32話
夜も更け、アナイスは寝室のベッドに腰掛けたまま数枚の紙をじっと見つめていた。
昼間、ウィルから託されたベルベ商会の帳簿の写し。ここ五年ほどの取引記録が記されている。
何度読み返しても、胸の奥に引っかかる違和感は消えない。
けれど、それが何なのか――どうにも掴めないままだった。
「アナイス様、もうお休みになりませんと。日付が変わってしまいますよ」
リセが心配そうに声をかける。その声ではっと我へ返り、自分が随分長いあいだ帳簿と睨み合っていたことに気がついた。
「リセ、遅くまでごめんね」
「いえ! 今日はドレスのお仕立てもあってお疲れでしょうし、早く休まれてくださいませ」
そう言ってから、リセは何か思い出したようにくすりと笑う。
「それにしても……コレットさん、面白い方でしたね。旦那様を前にしたときは倒れるんじゃないかと心配したんですが、ドレスの話になった途端、あんなに饒舌になるなんて」
「それだけ、服作りに情熱があるのね」
「まる人が変わったようでびっくりしました」
「ええ……」
その瞬間だった。
アナイスの中で、まるで記憶のパズルが“カチリ”と音を立てて嵌る感覚が走った。
“人が変わったような”
(そうだ……! これだ!)
「アナイス様?」
急に黙り込んだアナイスに、リセが心配して声をかける。
だがアナイスには届かない。彼女は紙束を勢いよくめくり、必死にどこかのページを探し始めていた。
リセが困惑していると、突然アナイスが立ち上がる。
「公爵様はもう私室に?」
「へ? は、はい。お部屋に戻られましたが……」
「私室はどこ?」
「さ、最上階の、奥ですが…」
「ありがとう!」
矢継ぎ早に質問し、必要な答えを得たアナイスは、帳簿を手に勢いよく部屋を飛び出していく。
ぽかんと口を開けて見送るしかなかったリセは、数秒遅れてハッとした。
「ア、アナイス様!? そ、そんなお姿で出られては……!」
だが訴えも虚しく、扉の向こうにアナイスの気配はもう残っていなかった




