58話
「ほら」
セルディアンに差し出されたグラスを受け取り、アナイスは思わず中身を覗き込んだ。
薄桃色の液体。
その中で小さな泡が、静かに弾けている。
「これは……?」
問いかけるように視線を向けると、セルディアンは肩を竦めた。
「これよりは、君向けだ」
そう言って、自分の手にしたグラスを軽く揺らす。
琥珀色の酒が、灯りを受けて揺らめいた。
アナイスは再び、自分のグラスへ目を落とす。
「お、お酒ですね……!」
その瞳に浮かぶのは、好奇心。
それを見て、セルディアンは気づかれぬよう、そっと口元を緩めた。
アナイスはグラスを両手で包み込むように持ち、そっと口をつける。
少量を含めば、甘い泡が舌先をくすぐった。
続いて、熟れた桃の香りがふわりと鼻を抜ける。
「……美味しい」
思わず零れたその一言に、セルディアンは、用意を任せたバルナールの働きを内心で称えつつ、満足げに目元を和らげた。
「気に入ったのなら、よかった」
「ふふふ」
アナイスは楽しそうに笑い、グラスを掲げる。
室内の灯りを受けて、薄桃色の液体がきらきらと輝いた。
「公爵様。私、お酒が飲めるようになっちゃいました」
誇らしげにそう告げる姿に、セルディアンは思わず口を挟む。
「……過保護な父親には言うなよ」
アナイスが酒を口にしたと知れば、ウィルが黙っているはずがない。
こちらを睨みつける彼の顔が脳裏に浮かび、セルディアンは苦笑を漏らした。
「じゃあ、公爵様と私の――二人だけの秘密ですね」
無邪気に笑うその言葉に、
“バルナールも知っている”などという無粋な指摘は、する気になれなかった。
なにより――
“二人だけ”という響きが、ひどく心地よかったのだ。
「……聞かせてください」
暫く酒の味を楽しんだ後、アナイスはそう口を開くと、手にしていたグラスをそっとテーブルへ置いた。
「……何を?」
セルディアンにも、彼女が何を指しているのかは分かっている。
それでも気付かぬふりをして、グラスを傾けた。
アナイスは立ち上がり、迷いなく彼の隣へ腰を下ろすと、一瞬躊躇った後、そっとセルディアンの手を包み込む。
「令嬢……」
触れた瞬間、セルディアンの身体が逃げるように強張る。
だが、振り払うことはしなかった。
「……公爵様の背負っているもの、少しだけ分けてください」
アナイスは、握ったその手に視線を落とす。
骨張った手の甲。
その一部が、わずかに赤く染まっている。
その意味を、アナイスは理解していた。
そっと、赤みを帯びた箇所を指先でなぞると、セルディアンの身体が小さく揺れる。
それでも、アナイスは指を止めなかった。
まるで、目に見えない傷を癒そうとするかのように。
「一人で抱えるには……冷たすぎますから」
そう言って視線を上げると、セルディアンは痛みを堪えるように眉根を寄せていた。
アナイスは、そっと表情を和らげる。
「私たち、夫婦になるのでしょう?」
「……期限付き、ですけど」
付け加えた瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
笑顔が崩れそうになり、アナイスは慌てて視線を落とす。
その手を――
今度はセルディアンが、そっと指の腹で撫でた。
「気分の良い話ではないぞ」
低く落ちたその声に、アナイスは顔を上げる。
真っ直ぐに向けられた視線と、ぶつかった。
それは、覚悟を問う眼差し。
アナイスは目を逸らさず、小さく――頷いた。




