4話
北へ北へと進んだ馬車は、長い旅路の果てにようやく雪の匂いを帯びた空気へと辿り着いた。
空は白く曇り、吐く息がすぐに淡い霧となって消えていく。
アナイスを乗せた寄り合い馬車は、彼女のために予定を少しだけ変え、ルヴァルティエ領の境にある小さな町までやって来ていた。
木造の屋根には薄く雪が積もり、道の脇では人々が薪を割り、煙突からは白い煙が立ちのぼっている。
馬車が止まると、アナイスはゆっくりと立ち上がった。
「……皆さん、本当にありがとうございました」
彼女は深く頭を下げ、懐から小さな袋を取り出す。
そこには、旅の途中で残ったわずかな金貨が入っていた。
「少ないですが、これを……」
乗客たちは顔を見合わせて、慌てて手を振った。
「そんな、いただけませんよ、お嬢さん!」
けれどアナイスは静かに微笑んで首を振る。
「ここは東より寒いですから。あたたかくしてください」
その言葉と共に金貨を手渡し、もう一度お辞儀をした。
彼女の声には、不思議な力があった。
それは命令でも懇願でもなく、ただ優しく、確かな意志を帯びた響き。
乗客たちは結局、断り切れずにその金を受け取った。
その手の温もりが、冬の冷たさを少しだけ和らげてくれるようだった。
「どうか、お元気で……」
そう告げてアナイスは馬車を降り、北風の吹く石畳の道へと足を踏み出した。
雪の粒が彼女のフードに落ち、白く溶けていく。
その小さな背中が遠ざかっていくのを見送りながら、乗客の一人がぽつりと呟いた。
「……あの方こそ、きっと、我らの希望だな」
誰もが頷いた。
胸の奥に小さな灯がともるような、そんな感覚を抱きながら。
アナイスの足跡だけが、白い道にまっすぐ伸びていた。
その先にあるのは――氷雪の地、ルヴァルティエ公爵領。
………
アナイスが検問所にたどり着いたとき、そこには長い列ができていた。
寒風が吹きつけ、人々は肩をすくめながら順番を待っている。
吐く息が白く凍り、どこからか馬のいななきと鎧のきしむ音が聞こえた。
アナイスはマントの前を合わせ直し、フードを深く被る。
手をこすり合わせて少しでも温めながら、その列の最後尾に並んだ。
(すごい列……。この調子じゃ、公爵領に入る頃には日が沈んでしまうわね。)
指先は冷え切り、足の感覚も薄れていく。
ようやく順番が回ってきた頃には、頬も真っ赤に染まっていた。
「どこからいらっしゃったんですか?」
検問所の係員が声をかけてきた。
思ったよりも若く、穏やかな声だった。
緊張していたアナイスは、その柔らかな表情に少しだけ肩の力を抜く。
「東の……セリオン領から来ました」
その名を聞いた途端、係員の目がわずかに見開かれた。
「えっ、あのセリオン領から? 今日はどうしてここまで?」
アナイスは一瞬迷ったが、すぐに考えを巡らせた。
――本当のことを言えば、疑われるかも
ここは話を合わせたほうがいい。
「えっと……ルヴァルティエ公爵様のお屋敷に、仕事を探しに……」
係員は一瞬きょとんとした後、すぐに笑みを浮かべた。
「ああ、なるほど! メイドのお仕事をお探しなんですね?」
「はい。セリオン領では仕事がなくて……」
そう言うと、彼はアナイスの擦り切れたマントと傷んだ手元に目を留め、不憫そうに眉を下げた。
「そうでしたか……。ここまで来るのも大変だったでしょう。どうか、いい仕事が見つかりますように」
そう言って、彼は最後ににこりと笑った。
通行証を軽く確認され、形式的な印を押されると、アナイスは検問所を後にした。
背後で雪混じりの風が門を鳴らす。
(……こんなにスムーズにいくなんて。あの係員の方が優しい人で、本当に良かった)
小さく息をつくと、冷たい空気が胸の奥までしみた。
けれど、その息の奥には安堵があった。
アナイスは静かに歩き出す。
足元の雪を踏みしめ、ルヴァルティエ領へと――その第一歩を踏み出した。
………
ルヴァルティエ領に足を踏み入れた瞬間、アナイスは思わず息を呑んだ。
街は白い雪に包まれながらも活気に満ちていた。
忙しそうに荷を運ぶ商人たち。
立ち話をしながら笑い合う婦人たち。
そして、道の端では子どもたちが雪を丸めて投げ合い、楽しげな声を上げている。
ここで暮らす人々が、恐怖ではなく安心の中で生活していることが一目で分かった。
見渡す街並みは整然としており、街灯が通りを温かく照らしている。
石畳の道はよく手入れされ、建物の屋根からは白い湯気が立ちのぼっていた。
遠くには荘厳な山々が幾重にも連なり、冬の陽光を反射して銀色に輝いている。
(なんて美しい場所なの……)
アナイスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
帝国内でも最も広大な領地――そう聞いてはいたが、実際に目にするとその豊かさと秩序に圧倒されるばかりだった。
立ち止まって見入っていると、通りがかりの婦人が声をかけてきた。
「おや、旅の方かい?寒いのに立ち止まっていたら風邪をひくよ」
「あ、すみません。あの……ルヴァルティエ公爵様のお屋敷へ行くには、どちらへ向かえばよろしいでしょうか?」
婦人は少し目を丸くした後、柔らかく笑った。
「公爵様のお屋敷に? 仕事かい?」
アナイスは少し困ったように微笑む。
「はい……そんなところです」
「そうかい。いつもなら馬車で行けるんだけどねぇ。今年は雪が早くて、山道の馬車はもう止まってるんだよ」
「そうでしたか……」アナイスは少し考えたあと、ぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「では、徒歩ではどうやって行けばよいのでしょう?」
婦人は驚いたように目を見開いた。
「まさか、この雪の中を歩いて行くつもりかい?!」
「はい。少し急ぎの用がありまして……」
「まったく……若いのに大した根性だねぇ」婦人は苦笑しながらも、指をさして言った。
「ほら、あそこの門を出て真っすぐ行けば迷わず着くよ。ただし、数時間はかかるから覚悟するんだよ」
アナイスは嬉しそうに頷いた。
「迷わず行ける道があるんですね! 初めて来たので、迷子になったらどうしようかと心配していました」
そんなアナイスを見て、婦人は少し困ったようにため息をついた。
そして懐から小さな巾着袋を取り出し、アナイスの手にそっと乗せる。
「あったかい……?」アナイスが不思議そうに呟く。
「魔法石さ。発熱の魔法が込められてる。高いものじゃないけど、無いよりはましだろうさ。」
「でも、そんな……ご婦人が使うものでは……」
「家はすぐそこだから。アンタが持って行きな」
婦人は笑顔でそう言った。
アナイスはその言葉に深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
その仕草は優雅で美しく、礼儀のひとつひとつに品格がにじんでいた。
婦人は一瞬、息を呑んだ。
目の前の娘が、どう見てもただの平民の娘には見えなかったのだ。
だが何も言わず、ただ真剣な声で告げる。
「いいかい、森には絶対に入っちゃいけないよ。国境を越えて魔物が出るって話だからね」
アナイスは微笑みながら頷く。
「はい、気をつけます。ありがとうございました」
婦人に見送られながら、アナイスは北の山道へと歩き出した。
雪を踏みしめるたび、白い靴跡が新しく刻まれていく。
その背中には、迷いではなく――確かな希望の光が宿っていた。




