19話
昼下がり、アナイスはカリスの案内で、ルヴァルティエ家騎士団の訓練場へ向かっていた。
――その少し前、朝食を終えたあと。
アナイスはセルディアンに呼ばれ、執務室を訪れていた。
「護衛……ですか?」
問い返すアナイスに、セルディアンは静かに答えた。
「ああ。ドーラ家が命を狙っているんだ。備えは必要だろう。」
低く落ち着いた声に、アナイスは自然と背筋を正した。
確かに、あの強欲なドーラ家がそう簡単に諦めるとは思えない。
「ドーラ家の借金は、今や返せる額ではない。何が何でもセリオン家の財産を奪うつもりだろう。」
その言葉に、アナイスは静かに頷いた。
「……命まで狙うような相手にお金を借りていますから。向こうも、死に物狂いでしょうね。」
わずかに伏せた瞳には、悲しみが宿っていた。
セルディアンは短く息をつき、続けた。
「それに――私にも敵は多い。今後、夜会などに婚約者として君を伴えば、君を狙う輩も出てくる。」
アナイスは小さく息を呑み、しかしすぐに頷いた。
「カリス。後で令嬢を騎士団に引き合わせてくれ。」
「畏まりました。」
側で控えていたカリスが、恭しく一礼する。
そして現在――。
屋敷の外に出ると、鋭い掛け声と剣戟の音が遠くから聞こえてきた。
訓練場の空気には熱気がこもり、鉄の匂いと汗の匂いが混じり合っている。
帝国最強を誇る、黒狼騎士団。
その名を思い出しながら、アナイスは無意識に背筋を伸ばした。
これから自分の護衛となる者たちと顔を合わせる
――そう思うと、胸の鼓動が少し早まる。
---
アナイスとカリスが訓練場に足を踏み入れると、今まで剣を合わせていた者たちは動きを止め、こちらを振り返った。
カリスは一歩前に出て、騎士団の面々に声をかける。
「皆さんもすでに知っていると思いますが、こちらは公爵様のご婚約者であらせられます――アナイス・セリオン様です」
セリオンの名を聞いた途端、騎士たちの目が鋭く光る。
その中の一人が、鼻で笑うように言葉を吐いた。
「それで? あの“有名な”セリオン侯爵家のご令嬢が、こんな場所に何のご用です?」
棘を隠そうともしない言葉。
アナイスは内心で苦笑しつつも、表情を崩さない。
そんな彼女を横目に、カリスは低く声を落として言う。
「侯爵令嬢に無礼な口を利くな」
しかし騎士たちは肩をすくめ、悪びれる様子もない。
カリスは小さくため息をつき、アナイスに向き直った。
「申し訳ありません」
アナイスは笑いながら首を振る。
「構いません。皆さん、今日はご挨拶に伺いました。アナイス・セリオンです。よろしくお願いしますね」
柔らかく微笑むアナイスに、騎士たちは何とも言えぬ表情を浮かべる。
“尻尾を巻いて逃げた白馬”で知られるセリオン家の令嬢――。
臆病で世間知らずの娘だと噂していた彼らは、思わず面食らっていた。
泣き出すか、逃げ出すかと思っていたのに。
そのとき、訓練場の入り口から低い声が響いた。
「お前たち、何をしている」
振り返ると、大柄な男が堂々とした足取りで入ってくる。
カリスはすぐにアナイスに紹介した。
「彼は黒狼騎士団団長――ダンデ・ヘルガーです」
ヘルガー家といえば、代々優秀な騎士を輩出してきた名家。
その名に恥じぬ威圧感が、場の空気を引き締める。
ダンデはアナイスの前に立ち、深々と頭を下げた。
「躾がなっておらず、申し訳ありません」
その声は低く穏やかだったが、視線には明らかな冷たさが宿っていた。
それはアナイスにではなく、“セリオン”という名に向けられたものだ。
かつてのセリオン家の騎士団――光馬騎士団。
常に誇り高く、忠義を貫いたその姿は、騎士たちの憧れであり理想だった。
だが今、その名は他国へ渡った裏切りの象徴として語られている。
誇りを傷つけられた彼らの怒りと失望は、深い。
真実を知るアナイスの胸は痛んだ。
けれど、今言葉を重ねても意味はない。
カリスが一つ咳払いをして告げる。
「今後、アナイス様の護衛を任せます」
その一言に、場の空気がざわついた。
「私は嫌ですよ!」
鋭い声を上げたのは、一人の女騎士だった。
短く切った金髪に、真っすぐな瞳。
彼女の目には、他の騎士とは違う“怒り”が宿っている。
「“あの”セリオンの護衛なんて……!」
「エメルダ」
ダンデの低い声が彼女を制す。
だがエメルダと呼ばれた女騎士は、唇を噛んで視線を逸らさない。
他の騎士たちも、不満げに小声で文句を漏らしていた。
このままでは埒が明かない。
アナイスはカリスに目配せをし、静かに口を開く。
「皆さん、突然のことで混乱させてしまったようですね。今日は、一度失礼いたしますね。」
怒りも苛立ちも見せず、優雅に頭を下げる。
その堂々とした立ち姿に、何かを言い募ろうとした騎士たちは、言葉を失った。
訓練場を出て廊下を歩きながら、カリスはぼやく。
「まったく……公爵様も面倒なことを」
アナイスはくすくすと笑いながら言う。
「目に見えることしか信用しない、公爵様らしいですね」
もしセルディアンがあの場にいたら、誰もあのような態度は取らなかっただろう。
だからこそ、彼はアナイスを一人で送り出した。
“精神を病み、屋敷に引きこもっていた令嬢”の言葉を、誰も信じはしない。
ならば――自ら行動で示すしかない。
「……はぁ、令嬢も存外、曲者ですね」
苦笑するカリスの言葉に、アナイスは声を上げて笑った。
その笑いの奥には、確かな意志が宿っていた。




