47話
音楽の終わりとともに、アナイスとセルディアンの足も静かに止まった。
互いに一歩下がり、礼を交わす。
そして顔を見合わせ、自然と微笑み合った。
そっとセルディアンが近づき、アナイスへ手を伸ばそうとした――そのとき。
「おやおや、お邪魔してしまったかな?」
声に振り向くと、テラスの入口にマディラー伯爵が立っていた。
その姿を認めると、アナイスはすっと背筋を伸ばし、丁寧に礼を取る。
「マディラー伯爵。先ほどは、お騒がせいたしました」
その所作に、伯爵は目尻の皺を深めた。
侯爵家の人間としての品位を保ちつつ、へりくだりすぎることなく、それでも自身の行いへの謝意は確かに伝わる。
「ほっほっほっ。構いませんとも。久しぶりに、実に良いものが見られました」
嬉しそうに笑う伯爵に、セルディアンが口を挟む。
「修繕費は、ルヴァルティエ家に請求してくれ」
その言葉に、伯爵は慌てたように両手を振った。
「何をおっしゃる!そんな勿体ないことはいたしませんよ」
そんな様子に、セルディアンはちらりとアナイスを見る。
「言った通りだろ?」
どうやら床の傷一つで、一儲けする算段を立てたらしい。
赤らんだ伯爵の顔に、アナイスは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「実は、アナイス様にお礼を申し上げたくて参ったのです」
「お礼、ですか?」
思わず問い返すアナイスに、伯爵は静かに頷く。
一瞬、商いの件かと思ったが、向けられた眼差しは驚くほど真剣だった。
「ほっほっほっ。皆が蔑ろにしていた貴族の在り方を、思い出させてくれた――未来の公爵夫人へ、です」
思いもよらぬ言葉に、アナイスは目を見開く。
そして、素早くセルディアンと視線を交わした。
多くの商団を束ねるマディラー伯爵。
噂や裏事情にも通じていて不思議ではない。
二人は小さく頷き合う。
互いの意思が、確かに通じたのを感じた。
「伯爵。礼と言うのなら、一つ、話を聞かせてもらいたい」
セルディアンは目を細め、にやりと笑う。
その表情を見て、伯爵は肩をすくめる。
「……どうやら、話が長くなりそうですな」
そう言って笑い、二人を邸内の応接室へと案内した。
応接室に通されると、すぐに茶の支度が整えられた。
席に着いた伯爵は、にこやかな表情で口を開く。
「して、聞きたいこととは?」
セルディアンは静かに告げた。
「ベルベ商会という名に、聞き覚えはあるか?」
――ベルベ商会。
その名を聞いた瞬間、マディラー伯爵の目の色が変わった。
「私は金になる話に目がない性分ですが……それでも、私なりの矜持を持って商いをしているつもりです」
「ほう?」
「商人には、商人なりの掟がある。……それを蔑ろにされるのは、実に面白くありませんな」
アナイスは、思わず息を呑んだ。
先ほどまでの好々爺然とした姿からは想像もできない、商人としての顔。
多くの商団を束ねるだけの実力と覚悟が、そこにはあった。
伯爵は歓迎するように両手を広げる。
「私の知ることでしたら、何でもお話ししましょう」
その言葉に、セルディアンは満足そうに笑った。
セルディアンとアナイスは、ミランダ・フォンテ男爵令嬢の行方を追っていることを伝えた。
カースヴェルや帳簿の件には触れずに。
話を聞いた伯爵は、しばし考え込むような仕草を見せた後、呼び鈴を鳴らす。
ほどなくして現れた使用人に何事かを耳打ちし、部屋を下がらせた。
一つ咳払いをしてから、伯爵は口を開く。
「フォンテ男爵夫妻は、二年前から社交の場に姿を見せておりませんが……男爵夫人に至っては、領地内でも姿を見た者がいないことは、ご存じですかな?」
「姿を……見ない?」
不穏な言葉に、セルディアンは眉間に皺を寄せる。
「ええ」
静かな肯定が、部屋の空気を重くした。
「男爵家と取引している商団はいくつかありますが……ある時を境に、女性用の品々の注文が、ぱたりと止まりました」
「……もしかして、夫人は家にも居ない……と?」
アナイスは、無意識に握りしめていた手に力を込めた。
「ええ。……しかし」
マディラー伯爵が言葉を区切った、その時だった。
先ほど退室した使用人が、静かに戻ってくる。
手にしているのは、紙の束。
「おお、良いタイミングだ」
嬉しそうに笑った伯爵は、受け取った帳簿をテーブルの上に広げた。
それは、フォンテ男爵家と取引している商団の帳簿だった。
伯爵は胸ポケットから眼鏡を取り出し、鼻に掛けると、細めた視線を走らせる。
そして、一点でぴたりと止めた。
「今年の……おお、ここですな。六月をご覧ください」
セルディアンとアナイスが身を乗り出して覗き込む。
そこには、化粧品や香油など――明らかに女性が使用する品々の注文が記されていた。
「……夫人が戻ってきたか……それとも、他の女性?」
首を傾げながら、アナイスが呟く。
「いずれにせよ、調べてみる必要がありますね」
視線を向けると、セルディアンは足を組み替えながら頷いた。
「伯爵。助かった」
そう礼を述べるセルディアンに、伯爵は満足げに笑う。
「ほっほっほっ。お気に召されたなら良いのですがな」
「それにしても……私たちに見せてしまって、よろしかったのですか?」
実際に取引しているからこそ見える男爵家の動向。
しかし、商団の生命線とも言える帳簿を、こうも容易く見せたことに、アナイスは少し心配そうな視線を向ける。
「そうですなぁ……」
伯爵は顎に手を当て、少し考える素振りを見せた後、にやりと笑った。
「では、お二人の結婚式は、ぜひ我が商団にお任せいただければ」
その言葉に、セルディアンは苦笑いを漏らす。
「…後日、使いを送ろう」
「ほっほっほっ。ご満足いただける品を、存分に揃えさせましょう」
結婚式となれば必要な品は数知れず。
ましてや、公爵家の婚礼となれば、話題性も申し分ない。
思わぬ儲け話に頬を緩める伯爵を残し、アナイスとセルディアンは肩を並べて伯爵邸を後にする。
新たな手がかりを胸に、次なる調査へと思いを巡らせながら、二人は静かな帰路についたのだった。




