61話
「令嬢、私から離れるなよ」
低く落ち着いた声が、冬の森に溶ける。
「……はい」
真っ直ぐ前を見据えるセルディアンに、アナイスは強く頷いた。
三日前。
皇室から届いた一通の勅書が、屋敷の空気を一変させた。
――ルヴァルティエ公爵領にて、狩猟大会を執り行う。
形式上こそ穏やかな文面だが、実質的には呼び出しに等しい。
これまで一度も参加してこなかったセルディアンを、暗に引きずり出すための催し。
内容を読み上げたカリスの声がわずかに低くなり、隣で聞いていたアナイスの胸にも緊張が走った。
だが、当の本人は違った。
「……丁度いい」
そう呟き、薄く笑う。
その瞳は、どこか企みを秘めて光っていた。
そして現在。
風が木々を鳴らし、雪をまとった森が静かに息づいている。
白銀の世界の中、セルディアンは黒の狩装に身を包み、猟銃を背に立っていた。
凍てつく空気すら従わせるような存在感。
アナイスは、そっと彼を見遣る。
「君も、なかなか様になっている」
前を向いたまま、わずかに口元を上げる。
その横顔に、アナイスは慌てて視線を逸らした。
(……本当に、狼のようだわ)
内心で苦笑がこぼれる。
研ぎ澄まされた気配。
こっそり見ているつもりでも、こうして必ず気づかれてしまう。
それはまるで、森を統べる獣のようだった。
それでもアナイスは、彼を見つめる事を止めることはできなかった。
「今のところ、穏やかですね」
周囲を見渡しながらアナイスが言うと、セルディアンは小さく肩を竦める。
「ルヴァルティエ領で迂闊に手を出す愚か者はいないさ」
その声音には、揺るぎない自負が滲んでいた。
「それも、そうですね……」
森は静まり返っている。
だが、本当に静かなのは表面だけだ。
姿こそ見えないが、この森にはルヴァルティエ家の騎士達――黒狼騎士団が潜んでいる。
雪を踏む音ひとつ、枝の揺れひとつ、見逃さない。
不穏な動きを見せれば、その瞬間に牙を剥く。
それは比喩ではなく、紛れもない事実だった。
「大方、こちらの様子を伺いたいのだろう」
セルディアンの視線が森の奥へ向けられる。
フクロウの目からもたらされた情報により、多くの貴族が捕らえられた。
後ろ暗い者。
その甘い汁を啜っていた者。
今や誰もが、ルヴァルティエの動向に神経を尖らせている。
――もちろん、皇室も。
やがてセルディアンは、ゆっくりとアナイスへ視線を移した。
陽光を受け、ひとつにまとめられた銀の髪が静かに煌めく。
その横顔を見つめながら、低く告げる。
「君の正体も、な」
意味深な視線が向けられた、その瞬間。
鋭いラッパの音が森を切り裂いた。
――皇族到着の合図。
凍てついた空気が震え、雪をまとった枝がかすかに揺れる。
やがて音が途切れると、セルディアンはゆっくりと口角を上げた。
まるで、この時を待っていたかのように。
「では、行こうか。“愛しの”婚約者殿」
芝居がかった仕草で差し出された手。
アナイスは一瞬だけ彼を見つめ、そっと自分の手を重ねる。
触れた指先から伝わる、確かな温もり。
不思議と胸の奥のざわめきが静まっていく。
アナイスは小さく息を吐いた。
白い吐息が、ゆっくりと冬空へ溶けていった。




