28話
――夜。
アナイスはリセの寝顔を確認したあと、そっと客室へ戻ってきていた。
怪我の具合は深刻ではないと医師から聞き、胸の奥に詰まっていた不安がようやくほどけていく。
部屋の扉を閉めた、その時――
まるで彼女が戻るのを待っていたかのように、控えめなノックが響いた。
「はい……?」
扉を開けると、そこにはセルディアンが立っていた。
片手には小さな箱。
そして、いつもの正装ではなくシャツにスラックスという軽装で現れた彼に、アナイスの心臓が不意に跳ねた。
「公爵様、どうされたんですか?」
「そこに座れ」
理由も告げぬまま、セルディアンはアナイスをベッドへ促す。
「手を」
「……?」
意味もわからず差し出した手を見て、セルディアンは低く笑った。
「自分の手を見てみろ」
言われて掌を見ると、皮がめくれ、うっすらと血が滲んでいた。
「あ……。全然気づきませんでした……」
久しく剣を握っていなかったせいで、決闘の後微かな痺れを感じてはいたが、怪我とまでは思わなかった。
「それだけ夢中だったんだろう」
セルディアンは箱を開け、薬と包帯を取り出すと、アナイスの手を優しく取った。
次の瞬間――。
「!!!!!」
薬液を含ませたガーゼが傷に触れ、アナイスは言葉にならない悲鳴を上げた。
「こ、こ、公爵様!!……い、痛いです……!」
「我慢しろ」
笑って言う彼の声音とは裏腹に、手つきは驚くほど丁寧で優しい。
半ば拷問のような治療が終わると、白い包帯を器用に巻いていく。
セルディアンが低く呟いた。
「……すまなかった」
「え?」
「騎士たちのことだ。私が甘く見ていた。君に怪我をさせたのは、私の責任だ」
「…謝らないでください」
アナイスはそっと首を振る。
「セリオン家が、世間でどんな目で見られているか……私も理解しています。だから、公爵様には感謝しているんです」
「……感謝?」
「言葉だけでは伝わらないこともありますから」
なおも口を開きかけたセルディアンを遮るように、アナイスは明るく笑った。
「それに、公爵様の手袋、勝手に投げてしまいましたから。それで“おあいこ”です!」
セルディアンは呆れたように眉を下げ、それでも微かに笑った。
「それでも負い目に感じるのなら――わたしに、剣術を習わせてください」
アナイスは真っ直ぐに彼を見つめる。
その瞳には、静かな悔しさが宿っていた。
「街でのこと…リセを守れなかった事が凄く…悔しかったんです。逃げないと決めたのに。戦うと誓ったのに。力の前で、私は無力でした。とても……弱かった」
しばらく黙って聞いていたセルディアンは、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。ならば、ランスに習うといい」
「ランス卿ですか?」
「アイツはここに来る前、カイロン卿に師事していた」
「カイロン卿?!」
懐かしい名にアナイスの目が大きく見開く。
カイロンは祖父の代、騎士団長を務めた剣豪。
引退後は隠居したと聞いていたが――まさか、ランスが彼の弟子だったとは。
「だから、ランス卿の剣は使いやすかったんですね……」
光馬騎士団の戦い方は、相手の力を利用する。
多くの騎士が使う剣では、戦いづらいのだ。
しかし、今日アナイスが振るったランスの剣は不思議と手の馴染みが良かった。
「アイツは根っからの光馬騎士団のファンだからな」
セルディアンは少し呆れながら笑った。
「君の都合に合わせて手合わせできるよう、話しておく。…怪我が完治してから、だがな。」
見ると、いつの間にか包帯は綺麗に巻かれていた。
「ありがとうございます、公爵様」
箱を持ち扉へ向かうセルディアンは、扉に手をかけたところでふと振り返った。
「自分が無力だと認められる者は、そう多くない」
アナイスが目を瞬かせる。
静かに微笑んだセルディアンは、言葉を続けた。
「……君は、強い。誰よりも。」
アナイスの胸に、温かいものが落ちていった。




