幕間
セルディアンとの対峙を終えたアナイスは、ルヴァルティエ家の客室へと案内された。
そこでは、先ほど家履きを用意してくれた若いメイド――リセが、せっせと風呂の準備をしていた。
アナイスが到着するやいなや、リセは花が咲いたような笑顔を浮かべて声を上げた。
「お嬢様! お疲れ様でした!」
その明るい声に、アナイスも思わず微笑む。
「ありがとう」
二人のやり取りを見守っていたバルナールが、穏やかな声で言った。
「お嬢様、ごゆっくりお休みください。……リセ、頼みましたよ」
「お任せください! バルナール様!」
胸を軽く叩きながら答えるリセに、アナイスは微笑みを返した。
「ありがとうございます、バルナール様」
恭しく頭を下げたバルナールは、静かにその場を後にする。
扉が閉まると、リセはぱっと明るい表情を見せた。
「お嬢様、改めましてリセと申します! お嬢様がお屋敷にいる間、お世話をさせていただきます!」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね、リセ」
その言葉にリセの瞳がきらきらと輝く。
「ささ! お寒かったでしょう! 温かいお風呂を用意していますよ!」
案内されるまま浴室へ向かう。
湯気の立ち上る香油の香りが、疲れた身体をやさしく包み込むようだった。
リセに手助けされながら湯浴みを済ませ、用意してもらった清潔な寝間着に袖を通す。
柔らかな布地が肌に触れ、ほっと息が漏れた。
ほどなくして、リセが温かいミルクを盆にのせて戻ってくる。
「お嬢様、どうぞ」
アナイスはそれを受け取り、一口すする。
「ありがとう。……うん、甘くて、美味しい」
セリオン家を出てから――
いや、両親を失ったあの日からずっと、張り詰めた思いで生きてきた。
久しぶりに、心の奥から力が抜けていくのを感じた。
そんな穏やかな表情のアナイスに、リセは柔らかく微笑む。
「何かあれば、いつでもお呼びくださいね。おやすみなさいませ、お嬢様」
静かに扉が閉まる。
一人残されたアナイスは、ふかふかのベッドに身を沈めた。
「……こんなふかふかのベッド、久しぶりだわ」
思わず笑みがこぼれる。
そして、今日出会った男――セルディアン・ルヴァルティエの姿が、ふと脳裏をよぎる。
黒髪に、真紅の瞳。
冷たくも、美しく。まるで紅玉のような光。
「公爵様の目……ルビーみたいに綺麗な色だったな……」
そんなことをぼんやりと考えているうちに、まぶたがゆっくりと重くなる。
やがてアナイスは、久しぶりに安らかな眠りへと落ちていった。
………
執務室に戻ると、セルディアンはシャツのボタンをひとつ外し、どさりとソファへ身を預けた。
入室してきたカリスが、静かに声をかける。
「ご令嬢の話を、信じられるのですか?」
「さあな。……だが、答えはすぐに出るだろう。」
短く返すセルディアンの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
カリスはそれを見て、苦笑する。
「公爵様、楽しそうですね。」
「ふん。」
その一言に、彼の機嫌の良さが滲んでいた。
先ほど対峙した令嬢の姿が脳裏をよぎる。
ボロボロの身なりに似つかわしくない気品。
気弱な令嬢に見えて、その実、誇り高く、真っすぐな薄紫の瞳。
自分の目を逸らさず見つめ返す人間はそう多くない。
――まさか、フクロウの目とは。
「現在のセリオン領の様子は?」
セルディアンの問いに、カリスが即座に答える。
「ご令嬢の話の通り、悲惨そのものです。ドーラ家の悪政により増税が続き、街は荒廃。スラム化が進み、民は疲弊しております。」
「はっ。自身は贅の限りを尽くし、領民はその生贄か。」
セルディアンは冷ややかに吐き捨てた。
カリスが小さく頷く。
「ドーラ男爵は黒い噂の絶えない男です。違法賭博に手を出し、多額の借金を抱えているとか。」
セルディアンの脳裏に、アナイスの傷だらけの手が浮かんだ。
「令嬢の屋敷での様子は?」
「心を病んで屋敷から出られない、という噂以外情報を得られませんでした。」
それを聞き、アナイスがルヴァルティエ家に到着してから即時に情報収集に向かわせた、この男の仕事の早さに、にやりとセルディアンは口の端を上げる。
「ふん、令嬢が言う“警戒”というやつか。」
「ええ……腹立たしいことですが。」
カリスが肩をすくめると、セルディアンはくすりと笑った。
「カリス。お前はどう思う?」
「珍しいですね、公爵様が私に意見を求めるとは。」
「心外だな。俺はいつでもお前の意見を尊重しているつもりだが?」
軽口を交わしながら、執務室にはわずかに和やかな空気が流れた。
セルディアンが自らを“俺”と呼ぶのは、こうした私的な時間に限られている。
やがてカリスは少し姿勢を正し、静かに言葉を続けた。
「セリオン家との繋がりも、フクロウの目も……あるに越したことはありません。」
そう言って、書類の束からくしゃくしゃになった一通の手紙を取り出す。
――かつて「燃やせ」と命じられた手紙だった。
セルディアンはそれを見るなり眉を寄せ、次の瞬間、ふっと笑みを漏らす。
「お前は、本当に仕事のできる奴だよ。」
「お褒めいただき光栄です。」
「セリオン侯爵家であれば、向こうも何も言えないでしょう。」
セルディアンは手紙を手に取り、静かに呟く。
「狼の牙で噛みつき、馬の蹄で蹴飛ばしてやれ……ということか。」
「ええ、しかも“フクロウの目”の監視付き、です。」
その言葉に、二人の間に短い沈黙が落ちた。
アナイスの語ったことを、彼らは信じていた。
――あの少女なら、セリオンの名に再び光をもたらすだろう。
――あの少女なら、世界中の“目”を支配するだろう。
セルディアンはソファに身を深く預け、静かに息を吐く。
それは、ひとつの答えを出した者の呼吸だった。
窓の外では、いつの間にか雪がやみ、月光が凍てつく庭を照らしていた。




