで経ってもハンターとしてまともに仕事ができないでしょ?」
カナは一歩、コウタに近づいた。
ブランド物のヒールの音が、硬い石畳に不自然に響く。
彼女は震える指先を隠すように、抱えたヘルメットを強く抱きしめた。
「……お願いがあるんだけど」
コウタは無言だった。
だが、拒絶して立ち去ることもせず、ただ彼女の次の言葉を待った。
その「待つ」という仕草に、かつての騎士の面影を見て、カナの心臓が跳ねる。
「……私と、組んでくれない?」
「……は?」
コウタの眉が不快そうに跳ね上がった。
かつて自分を「不審者」と呼び、ゴミを見るような目で見ていた女。
そんな女が、あの日、魂を分け合った相棒の代わりに隣に立つなど、彼にとっては冒涜に近い提案だった。
「……お前、自分が何を言ってるか分かってるのか?
俺が組みたいのは、あいつだけだ。お前みたいな、チャラチャラした素人じゃない」
「素人じゃないわよ……! 私だって、あんたが思ってるよりずっと……!」
戦える。そう叫びたかった。
彼女の瞳には、かつての高慢な光ではなく、縋るような、切実な色が混じっていた。
コウタは、そんなカナの表情に、ほんの一瞬だけ既視感を覚える。
けれど、彼はすぐに視線を逸らし、鼻で笑った。
「……断る。
俺の隣は、あいつのために空けてあるんだ」
「……その!あいつが戻ってくるまででいいから!」
カナの叫びが、ギルドの喧騒を一瞬だけ切り裂いた。
周囲のハンターたちが好奇の視線を向けるが、彼女はもう、そんなものを気にする余裕さえなかった。
プライドも、ブランドも、嘘で固めた「理想の自分」も、今の彼女には重すぎる荷物でしかない。
ただ、目の前にいるこの男の隣に、どんな形でもいいから居場所が欲しかった。
「なん……だと?」
コウタの声は低く、ひどく冷たかった。
彼は抱えていた紙袋の中の「鉄仮面」を、今一度強く抱きしめる。
けれど、目の前のカナの瞳に宿る、なりふり構わない必死さ。
それが、あの日戦場で見せた自分の、あの無様な執着と重なって見えた。
「……本気なんだな。
お前のような女が、泥を啜り、血を流してでも、俺の背中についてくると」
「ええ……。あんたが『あいつ』を見つけるまででいい。
それまでは、私が死なない程度に、あんたの盾にでもなってあげるわよ」
カナは強がって見せたが、その膝は小刻みに震えていた。
コウタは長く、重い溜息をついた。
正直、今の自分一人では、以前のような無茶な依頼はこなせない。
そして何より、このまま一人で幻を追い続けていれば、いつか本当に精神が壊れてしまうという予感があった。
「……いいだろう。
なら、せいぜい死なないように、俺の後ろに隠れてろ」
コウタは、乱暴にギルドの受付端末に自身のカードを差し込んだ。
パーティー結成の認証音が、無機質に響く。
それは、英雄とその隣人による、世界で一番歪な「再会」の合図だった。
「……勘違いするなよ。
俺が組むのは、あくまで仕事のためだ。
お前に、あいつの代わりなんて……一ミリも期待してないからな」
「……分かってるわよ。そんなこと、百も承知だわ」
カナは、新調したヘルメットを乱暴に被った。
視界が狭まり、鉄の匂いが鼻を突く。
その瞬間、コウタがわずかに肩を震わせ、彼女の方を見た。
けれど、その瞳に映っているのが「今の私」ではなく「かつての残像」であることを、カナは痛いほどに知っている。
二人は、最も近くにいながら、お互いを全く見ていない。
コウタは「過去の幻」を、カナは「今の孤独」を埋めるために。
二人の快進撃は、ギルド内でも異常な噂となって広まっていた。
コウタの重厚な一撃が道を作り、その背後からカナが、まるで彼の思考を先読みしているかのような絶妙なタイミングで追撃を見舞う。
かつての「不審者」と「ブランド女」という奇妙な組み合わせは、今や瞬く間にランクを駆け上がる、正体不明の強者パーティーへと変貌していた。
「……はあ、今日もあっけなかったわね。これくらいの魔物、私の新しい装備の敵ですらないわ」
ダンジョンの出口。
カナは返り血をブランド物のハンカチで拭いながら、新調したヘルメットを脱いだ。
その隣で、コウタは大剣を背負い直し、相変わらず無愛想に前方を見つめている。
かつては罵り合っていた二人の間には、実戦を重ねるごとに、奇妙で事務的な沈黙が流れるようになっていた。
「……ねえ。あんた、そんなに必死にランクを上げて、一体何を目指してるの?」
カナが、ふとした疑問を投げかけた。
金はある。名声も手に入りつつある。
それでもコウタの戦い方は、何かに急き立てられているかのように危うく、飢えていた。
コウタは足を止めることなく、独り言のように答えた。
「……ああ、そうだな。目標は、年収3001万だ」
コウタが淡々と、だが取り付かれたような目をしてそう呟いた瞬間だった。
それまで軽口を叩きながら歩いていたカナの足が、目に見えてもつれ、石畳の上で派手な音を立てて止まった。
「……は? なによ、その中途半端な数字。3000万でいいじゃない。なんで1万なんて端数がついてるのよ」
カナは呆れたような声を出し、わざとらしく肩をすくめて笑ってみせた。
けれど、その内側では心臓が、まるで警笛のように激しく鳴り響いていた。
(……3001万? なんでその数字が出てくるのよ。3000万じゃなくて……わざわざ、それを超えるための1万?)
彼女の脳裏に、ネット掲示板で毎日罵り合っている「あの不快な不審者」の言葉がフラッシュバックする。
『俺は年収3001万になって、お前の自慢のCEOから社長令嬢を奪い取ってやる』。
画面越しに鼻で笑い、適当にログを流していたはずの、あの支離滅裂な執念。
「……3000万じゃ、ダメなんだ。それじゃ『勝てない』相手がいる」
コウタは、カナの動揺など露ほども気づかず、新調した大剣の柄を固く握りしめた。
彼の視線の先には、目の前のカナではなく、ネットの向こうで自分を見下し続ける「最強の敵(カナの虚像)」がいた。
その「3000万の壁」を1万円でもいいから踏み越えなければ、自分という人間は一生、あの女に、そしてこの世界に負けたままだと思い込んでいる。
「……バカみたい。そんな、誰が決めたかも分からない数字にこだわって、命をかけるなんて。あんた、本当に……救いようのないバカね」
カナは、乾いた喉で必死に言葉を絞り出した。
その「3000万」という数字の出処が、自分がネットで適当に吐いた、何の根拠もない見栄であることを、彼女だけが知っている。
自分がその場のノリで積み上げた砂の城を壊すために、目の前の男は、現実の血を流し、骨を削ってランクを上げ続けている。
(……嘘でしょ。まさか、こいつがあの不審者……?
いや、ありえない。あんな陰気で攻撃的なネット弁慶が、こんなに真っ直ぐで……バカな騎士様なわけがない)
カナは必死に首を振った。
そのシンクロを認めれば、自分がこれまでネットで彼に浴びせてきた罵詈雑言のすべてが、自分自身を切り裂く刃に変わってしまう。
一方のコウタも、隣にいるカナを「不審者」と罵る敵だとは微塵も思わず、ただ「嘘の壁」を超えることだけを誓っていた。
「……勝手にして。その1万円分、せいぜい必死に稼ぐことね」
カナは逃げるように歩調を速めた。
二人の間には、埋まることのない「1万円」の断絶と、それ以上に深い「自覚なき共有」が横たわっている。
現実に近づくほど、ネットの嘘が、鋭い棘となってお互いの肉を抉り始めていた。
コウタとカナが「暫定的なバディ」を組んでから、一ヶ月が過ぎた。
かつてのような刺々しい空気は、実戦の積み重ねという厚い皮膜に覆われ、表面上は穏やかな、けれどどこか空虚な「信頼」へと形を変えていた。
二人のランクは跳ね上がり、稼ぎ出した報酬は、ついに二人合わせて年収三〇〇〇万という大台を突破しようとしていた。
かつての底辺生活が嘘のような、眩いばかりの数字。
だが、その数字に近づけば近づくほど、コウタの瞳からは生気が失われ、カナの指先は震える夜が増えていった。
コウタは、新築マンションの広いリビングで、一人「歪んだ鉄仮面」を磨いていた。
三〇〇〇万。もうすぐ、あの傲慢な女の彼氏と同じ場所に立てる。
けれど、その先に「彼女」がいる確証はどこにもない。
彼は、逃げ場を求めるように、一ヶ月ぶりにあのアプリを開いた。
一方、カナもまた、豪華なベッドの上で端末を握りしめていた。
これが最後。
正体を知ってしまった今、この場所で嘘を吐き続けることは、自分自身の魂を切り刻むのと同義だった。
けれど、最後にどうしても、彼の「今」を確かめたかった。
『カナ:……ちょっと聞きなさいよ。不審者。
あんた、今何してんのよ。
……あたしら、ネットの付き合いだけは結構長いじゃない?
だから……まあ、一応、聞いてあげるわよ。
あの「彼女」、見つかったの?』
カナは、送信ボタンを押した後、端末を胸に抱きしめて目をつぶった。
目の前の「不審者くん」は、自分という存在が隣にいるのに、今もなお、自分の「抜け殻」を探して彷徨っている。
そんな彼を、ネットの「カナ」として嘲笑うことなど、もう誰にも、自分にも許されない気がした。
『コウタ:……見つかってないよ。
一ヶ月、必死で探したけどな。
……でも、最近は思うんだ。
あいつはきっと、俺がこの三〇〇〇万っていう壁を越えるまで、姿を見せないつもりなんじゃないかって』
即座に返ってきた通知音。
コウタの返信は、以前のような攻撃性を失い、ひどく純粋で、それゆえに残酷だった。
彼は今も、自分の吐いた嘘を「彼女への挑戦状」だと信じ込んで、ボロボロになりながら戦い続けている。
『カナ:……バカね。本当に。
そんな数字、その子にとっては、一円の価値もないかもしれないのに』
カナは、涙を堪えながら文字を打った。
「私(生身)」はここにいる。
三〇〇〇万なんていらない。
ただ、あのヘルメットの中を覗き込んで、不器用に笑い合えたあの時間を、もう一度、今度はこの素顔でやり直したい。
けれど、今の彼女にそれを言う資格はなかった。
『コウタ:価値はあるよ。
……俺には、これしかないんだ。
なあ、カナ。お前はいいよな。
そんな、くだらない数字の心配なんてしなくていい「外側」があるんだから』
コウタの無意識のナイフが、カナの胸を真っ二つに裂く。
二人は、最も近くで同じ三〇〇〇万という数字を共有しながら。




