10
レイドの功労金と、その後の大規模な依頼。
コウタの生活は、あの日を境に劇的な変貌を遂げた。
手に入れたのは、かつてなら数年かけても稼げない額の報奨金。
彼はその金で、以前よりはマシな、けれどやはりあのボロアパートと大差ない距離にある、少しだけ壁の厚いマンションへと移り住んでいた。
装備も新調した。
だが、どれだけ高価な鎧を纏っても、彼の左手には常に、あの安物のフルフェイスヘルメットが握られている。
彼は今や、ギルドでも一目置かれる「実力派」としてのし上がっていた。
そんなある日の夕暮れ。
新居のほど近くにある、少し小洒落たスーパーの入り口で、彼はその女と再会した。
「……あ。あんた」
声をかけてきたのは、カナだった。
彼女もまた、あの日以来、羽振りが良くなったのだろう。
身につけているワンピースは以前のような安っぽいコピー品ではなく、本物のブランド品に変わっていた。
だが、その肩には、不釣り合いなほど無骨な武器バッグが提げられている。
コウタは足を止め、彼女の肩にある「それ」をじっと見つめた。
「……お前、ハンターだったんだな」
その言葉は、数ヶ月前の自分なら、嘲笑と共に吐き捨てていただろう。
けれど今は、乾いた感触だけが残る。
カナは、気まずそうにバッグのストラップを握り直した。
「……そうよ。悪い?
あんたみたいな不審者が英雄扱いされるくらいなんだから、私にだってこれくらい、朝飯前よ」
彼女の態度は、相変わらず虚勢に満ちている。
けれど、以前のようなトゲはない。
むしろ、コウタの素顔を正面から見られないように、視線を泳がせている。
コウタは、そんな彼女の様子に違和感を覚えながらも、鼻を鳴らした。
「……フン、そうか。
あの時、ギルドの掲示板にいたのも、男漁りじゃなくて仕事を探してたってわけか」
「当たり前でしょ。あんたこそ……あの日、あんなにすごかったのに。
なんで、まだそんな古臭いヘルメットを持って歩いてるのよ」
カナの視線が、コウタの左手にある「遺物」に注がれる。
コウタは無意識にそれを背後に隠した。
「……これは、俺の命の恩人の形見みたいなもんだ。
お前のような、チャラチャラしたハンターには分からないだろうがな」
「……っ。形見……」
カナの胸が、鋭く痛んだ。
形見ではない。私はここにいる。
けれど、コウタが大切に抱えているのは、あの日、彼が愛した「鉄仮面の残像」だけなのだ。
自分という「生身の女」が隣にいても、彼は決して、その仮面の奥にいる自分を見ようとはしない。
二人は、底辺を抜け出し、確かに同じ景色の中に立っている。
物理的な距離は、歩いて数分の隣人。
けれど、その心の距離は、分厚い鉄板に隔てられたままだ。
「……じゃあね、不審者くん。
次、現場で会っても、私の足だけは引っ張らないでよ」
「それはこっちのセリフだ。ブランドを汚して泣き言を言うなよ」
背を向けて歩き出す二人。
英雄としての報奨金が入り、生活は一変したはずだった。
けれど、新築マンションの清潔な空気は、コウタの肺をひどく虚しくさせる。
彼は毎晩、枕元に置いた「歪んだ鉄仮面」に触れ、あの日、自分の素顔を見て逃げ出した相棒の背中を思い出していた。
(……結局、俺はあの鉄塊に守られていただけの、ただの不審者なんだ)
そう自分を呪うことしかできない夜、数日ぶりに端末が震えた。
いつもの、不快で、けれど唯一「俺」を知っている女からの通知。
『カナ:……生きてるんでしょ。
返信もよこさないで、そのまま野垂れ死んだのかと思ったわ。
あんたがいないと、こっちのストレス発散ができなくて困るのよ』
コウタは、数日ぶりに端末を手に取った。
いつもなら、この傲慢な一文に殺意を覚えるはずだった。
だが、今の彼には、その棘だらけの言葉さえも、どこか懐かしく、救いのように感じられた。
『コウタ:……生きてるよ。
悪かったな。少し、取り込み中だったんだ。
お前のその図太い神経が、少しだけ羨ましいよ』
コウタの返信は、いつもの毒気が抜けていた。
画面越しに、彼の落胆と疲れが滲み出ている。
それを受け取ったカナもまた、豪華なベッドの上で膝を抱え、小さく吐息をついた。
彼女もまた、新調したヘルメットを被るたび、隣にいた「騎士」の素顔を思い出しては、自己嫌悪に陥っていた。
『カナ:……何よ、その元気のない返信。
あんたの自慢の「社長令嬢」にでも振られたわけ?
それとも、また何か惨めな思いでもしたの?』
『コウタ:……振られたわけじゃない。
ただ、俺が俺である限り、手に入らないものがあるって気づいただけだ。
お前の方こそ、どうなんだ。その「CEOの彼氏」とやらは、お前をちゃんと見てるのか?』
二人は、お互いの「嘘のステータス」を盾にしながらも、その裏側にある本物の「元気のなさ」を隠しきれずにいた。
かつては相手を打ち負かすための武器だったチャットが、今は、傷ついた魂を寄せ合わせるための、暗い避難所へと姿を変えていく。
『カナ:……見てるわよ。私の「外側」だけは、ね。
でも、あんたに話したところで、どうせ理解できないでしょうけど。
……ねえ、不審者。
あんた、もし……もし目の前に、あんたが求めてる「理想」とは違う「真実」が現れたら、どうする?』
カナは、震える指でそう打ち込んだ。
目の前にいる「不審者くん」に、自分が「あの鉄仮面」だと打ち明けたい。
けれど、彼が愛しているのは、自分という人間ではなく、あの鉄の殻なのだという事実が、彼女の唇を、指先を、固く縛り付けていた。
『コウタ:……さあな。
俺なら……その真実を、受け入れられる自信がないよ。
今の俺は、その理想の残像に縋らなきゃ、立っていられないんだ』
コウタの自虐的な返信が、カナの胸を深く抉る。
二人は、同じ夜の暗闇の中で、同じ痛みを抱えながら。
決して重なることのない「嘘」の対話を、また少しずつ紡ぎ始めていた。
コウタは新居のソファに深く沈み込み、端末の画面を眺めた。
現場の彼女に拒絶された傷は、どんな高級な酒でも癒やせない。
一方で、このネット上の女との罵り合いだけは、不思議と「自分という人間」がまだここに存在していることを証明してくれる気がしていた。
『コウタ:お前はいいじゃないか。
外側だけでも、本物の自分を見てもらえるだけマシだろ。
俺なんて……昨日、俺が「一番見られたくない姿」を、よりによって「一番見られたい相手」に見られちまったんだ。
……あいつ(現場の彼女)にとっては、俺という人間は存在しなかったも同然だったんだよ』
コウタが吐き出したのは、現場の彼女=相棒への未練だった。
だが、それを受け取ったカナの解釈は、少しだけズレている。
彼女は、自分が現場で「不審者くん(コウタ)」を見て逃げ出した罪悪感を、このネット上の男に投影していた。
『カナ:……なによそれ。やっぱりフラれたんでしょ。
でも、あんたが勝手に「理想」を見せてたのが悪いのよ。
相手にしてみれば、あんたの「中身」があんまりにも期待外れだったから、怖くなって逃げたんじゃない?
……っていうか、あんた。
もしその「一番見られたくない姿」っていうのが、実は相手にとっても「一番見たくなかった相手」だったとしたら……あんた、どうするのよ』
カナは、目の前の端末に「隣の不審者」の影を重ねながらも、必死にそれを否定していた。
『コウタ:……さあな。
もしあいつが、俺が最も軽蔑している「お前」みたいな女だったとしても……。
俺は、あいつに隣にいてほしかったよ。
あの瞬間、背中を預け合っていた感覚だけは、どんな嘘よりも「本物」だったからな』
コウタは、ネットのカナを「最悪の例え」として出しながら、皮肉にも彼女への執着を、彼女本人に告白してしまった。
カナは、スマートフォンの画面が滲んで見えるのを、強く瞬きして堪えた。
『カナ:……ふん、バカじゃないの。
「私みたいな女」って何よ、失礼ね!
……でも、そう。
あんたがそこまで言うなら、せいぜいその「理想の残像」でも抱いて、一生一人で後悔してればいいわ』
カナは、震える手でそう打ち込み、端末を投げ出した。
でも不審者の「私みたいな女」が、あんたの探している相棒なのよ。あんたのことじゃないけど。
そう叫びたい衝動と、それを知られたら全てが終わるという恐怖。
二人は、最も残酷な形で「真実」の隣を通り過ぎながら、また夜の静寂へと戻っていく。
コウタは新築マンションの窓際に立ち、端末を弄っていた。
目の前の景色は「英雄」にふさわしいものに変わったが、心はあの泥にまみれた戦場に置き忘れたままだ。
自分を否定し、相棒を神聖視する。
その極端な二極化が、彼をネットの「嘘」から卒業させようとしていた。
『コウタ:なあ。
俺、もうマッチングアプリ(これ)、しばらくやらないかもな』
『カナ:はあ!? 急に何よ。
あんたの唯一の生きがいだった、ありもしない「社長令嬢とのデート自慢」を封印するわけ?』
『コウタ:……ああ。
好きな人が、できたんだ。
もう嘘を塗り重ねて、実体のない誰かと競い合う必要がなくなったんだよ』
送信。
コウタの頭にあるのは、あの現場で背中を預け合った「彼女」のことだ。
自分を騎士と呼んでくれた、あの気高い相棒。
彼女にふさわしい男になりたいという、身の丈に合わない願いが、ネットでの不毛なマウント合戦を「くだらないもの」に変えていた。
一方、カナはその返信を、安アパートの万年床で読んでいた。
「好きな人ができた」という一言が、鋭いナイフとなって彼女の胸を刺す。
(……好きな人? このネットの男にも、本気で想う相手がいるってこと?)
カナは、画面の向こうの男が「不審者くん(コウタ)」だとは、まだ露ほども思っていない。
ただ、自分が今まさに、隣の不審者を「騎士様」として追いかけているのと同じように、このネットの男もまた、誰か「別の女」に本気になっているという事実に、猛烈な嫉妬と焦燥を覚えたのだ。
『カナ:ふん、おめでたいわね!
どうせあんたのことだから、その「好きな人」にも、ネットで言ってるようなデタラメを吹き込んでるんでしょ?
そんなの、いつか愛想を尽かされるに決まってるわ』
『コウタ:……いや。
むしろ逆だ。その人には、もう俺の「一番情けないところ」を見られちまったんだよ。
それでも……いや、だからこそ、俺はあいつがいいんだ。
このアプリでお前と傷を舐め合ってる暇があったら、一分でも長くあいつを捜したいんだよ』
コウタは、ネットのカナを「本音を漏らせるゴミ箱」程度にしか思っていない。
対してカナは、画面を睨みつけながら、激しく指先を動かす。
『カナ:何よ、本気になっちゃって。
あんたみたいなネット弁慶を好きになる物好きな女なんて、この世に一人だっているわけないでしょ!
……いいわよ。勝手にやめれば。
私も、CEO(設定)とのディナーで忙しいから、あんたの惚気なんてこれ以上聞きたくないわ!』
カナは端末を叩きつけるように置いた。
腹立たしい。
ネットのコウタが「好きな女」に一途になろうとしている姿が。
リアルのコウタが「鉄仮面の女」を必死で捜している姿が。
その両方が、自分という「生身の女」を置き去りにして加速していく。
二人は、最も近くで同じ痛みを共有していながら。
ネットでもリアルでも、互いの「虚像」だけを愛し、互いの「真実」を蔑み続けていた。




