16話
契約書に署名を交わしたその日の午後――
アナイスはメイドたちに囲まれていた。
「やっぱり、アナイス様の髪にはルビーの色が映えますね!」
「旦那様の瞳の色ですもの!」
「「ねー!」」
「アナイス様が公爵様と婚約されるなんて、こんなに嬉しい事はないです!」
「「ねー!」」
リセたちはいつにも増して楽しげにお喋りしながら、アナイスの支度を手伝っている。
“お嬢様”と呼ばれていたのが、いつの間にか“アナイス様”と名前で呼ぶようになっていた。
(……どうして、こうなってしまったのかしら)
アナイスは鏡に映る自分の姿を見つめながら、遠い目をした。
――遡ること、数時間前。
契約書への署名が終わった後、アナイスはふと疑問を口にした。
「ところで……公爵様が訴えられている状態で、私たちの婚姻がすんなり受理されるでしょうか?」
カースヴェル侯爵家が格上のルヴァルティエ公爵家を訴えるなど、本来ならあり得ない。
訴訟が受理されたということは、皇室の手引きがあるのは自明なことだ。
貴族の婚姻は皇帝の承認が必要である。
カースヴェルがセルディアンの「未婚」を理由にノエランの養育権を主張している以上、皇帝がこの婚姻を認めるとは思えなかった。
アナイスの問いに、カリスが答える。
「ええ。恐らく“何らかの理由”をつけて先延ばしにするか、あるいは“なかったこと”にするかもしれませんね。」
アナイスはやはり……という表情を浮かべる。
カリスは続けた。
「ですので、当分は“婚約”という形になるでしょう。後日、婚約の宣誓式を中央神殿で行います。」
「宣誓式……?」
アナイスは小さく呟いた。
結婚を誓う二人が、神殿に宣誓する習わしがある。
「この人と結婚する」と女神様に約束するのだ。
だが、しなかったからといって罰則があるわけではないので、現在は多くの人々が省略している
「神殿を味方に付ける……ということですか?」
「ええ。今どき宣誓式を行う貴族などいませんから。」
その瞬間、アナイスはカリスの意図に気付く。
「……つまり、今は廃れた宣誓式を行えば、否応なしに話題になる。神殿だけでなく、世論も味方につける、と。」
その答えにセルディアンが薄く笑う。
「そういうことだ。私たちはこれから、帝国一“愛し合う恋人”同士になる。」
「……あ、愛し……あう?」
アナイスは思わず顔を赤らめる。
「突然の結婚なんて裏があると疑われて当然だろう。だから皇室が認めざる負えない状況を作るんだ」
「は、はぁ……」
セルディアンの冷静な口調に、アナイスは少し目を泳がせた。
そんな彼女の様子を横目に、カリスが静かに言葉を継ぐ。
「今は廃れた宣誓式を行い、続けて公の場で共に過ごす。お二人が仲睦まじい様子を見せれば、やがて噂は“真実”になるでしょう。そして――皇室主催の夜会で、陛下に直々に結婚の承諾をいただくのです。」
セルディアンは低く笑った。
「皇帝は何よりも面子を気にするからな。大勢の貴族が見ている場で、“愛し合う恋人たち”の結婚を否定はできないだろう。」
アナイスは苦笑しながらも、納得するしかなかった。
「意図は……分かりました。」
「それに、君にとっても悪い話ではない。
君が健在であること、そしてルヴァルティエ公爵夫人となることが世に伝われば、ドーラ家を潰すのにこれ程役に立つことはないだろう。」
アナイスは少し俯き、静かに頷いた。
「…分かりました。では、当分は――公爵様と…その…あ……ぃ………仲睦まじい“ふり”をすればいいのですね。」
「ああ。屋敷の者たちにも契約のことは伏せる。真実を知るのは、君と私、それにカリスとバルナールだけだ。」
その言葉に、アナイスはリセや使用人たちの顔を思い浮かべた。
良くしてくれている人たちを、欺くようなことをしなければならないなんて――胸が痛む。
暗い顔になるアナイスにセルディアンが言う。
「そういうわけだから、午後は出かける支度をしておけ。」
「え?」
「初めての“デート”に行こうではないか、令嬢。」
軽くお辞儀して微笑むセルディアンに、アナイスは呆気にとられたまま声を失った。
――そして現在。
気づけば支度はすべて整い、リセたちの手が離れた。
髪にはルビーのシンプルな髪飾り。
水色のデイドレスにはファーが付いており、室内で着ているものよりあたたかい。
鏡の中の自分に、苦笑いをする。
今の状況に困惑しているはずなのに、自分の顔はどこか楽しそうにしているからだった。
………
支度を終えたアナイスが玄関を出ると、屋敷の前にはルヴァルティエ家の家紋が刻まれた黒塗りの馬車が待っていた。
その横で、セルディアンが黒のロングコートの袖を直しながらカリスと何やら言葉を交わしている。
冬の陽光を受けて、彼の漆黒の髪が淡く光を返す。
その姿に、アナイスの胸がどきりと高鳴った。
高鳴る鼓動を隠すためにひとつ深呼吸をしてから声をかけた。
「お待たせしました。」
その声にセルディアンが振り向く。
彼の視線が、アナイスの髪に飾られたルビーの飾りにわずかに留まる。
だが何も言わず、静かに手を差し出した。
「では行こうか? ご令嬢。」
少し芝居がかったその仕草に、アナイスは思わずくすりと笑う。
「はい。」
そっと差し出された手を取ると、セルディアンは微かに口角を上げた。
二人はそのまま馬車へと乗り込む。
――街へ向かう馬車の中。
セルディアンは窓際で書類を手に取り、真剣な表情で目を通していた。
アナイスは向かいの座席に腰を下ろし、その顔をぼんやりと眺める。
(“冷酷無慈悲”なんて呼ばれているけれど……本当はそんな人じゃないのかもしれない)
今日の昼食時、ノエランと食堂へ向かうと、すでにそこにはセルディアンの姿があった。
相変わらず会話は少なかったが、ノエランの嬉しそうな顔を見たら、あの時セルディアンに進言して良かったと思えた。
残念ながら、カリスに呼ばれ途中で仕事に戻っていったが…
忙しい中でも時間を作ろうとした結果だろう。
それに――
アナイスに対しても
皮肉な事を言って挑発をしたり、横柄な態度を取ることもあるが、アナイスの意見を尊重してくれた。
そんなことを思い返しているうちに、自然とその視線は彼に吸い寄せられていた。
「……そんなに見つめられると、穴でもあきそうなんだが?」
低い声が静寂を破る。
はっとして顔を上げたアナイスは、慌てて視線を窓の外へそらした。
「さ、最近は雪が降ってませんね……!」
とっさに思いついたことを口にして取り繕うが、頬と耳がほんのり赤く染まっている。
セルディアンはそんなアナイスをしばらく見つめ――ふっと、口元を緩めた。
その目に浮かぶ柔らかい光を、アナイスが知ることはなかった




