66話
低く、長く伸びる角笛の音が森を渡った。
狩りの終わりを告げる合図。
その響きに、セルディアンは静かに立ち上がる。
そしてウォーデンへ視線を送った。
主の意図を悟ったのだろう。
ウォーデンはそっとアナイスから離れると、名残惜しげに鼻先を擦り寄せる。
まるで別れを惜しむように。
それから身を翻し、音もなく森の奥へと消えていった。
白銀の雪原に、黒い影が溶け込む。
「賢い子ですね」
感心したように呟くアナイスに、セルディアンは満足げに口元を引き上げた。
「ルヴァルティエの狼だからな」
その声音には、揺るぎない誇りが滲む。
そう言いながら、セルディアンはアナイスの腕を取った。
冷えた指先を包むように支え、ゆっくりと立ち上がらせる。
「ありがとうございます」
小さく礼を言うと、セルディアンは視線を前方へ向けた。
「さて――皇帝から“褒美”を賜りに行くとするか」
わずかに意味深な響きを含んだ声。
「……はい」
帝国の狩猟大会では、最も多く魔獣を狩った者に黄金の冠が授けられ、皇帝自らが褒美を与える。
セルディアンが何かを企んでいるのは、間違いない。
おそらく――この“褒美”のこと。
そう直感しながらも、アナイスは問いたださなかった。
ただ胸の奥に、小さな予感だけを抱きながら
皇族を迎えた場へ戻ると、貴族たちの視線が一斉にアナイスとセルディアンへと向けられた。
その背後――
ランスに導かれたクラヴィスが引く荷台。
そこに積まれた袋の山を認めた瞬間、誰もが目を見張る。
「あんなに……」
「あの令嬢も狩りをしたのか?」
ひそやかな声が、やがてざわめきへと変わる。
羨望、疑念、嫉妬、畏怖――
様々な感情が入り混じり、場の空気が揺れた。
その只中で、アナイスはそっとセルディアンへ身を寄せる。
「公爵様……目立ち過ぎでは……」
耳打ちするような小さな声。
セルディアンは肩を揺らし、低く笑った。
「今更だろう。この茶番を楽しめ」
向けられる無数の視線に、苦い笑みを浮かべるアナイスとは対照的に、セルディアンの口元には不敵な笑みが刻まれていた。
ざわめきを鎮めるように、皇帝がゆっくりと立ち上がる。
ひとつ、咳払い。
それだけで、場は徐々に静寂を取り戻していった。
「……今回の優勝者は、決まったようだな」
重々しく告げられた言葉。
皇帝はセルディアンへ視線を送り、壇上へ進むよう促す。
それを受け、セルディアンはにやりと笑った。
ゆっくりと――
だが迷いなく、皇帝へと歩みを進める。
一直線に向けられる視線。
威厳を纏うその足取りは、まるで自らがこの場の主であるかのようだった。
やがて、皇帝の前に立つ。
頭ひとつ分高い壇上。
本来ならば、仰がれる立場であるはずの皇帝が、耐えきれぬとでも言うように、ふと視線を逸らした。
その仕草を、セルディアンは見逃さない。
形ばかりの礼を取る。
そこに忠誠も、敬意もない。
あるのはただ、圧倒的な自負。
「……っ」
ごく近くにいる者にしか聞こえぬほどの、小さな舌打ち。
その音を耳にしたセルディアンは、愉快そうに口元を歪めた。
(――小さい男だ)
胸中で冷ややかに呟き、ゆっくりと顔を上げる。
「……ルヴァルティエ公爵に、優勝の証を」
皇帝はそう宣言し、黄金に輝く冠をセルディアンの頭上へと載せた。
赤い絨毯の敷かれた壇上。
本来ならば最も高みに立つはずの皇帝。
だが――
黄金の冠を戴く“黒き狼”の姿を前にすると、
その威光さえも霞んで見えた。
セルディアンは、頭上に載せられた冠を無造作に掴むと、皇帝には一瞥もくれず踵を返した。
堂々とした足取りで向かう先は――アナイスの元。
ゆっくりと、確実に近付いてくるその姿に、アナイスの胸を嫌な予感がよぎる。
(……やっぱり)
引き攣りそうになる口元を、どうにか微笑みの形に整えながら、心の中で小さく息を吐いた。
やがて目の前に立ったセルディアンは、恭しい所作で跪く。
ざわり、と場の空気が揺れた。
視線が絡むほんの一瞬、彼はにやりと笑う。
だが次の瞬間には、完璧に整えられた貴公子の表情。
「栄誉あるこの証を――愛する君に」
低く甘い声音とともに、黄金の冠が差し出されれば、その光景に令嬢たちから感嘆の溜息が零れた。
「まあ……なんてロマンチック……!」
「お二人が愛し合っているって噂、本当だったのね」
「栄誉を贈られるなんて……羨ましいわ!」
羨望と熱を帯びた視線が、一斉にアナイスへと注がれる。
全身に突き刺さるような眼差し。
「あ、ありがとうございます」
かろうじてそう答え、アナイスは黄金の冠を受け取った、その瞬間セルディアンは素早く立ち上がり、すっと耳元へ顔を寄せる。
「……君からの褒美はないのか?」
低く囁かれた声。
愉快そうに細められた双眸。
そっと周囲を見渡せば、令嬢たちは期待に目を輝かせている。
再びセルディアンへ視線を戻せば、そこには明らかな誂いの色。
アナイスは小さく息を吐くと覚悟を決めるように一度、目を閉じた。
彼の首へ腕を回すと、セルディアンの唇が満足げに緩む。
だが、次の瞬間ーー
アナイスは背伸びをし、そっとその頬へ口づけを落とした。
ほんの一瞬。
掠めただけの感触に、セルディアンの動きが止まる。
余裕に細められていた双眸が、わずかに見開かれた。
予想していなかった、と雄弁に物語るその表情。
その刹那――
周囲の喧騒が遠のいた。
風の音も、衣擦れの音も。
すべてが消えたかのように静まり返る。
あるのは、絡み合う視線と、近すぎる吐息だけ。
まるで、この場にいるのが二人だけであるかのような錯覚。
「まあっ……!」
次の瞬間、甲高い歓声が空気を裂いた。
弾けるようなざわめきがその場を満たし、世界が一気に音を取り戻す。
互いに我に返ったように、二人はそっと身を離した。
離れる瞬間――
セルディアンは自らの頬に指先を添える。
まるで、そこに残る温もりを確かめるかのように。
一方、アナイスは自らの大胆な行動に耐えきれず、とうとう俯いてしまう。
赤く染まる項。
無防備に晒されたその白い肌に、セルディアンの視線が落ちた。
次の瞬間、彼はアナイスの腰に手を回し、引き寄せる。
自分以外の視線から、隠すように。
そして、ゆっくりと皇帝へ視線を向け、口元を引き上げた。
「優勝の褒美として――我々の結婚の許しを頂きたいのだが」
ざわり、と空気が揺れる。
牽制の色を帯びた視線と、押し返すような視線が絡み合う。
周囲を包むざわめきは、もはや止まらない。
その多くが二人を祝福する声。
皇帝の脳裏に過ぎる、“北の狼”に力を与えてよいのかという、見えないしがらみ。
その狭間で、皇帝の瞳が揺れた。
しかし、目の前に広がる熱狂を退けるだけの威厳も、この場で拒絶するだけの胆力も――
今の皇帝には、なかった。
「……勿論だ」
絞り出すようなその宣言。
セルディアンの瞳が、鋭く光る。
「結婚式には、是非ご参列を」
勝ち誇った笑み。
そして、アナイスを軽々と抱き上げると、颯爽とその場を後にした。
残された者たちは、興奮冷めやらぬまま囁き合う。
自分のもとに招待状は届くのか。
どれほど盛大な式になるのか。
その話題ばかりで――
皇帝へと視線を向ける者は、ただの一人もいなかった。




