46話
いつの間にかアナイスの側へと寄り添っていたセルディアンが、そっと彼女の手を取った。
「汚いものに触れたな」
そう言って胸ポケットからハンカチを取り出すと、汚れを落とすように丁寧にアナイスの手を拭う。
そして使い終えたハンカチを、そのまま腰を抜かして座り込んでいる伯爵の薄い頭へと投げつけた。
それを合図に、凍り付いていた空気が解け、周囲にざわめきが戻る。
だが、アナイスの迫力に完全に気圧された伯爵は、ぴくりとも動かず、呆然としたままだった。
セルディアンはそんな様子など気にも留めず、アナイスの腰に手を回し、自然な仕草でエスコートする。
向かった先は、会場に備え付けられたテラスだった。
外へ出ると、それまで黙っていたアナイスが、突然頭を抱えてしゃがみ込む。
その姿を、セルディアンは実に楽しそうに見下ろす。
「公爵様……どうしましょう」
「何か問題でもあったか?」
笑いを堪えるように問いかけたその腕を、アナイスは勢いよく立ち上がって掴んだ。
「問題、大ありです!わ、私……他所様のお宅の床を、傷付けてしまいました!」
予想外の告白に、セルディアンはついに耐えきれず、声を上げて笑った。
しかしアナイスは気にも留めず、自分の指を折りながら何かを数え始める。
「すごく豪華な絨毯でしたし……屋敷もとても立派でしたし……いったい修理代はいくらかかるんでしょう……」
次第に涙目になっていくアナイスの手を、セルディアンがそっと握る。
――数える必要はない、とでも言うように。
「安心しろ。君の夫となる男は、この屋敷を丸ごと買い替えても釣りが来るくらい稼いでいる」
その言葉に、アナイスは顔を上げたものの、不安げな表情は消えない。
セルディアンは、そんな彼女の額を指で軽く突いた。
「それに、商魂たくましいあの爺だ。見物料でも取って、新たな商売にするさ」
そう笑うセルディアンに、確かにそうかもしれないと思い、アナイスの肩から少しだけ力が抜けた。
心配事が棚に上がると、今度は自分の取った行動そのものが恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
――感情が高ぶると、周りが見えなくなるのは誰に似たのか
「……穴があったら、入りたいです」
そう言って再び頭を抱えるアナイスの姿に、セルディアンは声を上げて笑った。
先ほどまで貴族を叱責していた凛然たる姿からは想像できない、動揺するアナイスの姿。
――この顔を知っているのは、自分だけだ。
そう思うと、胸の奥に小さな優越感が広がる。
セルディアンは、頭を抱えて唸るアナイスを横目に、一度会場へ戻ると、すぐに二つのグラスを手にして戻ってきた。
「ほら、これでも飲んで落ち着け」
差し出されたグラスを大人しく受け取り、ひと口含むと、爽やかなオレンジの香りが口いっぱいに広がった。
「……美味しいです」
そう言ってもう一口飲むアナイスを、セルディアンは満足そうに眺める。
やがて、ふと疑問を口にした。
「前から思っていたんだが……なぜ君は、いつも金の心配をする?」
何かを買い与えるたびに勘定を気にするアナイス。
何度、公爵家の財産目録を見せようとしたことか。
――もっとも、そのたびにバルナールに止められているが。
曰く、「財産を見せびらかす男は格好悪い」らしい。
「それに、“フクロウの目”のマスターなら、それなり以上の収入があるだろう?」
弱小ギルドとは違い、フクロウの目は大陸を股にかける一大組織だ。
先ほど騒いでいた男より稼ぎがあって当然である。
セルディアンの問いに、アナイスは否定するように首を振った。
「フクロウの代価は……情報なんです」
「情報?」
「はい。情報には、情報で返してもらう。それが、私たちのやり方です」
金銭を挟まず情報のみで取引することで、フクロウが得る知識は増え、時間もコストも大幅に削減される。
「なるほど……よく出来た仕組みだ」
感心するセルディアンに、アナイスは少しだけくすぐったい気持ちになる。
「手数料として、少し頂くこともありますが……
基本的に、いつでも赤字なんです」
そう肩を落として語るアナイスに、セルディアンは胸の内で静かに決めた。
――今後は、存分に贅沢をさせよう、と。
二人で言葉を交わしていると、舞踏会場の方からメヌエットの軽やかな調べが流れてきた。
あの後どうなったのかは分からない。
だが、口の上手いマディラー伯爵のことだ。
きっと巧みに場を収めたのだろうと、二人は目を合わせ、頷き合った。
セルディアンは芝居がかった仕草で、アナイスへと手を差し出す。
「ご令嬢。ダンスはいかがですか?」
その姿に、アナイスはくすりと笑みを浮かべ、そっと手を取る。
並んで室内へ戻ろうと歩き出した――そのとき。
アナイスは、重大なことに気付いた。
足を止めると、セルディアンが怪訝そうに声をかける。
「どうした?」
「……公爵様……大変です」
「……今度は何を壊した?」
からかうように笑うセルディアンに、アナイスは眉を八の字にして呟いた。
「……私……踊れません……」
「踊れない?」
「はい。舞踏会に参加するのは、今日が初めてですし……」
確かに。
彼女のこれまでを思えば、習う機会がなかったのも無理はない。
セルディアンは一度踵を返し、再びテラスへ戻る。
「ほら」
そう言って、改めて手を差し出した。
意図が分からず首を傾げながらも手を取ると、アナイスはぐっと引き寄せられる。
気付けば、セルディアンの腕の中に収まっていた。
「右手はここ。左は、こっちだ」
そう言いながら、セルディアンはアナイスの手を導く。
戸惑いながらも言われた通りにすると、彼は音楽に合わせて、静かにステップを踏み出した。
突然のことに驚き、思わずしがみつくアナイス。
だが、不思議と音楽に身を任せていられる感覚があり、次第に表情が和らいでいく。
「公爵様……私、踊れてます」
嬉しそうに言うアナイスに、セルディアンはわざと呆れた顔を作った。
「引き摺られている、の間違いだ」
二人は顔を見合わせ、思わず笑い合う。
まるで、二人きりの舞踏会。
アナイスはセルディアンに身を委ねながら、この穏やかな時間が続けばいいと願った。
そして――
そんな彼女を見つめるセルディアンもまた、同じことを思っていた。




