2話
冷たい風が吹き抜ける中、アナイスはセリオン領の街を歩いていた。
久しく訪れた故郷の地は、かつての面影をほとんど残していない。
道はひび割れ、店の看板は半ば朽ち、通りを行き交う人々の顔には活気がなかった。
街を包む空気そのものが、疲弊と絶望を孕んでいる。
(……これが、あの誇り高きセリオン領?)
思わず立ち止まり、胸の奥が締めつけられる。
自分が幼い頃に見たのは、陽光のように明るい笑顔であふれた街だった。
父が領民と笑い、母が子どもたちに菓子を配っていたあの風景が、まるで幻のように遠い。
道端で、薄汚れた服の少女がろうそくを売っていた。
まだ十にも満たないだろう。
凍える手を胸の前に差し出しながら、必死に声を張り上げる。
「ろうそくはいらない? 安いよ……明るくて、長持ちするの!」
通り過ぎる人々は誰も振り返らない。
アナイスは足を止め、そっと少女の前に膝をついた。
「一本、くださいな」
少女は驚いたように目を見開き、それから小さな笑みを浮かべて差し出した。
「あ、ありがとう……」
硬貨を手渡し、アナイスはその小さな灯を受け取る。
掌の中で震える炎のように、かすかな温もりを感じた。
少女の姿が見えなくなったあとも、アナイスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
吹きつける風が頬を刺し、遠くの路地裏からは、かすかな呻き声や咳の音が聞こえる。
ふと視線を向けると、崩れかけた建物の隙間に、飢えに苦しむ人々の影が見えた。
痩せこけた子どもを抱く母親。
地面に膝をつき、力なく座り込む老人。
かつて穏やかに暮らしていた領民たちが、今では生きるために声を潜め、希望を失いかけている。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
(――私のせいだ)
そう思わずにはいられなかった。
自分がこの地に残されたセリオン家唯一の人間なのに、何もできなかった。
その無力さが、冷たい風よりも痛かった。
アナイスは静かに目を閉じ、唇を結ぶ。
(必ず、取り戻す。あの頃の笑顔も、誇りも……)
歩き出したとき、街の鐘が遠くで鳴った。
日は沈み、あたりは薄闇に包まれていく。
空気はますます冷え込み、吐く息が白く立ちのぼった。
やがて彼女は、街外れの古びた宿屋にたどり着いた。
扉を押すと、乾いた音を立てて開く。
中は薄暗く、暖炉には小さな火がくすぶるだけ。
壁には煤がこびりつき、床板はところどころ沈んでいた。
「……今夜だけ、泊まれますか?」
アナイスが尋ねると、店主の老婆は彼女の姿を上から下まで見て、短くうなずいた。
「一泊、銅貨三枚だよ」
アナイスは金を払い、小さな部屋の鍵を受け取る。
狭い階段を上り、通された部屋には粗末な寝台と小さな机、そして半分ほどしか残っていないろうそくが一本立てられていた。
鞄を床に下ろし、肩からマントを外す。
疲労が一気に押し寄せ、膝が震えた。
けれど、座り込む前に、彼女は部屋の隅に置かれた水桶で顔を洗う。
冷たい水が頬を伝い、少しだけ意識が冴えた。
下の食堂で買った温いスープを口にする。
野菜はほとんど入っていないが、それでも身体がじんわりと温まる。
木の椀を両手で包み込みながら、ふと、昼間のろうそく売りの少女の姿が脳裏に浮かんだ。
細い腕。
凍える手。
それでも、光を売ろうとしていた。
(……あの子、無事だといいけれど)
アナイスはそう思いながら、机の上のろうそくに火を灯した。
小さな炎が揺れ、薄暗い部屋にあたたかな光を落とす。
それはまるで、少女が差し出したあの粗末なろうそくのようだった。
「明日は……北へ向かおう」
誰にともなくつぶやき、アナイスはベッドに身を横たえる。
外では、冷たい風が窓を叩いていた。
それでも、炎の揺らめきを見つめるうちに、まぶたが静かに閉じていく。
その夜、アナイスは久しぶりに夢を見た。
暖かな陽光の下で、笑っている両親の夢を――。




