84話
揺れる馬車の中、アナイスは流れる景色をただ見つめていた。
頭に浮かぶのは、ドーラ家のこと。
苦しみ続けた十五年という長い年月の結末が――あまりにもあっけないものだったことに、どこか虚しさを覚える。
ドーラ家がやって来た当初は、気に入られたくて、常に顔色を窺っていた。
やがて暴力を振るわれるようになると、足音ひとつにすら怯える日々。
成長してからは、セリオン家を取り戻すという信念を支えに、決して挫けまいと自らを奮い立たせてきた。
それでも、暗く冷え切った納屋の中、眠りに落ちる直前に押し寄せる、寂しさと心細さ。
その感覚は、今でもはっきりと胸に残っている。
けれど、その元凶は――あまりにも取るに足らないものだった。
彼らが捕らえられたことへの安堵。
そして、苦しみ続けた十五年は何だったのかという虚しさ。
相反する感情が入り混じり、アナイスの胸の奥は静かにざわめいていた。
「随分、大人しいな?」
不意に降りてきたセルディアンの声に、アナイスははっと顔を上げた。
向かいの座席にもたれ、こちらを見守るセルディアンは、いつものように口の端をわずかに上げている。
けれど、その瞳には確かな温もりが滲んでいた。
「……なんだか、気持ちが追いつかなくて」
素直に胸の内を言葉にすると、アナイスは力を抜くように背もたれへと身を預けた。
セルディアンは、先を促すように静かに視線を向ける。
「あれほど大きく見えていたのに……本当は、あんなにも取るに足らない存在だったなんて」
アナイスは、自嘲を滲ませた笑みを浮かべた。
「私が、もっと早く動いていれば……セリオンの領民たちは、あそこまで苦しまなかったかもしれない」
脳裏に浮かぶのは、荒れ果てたセリオンの地。
それは、自分の臆病さが招いた結果のように思えた。
「……お兄様だって」
零れ落ちた呟きは、静寂の中へと溶けていく。
アナイスは一度視線を落とし――それから、再びセルディアンを見上げた。
「……問題が片付いたことを、喜ばなきゃいけませんね」
浮かべた笑みは、どこか自分に言い聞かせるようなものだった。
セルディアンはその表情をただ静かに見つめていたが、やがて、おもむろに馬車の壁を軽く叩く。
それに応じるように、馬車はゆっくりと動きを止めた。
「待っていろ」
短く言い残し、セルディアンは外へ出る。
残されたアナイスが戸惑っていると、ほどなくして彼は戻ってきた。
何事もなかったかのように腰を下ろすと、馬車は再び動き出す。
「……公爵様?」
戸惑いを隠せず声をかけるアナイスに、セルディアンはわずかに口の端を引き上げた。
「カースヴェルもドーラも、二度と日を見ることはできない。」
カースヴェルとドーラの罪は暴かれた。
その数々は、処刑台へと続くほど重い。
「主判事を務めた元老院の爺は、二度と木槌を持つことはできない。」
皇室との繋がりを疑わせる言動を取った主判事。
皇室が彼を野放しにしておくことはないだろう。
「それらは、この国の、正しくあるべき姿へ繋がるきっかけとなるだろう。」
セルディアンは真っ直ぐとアナイスを見つめる。
「それらは、君の知識と君の正義が成し遂げた事だ。」
その視線に迷いなど、一つもない。
「誇れ、アナイス・セリオン侯爵令嬢」
低く響く声。
はっきりと告げられたその言葉は――
アナイスの胸の奥に確かな熱を灯したのだった。




