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フクロウ令嬢と狼公爵  作者: おはよう


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3話

夜の名残がまだ空に漂う早朝。

街の屋根は薄い霜に覆われ、息を吐くたび白く霞んだ。


アナイスは宿を出る前に一度だけ振り返った。

古びた宿の窓から、昨夜灯したろうそくの小さな炎がまだ揺れている。

それを見て、彼女は静かに微笑んだ。


マントをしっかりと着込み、フードを深くかぶる。

冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、彼女は寄り合い馬車の停留所へと向かった。


馬車はまだ発車の準備中で、吐く息を白くした人々が荷を積み込み、互いに挨拶を交わしている。

アナイスは木製の車体に手をかけ、中へと乗り込んだ。

席に腰を下ろすと、隣に腰掛けた小柄な老婆が穏やかに声をかけてきた。


「お嬢さん、どこまで行かれるの?」


「……ルヴァルティエ領までです」


「あらあら……それは長旅ねぇ」


老婆は驚いたように目を丸くし、それから優しく笑った。

皺だらけの手がそっとアナイスの手を包む。


「あなたの旅路に、女神様の祝福がありますように」


その温もりに、アナイスの胸がふっと和らいだ。


「ありがとう。お婆さんの旅にも、祝福がありますように」


微笑みながらそう言うと、老婆ははっと息を呑み、アナイスをじっと見つめた。


「……あ、あなたは……!」


その瞳に涙があふれた。

老婆は震える手で、アナイスの手をもう一度しっかりと握りしめる。


「ああ……ああ……生きていてくださったんですね……」


その声に、馬車の中の空気が静まり返る。

他の乗客たちも次々とアナイスの顔に気づいた。

けれど誰ひとりとして、その名を口にする者はいなかった。


ただ、彼女の存在を、温かいまなざしで見つめていた。

まるで失われた希望の灯が、再び灯ったかのように――。


アナイスはその視線を受け、いたたまれなくなった。


「……ごめんなさい」


小さくうつむき、震える声でそう呟く。


老婆はその手を離さず、少し力を込めた。


「あなたが何を謝ることがありますか。

私らはね、あなたが生きていてくださっただけで、どれほど嬉しいか。

さあ、顔を上げてくださいな、“お嬢ちゃん”」


その言葉に、アナイスの瞳が潤む。

幼い日の記憶が甦る。


まだ幼い頃、両親の目を盗んで兄とこっそり街へ遊びに出た日のこと。

あのとき、彼女は秘密の大冒険に自分が大人になったような、誇らしげな気持ちを抱いていた。


けれど実際には、街の人々は皆、侯爵家の子息と令嬢だと知りながらも、

「坊っちゃん」「お嬢ちゃん」と気安く声をかけ、優しく見守ってくれていたのだ。


――どんなに街が荒れようと、人々の温かさは変わらない。


その事実に気づいたとき、アナイスの胸に静かな灯がともった。

馬車の外で、夜明けの光が少しずつ地平を染め始める。


(きっと、大丈夫……)


彼女はそっと目を閉じ、胸の奥で祈った。

再び、希望を携えて


………


出発の準備をする御者の声が外から聞こえてきた。

そのとき、数人の警備兵が荷馬車に近づいてくる。

彼らはドーラ家に仕える者たちで、横柄な態度を隠そうともしなかった。


「おい! この中に銀の髪の女はいるか!!」


怒鳴り声に御者が肩をすくめる。


「ええっと……どうでしたかねぇ? 今日は客が多いもんでねぇ……」


「ふざけるな!」と警備兵の一人が馬車の車輪を蹴りつけた。


「ドーラ男爵様の命令だぞ! 隠そうとしたらどうなるか分かってるんだろうな!!」


馬車の中では、乗客たちが息を潜めて様子をうかがっていた。

アナイスは皆を危険に巻き込むまいと立ち上がろうとするが、その腕を誰かが掴む。


「あなた様は、私らの希望です。命をかけてでも、お守りします」


男の低い声がそう囁いた。

すぐに周りの人々が布を取り出し、アナイスの姿を隠す。


外では怒声が続く。


「おい! お前たち、顔を見せろ! 銀髪の女はいるか!!」


そのとき、一人の老婆が立ち上がった。


「あら、私のことかねぇ? 昔は綺麗な茶色の髪だったんだが、年をとってすっかり色が抜けちまってねぇ」


「おや、じゃあワシかもしれんな!」と、もう一人の老婆も笑ってフードを外した。


「ほれ、ワシも立派な銀髪じゃろう!」


「婆じゃねぇ!若い女だ!!」


苛立った警備兵が怒鳴る。


その時、アナイスの隠れている布に視線が向く。


「おい、その布はなんだ! まさか人でも隠してるんじゃ――」


彼が布に手をかけた瞬間、御者が大声で叫んだ。


「すんませんねぇ! 警備の旦那! そういや夜中に出た馬車に、銀髪の若い女が乗ってたのを思い出しましたわ!」


警備兵は手を止め、舌打ちした。


「早く言え、この野郎!」


そう捨て台詞を残し、彼らは慌ただしくその場を離れていった。

馬車の中では、小さく安堵の息が漏れる。


「夜中に出たら、もう領地を出てるかもしれねぇな……くそ、どう説明すりゃいいんだよ……」


警備兵たちの声が遠ざかっていく。


御者はヘラヘラと見送るふりをしながら、完全に姿が見えなくなるのを待った。

そして馬車の扉を開け、真剣な声で言った。


「行きました。すぐ出発します」


アナイスは布を外し、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。皆さん」


そして、涙をこらえながら言葉を続ける。


「必ず……必ず、皆さんの街を取り戻します」


お婆さんが目を細めて微笑んだ。


「あんなに小さかったお嬢様が……立派になったねぇ」


「わしらもまだまだ長生きせにゃな!」とお爺さんが笑う。


あたたかな笑い声が、冷たい朝の空気に溶けていく。

やがて御者の鞭が鳴り、馬車はゆっくりと進み出した。


向かう先は――北。

ルヴァルティエ公爵の治める、雪の大地。



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