53話
屋敷内を練り歩くセルディアンに、フォンテ男爵は抵抗を諦めたのか、弱々しく応接間へと案内した。
アナイスとセルディアンが並んで席に着くと、男爵と同じく窶れた顔をした女性が、お茶を運んでくる。
その手は、はっきりと震えていた。
テーブルに茶器を並べ終えると、彼女は男爵の隣に腰を下ろす。
その様子を見て、アナイスは内心で、この女性が男爵夫人なのだと確信した。
「そ、それで……」
視線を彷徨わせながら男爵が口を開くと、セルディアンは見せつけるように足を組み替えた。
その僅かな動作ひとつで、男爵夫妻の身体がびくりと震える。
後ろ暗いものがあると、自ら語っているような反応だった。
「レサルギア」
例の薬の名をセルディアンが口にした瞬間、夫妻は一層大きく身体を強張らせた。
「あるんだろう。手元に」
確信を込めた問いかけに、男爵は目を泳がせるばかりで答えない。
「な、何のことだか……」
否定の言葉を絞り出す男爵。
――彼は、何をそこまで恐れているのか。
「我々が、何も知らないとでも思っているのか?」
詰め寄るセルディアンに、男爵は完全に口を閉ざした。
重苦しい沈黙が落ちる。
セルディアンが苛立ちを見せ始めた、その時――
上階から、何かが倒れる大きな音が鳴り響いた。
驚いて視線を向けると、夫人は怯えたように肩をすくめ、男爵は疲れ切った表情で顔を歪める。
セルディアンとアナイスの存在を意識し、その場に留まっていた二人だったが、音がさらに激しくなると、堪えきれず立ち上がり、上階へと駆け出した。
それを追おうと席を立ったアナイスの前で、セルディアンが制するように手を上げる。
「令嬢は、来ないほうがいい」
その瞳に浮かぶ気遣いの色に、アナイスは静かに首を振った。
「……覚悟を決めて、ついてきたんです」
そう告げると、セルディアンは何も言わず、上階へと足を向けた。
階段を上ると、大きく開かれた一室から、甲高い叫び声が響いてくる。
部屋の前に辿り着き、中を覗き込んだ瞬間、アナイスは思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、ミランダ令嬢――そう思われる人物だった。
髪は抜け落ち、瞳は白く濁っている。
口の端から泡を吹き、意味を成さない言葉を叫び続けていた。
痩せ細った彼女の腕に、男爵夫妻が縋りつくように取りすがる。
その光景はあまりにも痛ましく、目を逸らしたくなる。
それでもアナイスは、自ら選んだ責任を思い出し、その姿を目に焼き付けた。
暴れ続けるミランダ嬢に、男爵は懐から小袋を取り出すと、彼女はそれを奪い取るように引き寄せ、中身を口に含んだ。
程なくして、ミランダ嬢の全身から力が抜ける。
――抜けた、という表現のほうが、正しいかもしれない。
見開かれていた瞳は虚ろになり、叫び続けていた口元は力なく開いたままだ。
夫人はそっと娘の肩を支え、優しくベッドへと寝かせる。
その姿は、どんな姿になっても娘を想う、母親そのものだった。
「話を聞かせてもらうぞ」
セルディアンはそう言い残し、アナイスを伴って応接間へと引き返した。
その道中、無言のまま歩くアナイスの唇に、セルディアンがそっと指を伸ばす。
「噛むな。……血が出ている」
その言葉で我に返ったアナイスは、口内に広がる鉄の味に気づいた。
無意識のうちに、唇を強く噛み締めていたのだ。
湧き上がる怒りを、アナイスは抑えきれなかった。
金儲けのためだけに、人の命や尊厳を踏みにじる行為が、どうしても許せなかった。
再び唇を噛もうとした、その瞬間――
セルディアンは自分の指を、そっとアナイスの唇に押し当てた。
「噛むなら、これでも噛んでおけ。……怒りで自分を傷つけるな」
驚いて見上げると、セルディアンは真剣な眼差しで彼女を見つめていた。
その低い囁きに、アナイスは思う。
彼もまた、人の悪意に怒り、同じように自分を傷つけたことがあるのだろう、と。
そんな確信めいた思いが、胸の奥に静かに浮かび上がったのだった。




