55話
流れる外の景色を、アナイスは呆然と眺めていた。
セルディアンに支えられ、馬車に乗り込んでからも、言葉を発することができなかった。
それほどまでに、フォルテ男爵家で目の当たりにした出来事は、彼女にとって衝撃的だったのだ。
「令嬢」
どれほどの時間、馬車に揺られていただろうか。
セルディアンが、静かにアナイスへ声をかけた。
ゆっくりと彼へ視線を向ける。
その瞳は、まだ現実に追いつけていないように揺れていた。
「人の悪意を、受け止めすぎるな」
「……私、は……」
真っ直ぐに向けられたセルディアンの視線に、アナイスの瞳は迷子のように彷徨う。
けれど、彼女は一度、ぎゅっと目を閉じ——そして、ゆっくりと開いた。
「私……すべてを、知っているつもりでいました」
セルディアンは何も言わず、ただ耳を傾ける。
「フクロウの目で多くの情報を得て、人の悪意も、理解したつもりでいて……でも」
アナイスは、膝の上に置いた両手を、強く握りしめた。
「“つもり”は、所詮“つもり”でしかなくて。物語を読むみたいに、どこか別世界の出来事のように見ていたんだと……今日、思い知らされました」
脳裏に浮かぶのは、先ほど目にしたミランダ嬢の姿。
薬を求めて上げられた、掠れた叫び声。
その場に漂っていた匂いと、肌にまとわりつく空気の重さ。
それらは、決して物語ではなかった。
別世界の出来事でもない。
紛れもない、“現実”だった。
何も分かっていなかったのに、分かった気でいた自分。
その事実に、アナイスはどうしようもなく腹が立った。
ふとすれば涙が零れ落ちそうになる。
彼女はぐっと目に力を込めた。
——泣いてはいけない。
——こんなことで感情を乱される、弱い自分であってはいけない。
そう言い聞かせるように。
「それでいい」
「え?」
セルディアンの静かな呟きに、アナイスは俯いていた視線を上げた。
「泣きたいなら、泣けばいい」
セルディアンの視線は、流れる車窓へと向けられている。
「俺は、初めて人を刺した夜、眠れなかった。……今でも、相手の顔を忘れていない」
アナイスは、遠い過去を見つめるようなセルディアンの横顔から、目を離せずにいた。
その視線に気づいたセルディアンは、ふっとアナイスに目を向け、表情を和らげる。
「“冷酷無慈悲”なんて呼ばれているが、最初からそうだったわけじゃない」
そう言って、肩を竦めるように小さく笑った。
帝国最強と呼ばれ、血塗られた狼と恐れられる彼の、柔らかい部分に触れた気がして、アナイスの胸はきゅっと締め付けられた。
彼は、これまでどれほどの悪意を目にしてきたのだろう。
どれほど、胸を痛めてきたのだろう。
――そして。
そんな彼を慰める存在は、今までいたのだろうか。
『それでいい』と言ってくれる存在が。
アナイスは、揺れる馬車の中でそっと立ち上がると、衝動のままセルディアンを抱きしめた。
セルディアンの過去の傷を抱きしめるように。
そして、自分自身の傷をも抱きしめるように。
驚きに固まったセルディアンは、しばらくそのままでいたが、やがて静かに、アナイスの背中に腕を回す。
そっと撫でられるその手つきは、あまりにも優しく、温かくて。
アナイスの瞳から、一粒の涙が静かに零れ落ちたのだった。




