60話
「でも、少し複雑です」
アナイスはそっとソファに身を預け、詰めていた息を吐き出すように呟いた。
「カースヴェルは……ノエラン様の、お祖父様にあたる方ですよね」
カースヴェルは、ノエランの母・マリエンの生家。
彼らの所業は決して許されるものではない。
そんな者の手にノエランが渡るなど、考えただけで胸が痛む。
けれど――
心優しいノエランが、
血の繋がった者の断罪を知ったなら。
その小さな胸は、どれほど傷つくだろう。
そう思うと、アナイスの胸に切なさが静かに広がった。
「一度……」
セルディアンが、静かに口を開く。
「カースヴェルにいたほうが、ノエランのためになると考えたことがある」
「え?」
思わず、アナイスは声を漏らした。
「以前から、後ろ暗いところのある男だったが……それでも、血腥い俺の傍にいるよりはましだと思った。……それに」
言葉を切り、セルディアンは薄く笑う。
自嘲の滲む、乾いた笑みだった。
「いい父親ではない自覚はあったからな」
「だが……」
視線を落とし、自らの手を見つめながら、セルディアンはぽつりぽつりと語り始めた。
――在りし日のことを。
ノエランが生まれた日。
『セルディアン、ほら』
兄ダリアンはそう言って、半ば無理やり赤子を腕の中へ押しつけてきた。
初めて抱く赤ん坊。
ほんの少しでも力を込めれば壊れてしまいそうな、あまりにも小さく、か弱い存在。
どう扱えばいいのか分からず固まっていると、その様子を見てダリアンとマリエンが声を上げて笑った。
その笑い声に応えるように、ノエランはセルディアンをじっと見つめ――
まるで笑うように、目を細めた。
その瞬間、胸の奥に熱が灯った。
不器用な自分を何も言わず受け入れてくれる兄夫婦。
そして、ただ純粋で、無垢そのものの存在。
この小さな命を、自分の人生を懸けて守る。
そう、確かに誓ったのだ。
「……その誓いが、ノエランを手放すことを許さなかった」
――兄夫妻を守ることが叶わなかったから、なおさら。
それなのに、どう接していいか分からず、中途半端に突き放す自分の身勝手さ。
カースヴェルの悪事を前に、ノエランを渡そうなどと思うことはなくなった。
それでもなお、自分の傍に置いていいのかという迷いだけは、消えずに残っていた。
話し終え、遠くを見つめるセルディアンの瞳に、深い悲しみが揺れる。
「白い……アイリス」
ノエランが生まれた日、セルディアンが贈ったという花。
今も温室の片隅で、静かに花びらを揺らしている。
その花言葉は――
“あなたを大切にします”
アナイスの小さな呟きに、セルディアンが視線を向けた。
目が合う。
アナイスは、ふわりと微笑む。
「それで、いいんです」
そっと、彼の手を握った。
「ちゃんと……守られていますよ」
その言葉と、掌から伝わる温もりに、セルディアンは胸の奥にわだかまっていた迷いが、静かに溶けていくのを感じた。
「それにしても……」
アナイスは、覗き込むようにセルディアンを見上げた。
「公爵様が花言葉に詳しいとは思いませんでした」
意外そうに笑う彼女に、セルディアンは片眉を上げる。
「詳しいわけではない」
覚えている花言葉は――ひとつだけだ。
そして、その理由は。
目の前のアナイスを見つめた瞬間、
かつて出会った少女の面影が、ふと重なった。
不思議そうに首を傾げる彼女の額を、セルディアンは無言で指先で弾く。
「な、何故?!」
突然の衝撃に額を押さえ、アナイスは目を瞬かせた。
「思い出すかと思ったんだが」
ぼそりと呟き、もう一度弾こうと手を構える。
「や、やめてください!」
慌ててその手を両手で押さえ、必死にしがみつくアナイス。
眉を八の字にして抗議する姿に、セルディアンは堪えきれず声を上げて笑った。
重く澱んでいた空気が、ふっと和らぐ。
部屋には、やわらかな笑い声が静かに広がっていった。




