56話
「す、すみません……!」
静かに抱き合ってから、どれほどの時間が経っただろうか。
急に恥ずかしさが込み上げ、アナイスは慌ててセルディアンから離れた。
しかしその瞬間、馬車が大きく揺れ、バランスを崩したアナイスは、再びセルディアンの腕の中へと舞い戻ってしまう。
「まったく……」
呆れた声に、そろそろと視線を上げると、セルディアンは困ったような顔をしていた。
けれど、その眼差しはどこか柔らかい。
セルディアンはアナイスに手を回し、そっと隣に座らせた。
「屋敷に着くまで、大人しくしておけ」
「……はい」
恥ずかしそうに俯くアナイスの姿に、セルディアンは密かに口元を緩めたのだった。
暫くして、馬車は静かに停車した。
先に降りたセルディアンが手を差し出すと、アナイスはその手を取り、ゆっくりと地に足をつける。
屋敷の方へ目を向ければ、そこにはカリスの姿があった。
セルディアンと視線が合うと、カリスは静かに頷く。
その表情から、頼まれていた仕事が果たされたことを悟り、セルディアンはアナイスへと視線を戻した。
アナイスもまた、静かにカリスを見つめている。
「今日は、ゆっくり休め」
その声に振り向いたアナイスは、眉を下げて微笑んだ。
「……はい」
その視線と声音に込められた、セルディアンへの気遣い。
こうして真正面から心配されることなど、
もう久しく、向けられることのないものだった。
胸に灯る温もりに、セルディアンは内心で苦笑しながら、アナイスと別れ、カリスのもとへと向かっていった。
アナイスはその場を動かず、遠ざかっていくセルディアンの背を見送っていた。
カリスの表情を見れば、恐らく例の“医師”は見つかったのだろう。
屋敷とは逆の方向へ進んでいく姿から、これから対峙するのだと察する。
そこで行われることが、決して穏やかなものではないのは明らかだった。
そう思うと胸が締めつけられ、アナイスは無意識に自分の胸元を押さえていた。
『綺麗なものだけを見ていてほしい』
出掛け際に掛けられたウィルの言葉が蘇り、アナイスはひとり、苦笑を漏らす。
こうしてセルディアンの背を見送っていると、ウィルの気持ちが少し分かる気がした。
『今さら、でしょう?』
ウォルに応えた自分の声が、耳の奥でこだまする。
過去も、果たすべきことも、変えることはできない。
だからこそ。
セルディアンも、アナイスも、それぞれの責任と覚悟を胸に、前へ進むしかないのだった。




