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フクロウ令嬢と狼公爵  作者: おはよう


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6話


ノックもなく、ガチャリと応接間の扉が開いた。

突然の音にアナイスの肩がぴくりと跳ねる。

慌てて立ち上がり、深くお辞儀をした。


「お初にお目にかかります。アナイス・セリオンと申します」


「……君が、セリオン家の令嬢か」


低く心地よいバリトンの声。

その一言で、アナイスの胸がトクンと音を立てた。


そこに立っていたのは、黒金の装いを纏い、空気ごと支配するような男だった。

漆黒の髪が月明かりを受けて輝き、鋭い真紅の瞳がこちらを見つめている。


お辞儀をしている頭に突き刺さるような視線を感じながら、アナイスは口を開く。


「突然お伺いいたしました無礼を、お許しください」


そう言ってゆっくりと身を起こし、アナイスは彼を見た。


(この人が、帝国で最も強い“黒狼”――セルディアン・ルヴァルティエ公爵)


その鋭い眼光に怯みそうになるが、アナイスは足に力を入れ、背筋を伸ばし、まっすぐに彼の瞳を見つめ返した。


その視線を受けたセルディアンの口元が、ほんのわずかに緩む。

それに気づけるのは、幼少期から仕える執事のバルナールぐらいだろう。


視線で座るように目配せをするセルディアンに、小さくお辞儀をしてアナイスは再びソファへ身を預ける。

セルディアンは向かい合うソファにゆっくりと腰を下ろし、足を組んだ。


その仕草はまるで、堂々と座す大きな狼のようであり――

あるいは、すべての生物の上に君臨する百獣の王の姿にも見えた。


セルディアンの威厳ある姿に、アナイスはコクリと小さく息を呑む。


「ルヴァルティエ公爵様に、お願いがあって参りました」



………


セルディアンは表情を変えぬまま、静かにアナイスを見つめていた。

その紅の瞳は、「続きを話せ」と命じているようだった。


アナイスはその視線を正面から受け止め、胸の奥で小さく息を整える。


「十五年前……私の両親が亡くなった後、遠縁を名乗るドーラ家がやって来ました」


その声は震えていなかった。凛として、真っ直ぐに。


「彼らはセリオン家の名の下に領政を執り行っていますが……領地の民は苦しむ一方です。

税は重く、道は荒れ、街は沈んだまま。夢も希望も持てずに、生きることだけで精一杯の者ばかりになってしまいました」


セルディアンは何も言わず、ただその瞳で続きを促す。

その沈黙が、アナイスの決意をさらに研ぎ澄ましていくようだった。


アナイスは北へ向かう途中に見た光景を思い出す。

痩せた子どもが母の裾に縋り、荒れた畑を見つめていた。

そして、ろうそく売りのあの少女……。

笑い声の消えた市場、沈黙の広場――かつて豊かで誇り高かった故郷の姿は、もはや見る影もなかった。


膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、彼女は続けた。


「私は……セリオン家の名を取り戻したいのです。

領政を正し、セリオンの民が再び笑えるように。

希望を抱いて目覚める朝を、安心して眠りにつける夜を取り戻したいのです」


長い沈黙。

やがてセルディアンは、低く重い声で言った。


「君が当主になる際、ルヴァルティエ家が後ろ盾になれ……と?」


「はい」


アナイスは真っ直ぐに頷いた。

そして、静かに続ける。


「……ただ、当主になるのは私ではありません」


セルディアンの紅い瞳がわずかに細められる。

片眉を上げ、言葉を待つ。


「私には兄がおります。今は……他国におりますが、兄こそが正当なセリオン家の当主。

私はその帰還のため、どうか力をお貸しいただきたく参りました」


セルディアンは無言のまま、顎を指先で撫でながら思案する。

深紅の瞳がゆらめく炎のように光り、何を考えているのか、一切読み取れない。


どれほどの時間が流れたのか。

時計の針の音すら聞こえない静寂の中、アナイスはただその言葉を待ち続けた。


やがて、重い空気を切り裂くように、低い声が響く。


「――それで? 君は、何を差し出す?」


その瞳には挑むような光が宿っていた。

まるでアナイスの“覚悟”を見定めるかのように。


アナイスは小さく息を吸い込み、胸を張る。


「全てを……と言いたいところですが、セリオン家の主権をお渡しすることはできません。

ただ――」


そう言うと、彼女は胸元から一つのペンダントを取り外し、静かにテーブルの上へ置いた。

銀の鎖の先に輝くのは、セリオン家の紋章――白馬が刻まれた銀の飾り。

燭台の光を受けて、その馬の姿が鈍く光る。


「セリオン家は、ルヴァルティエ公爵家の剣となり、盾となりましょう」


その言葉に、セルディアンの唇がわずかに歪む。

それは笑いとも、嘲りともつかぬ、冷たい微笑だった。


「セリオン家の“白馬”か……。

今は忠義を捨て、逃げ隠れていると聞くが?」


アナイスの表情が一瞬だけ曇る。

唇を噛みしめ、視線を落とした。


――十五年前。

両親は死の直前、兄を騎士団と共に他国へ逃がした。

迫る不穏を察し、未来への希望を託したのだ。

だが世間はその真意を知らず、「誇り高きセリオンの馬は、尻尾を巻いて逃げた臆病者」と嘲った。


アナイスはぐっと目を閉じ、そして紅の瞳を真正面から見返した。


「いいえ。セリオンの気高き馬たちは、誰よりも高い誇りと志を持って――凱旋門をくぐりましょう」


その瞳には一点の迷いもない。

堂々とした姿勢と、言葉に宿る気迫に、セルディアンはわずかに目を細めた。


――まるで、かつてのセリオン家騎士団。

民に忠誠を誓い、民のために剣を振るった


“光馬騎士団”――

Orden des Lichtrosses。


目の前の令嬢は、まさにその名の象徴のように、静かに、気高くそこに座していた。


………


アナイスの姿を見るセルディアンは、ゆるやかに足を組み替えた。


「なるほど。令嬢の信念は分かったが……悪いが私は、自分の目で見えることしか信じないようにしていてね」


アナイスは少し笑みを浮かべる。


「ええ、そうでしょうね。ルヴァルティエ公爵様に“お会いしたい”人間は、きっとたくさんいるでしょうから」


ただひたむきな令嬢だと思っていた彼女の、意外な一面にセルディアンの眉がわずかに上がった。


「セリオン家からは剣と盾を。そして私からはこれを」


アナイスはそう言うと、鞄からひとつの蝋封印を取り出し、テーブルの上に置く。

封印には梟の刻印が刻まれていた。


セルディアンが目を細める。


「これは?」


アナイスは笑顔を崩さずに答えた。


「梟の目。……帝国を、大陸を、世界を見通す“目”の証です」


その言葉を聞いた瞬間、これまで沈黙を保っていたカリスが、はっと息を呑む音が響いた。


セルディアンは紅の瞳に力を込め、薄く笑う。


「情報ギルド《フクロウの目》、だと? まさか君が、そのギルドのマスターとでも言うのか?」


アナイスは静かに頷く。


「はい」


その瞳には揺るぎない自信が宿っており、嘘や虚勢の影は一切見えなかった。


「ふむ…。君がそのギルドのマスターだとして…我が家の“目”もなかなか視力がいいんだが?」


セルディアンは暗に“不要だ”と言わんばかりの、挑むような眼差しを向ける。


アナイスは穏やかに微笑んだ。


「ええ、存じております。……公爵様はご存じですか? 帝国の国庫にどれだけ金が眠っているかより、ルヴァルティエ公爵家の朝食に何が並ぶのかを知る方が、ずっと難しいんです」


セルディアンの瞳が探るように細められる。


「何が言いたい?」


「世界中の多くの人々が求めるのは、ルヴァルティエ家の情報です。……朝食ですら、知ることは難しいですが」


セルディアンは小さく息を吐き、「……褒め言葉として取っておこう」と返す。


アナイスはすぐに続けた。


「そして、最も警戒されるのもルヴァルティエの名だということです」


セルディアンは軽く指先で顎を撫でる。


「フクロウの目は、警戒されないと?」


「ええ。フクロウの目に、命を奪う力はありませんから」


セルディアンはふと、これまで屋敷に侵入した多くの間者たちを思い出す。

誰ひとりとして、自らの足で屋敷を出た者はいなかった。


指先で顎を軽く撫で、しばし思案する。

その様子を見て、アナイスはふと心の中でつぶやく。


(この方は何かを考えるとき、顎をなでるのがくせなのね。)


やがてセルディアンは口を開いた。


「先ほども言ったが、私は目に見えないものは信じない。……君の話を信じる根拠を提示してもらいたい」


アナイスはくすりと笑い、言った。


「分かりました。では、過去三か月以内にルヴァルティエ家に雇われた者が、夜毎どこへ出向いているのか――お調べください」


「その者が誰で、何があるのかは言わないのか?」


「はい。だって公爵様は“自分の目で見たもの"しか信じないのでしょう?」


イタズラっぽく笑うアナイスに、セルディアンも思わず口の端を上げる。


「ふん。……カリス、早急に調べろ」


「かしこまりました」


カリスが静かに頭を下げる。


セルディアンは話が終わったとばかりに立ち上がり、部屋のドアへと向かった。


「君の謎掛けに答えが出た際、また話すとしよう。それまで屋敷で過ごすといい」


つまみ出されると思っていたアナイスは、一瞬きょとんとした後、慌てて立ち上がる。


「あ、ありがとうございます! 公爵様のお心遣いに感謝いたします!」


その声にセルディアンは答えず、扉の外で控えていた執事に声をかける。


「……バルナール。もう部屋は用意してあるんだろう?」


「ほっほ。旦那様は何でもお見通しでございますね」


楽しげに笑う老執事に、セルディアンは軽く手を上げて返すと、静かに廊下へと去っていった。


その背を見送りながら、バルナールはふと口元を緩める。

いつになく楽しげな主の表情に、彼は小さく笑みを深めた。

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