14話
セルディアンとの約束の日、前夜。
この日まで、アナイスはノエランと共に食事をとり、彼の学習時間以外は庭園を散歩したり、ルヴァルティエ家秘蔵の図書室で本を読んだりして、穏やかな時を過ごしていた。
セルディアンに提示された3日はあっという間に過ぎていった。
そのあたたかな日々の中で、セリオン家でできた心の隙間が、少しずつ埋められていくような気がした。
純粋で心優しいノエラン。
いつも静かに見守ってくれる執事のバルナール。
明るく世話をしてくれるメイドのリセ。
メイド長のエーナと交わす何気ないお喋りは、幼い頃に母と過ごした日々を思い出させてくれる。
シェフのロレンツォは、ノエランと一緒に手紙を書いた日の夕食時、目に涙を浮かべながら喜びを伝えに来てくれた。
言葉は少ないが、毎日アナイスが新しい服を着られているのは、補佐官カリスの気遣いだと知った。
――ルヴァルティエ家の人々は、皆、優しく温かい。
セルディアンに「ノエランの意志を尊重する」と伝えたものの、数日間を過ごしただけで離れがたくなっている自分に、アナイスは小さく苦笑した。
だからこそ、思いは自然とセルディアンへと向かう。
ノエランとの食事の席に、彼が現れることは一度もなかった。
けれど、アナイスは気づいていた。
ノエランと庭園で花を眺めているとき、執務室の窓辺から静かに様子を見守る彼の姿を。
図書室の前を、何気なく通り過ぎる影を。
最初はアナイスを警戒しての事だと思った。
だがその眼差しは、アナイスではなく、いつでもノエランを映していた。
ノエランもまた、セルディアンの話をするときには誇らしげで、そこには尊敬と――“父”への深い愛情がにじんでいた。
想い合っているのに、どこか距離を置いたままの二人の関係が、もどかしくてならない。
(とはいえ、部外者でしかない私に、何かをする資格はないわよね……)
そんな思いに耽っていると、扉を叩くノックの音が聞こえた。
「アナイス様、夜のご用意をお手伝いしてもよろしいですか?」
柔らかな声とともに、扉の向こうからリセが顔を覗かせた。
「ええ、お願い」
アナイスが微笑むと、リセは頭を下げ、静かに部屋へ入ってくる。
カーテンが閉じられ、蝋燭の炎が穏やかに揺れた。
リセの手際よい動きに導かれるように、アナイスは一日の終わりを静かに受け入れる。
窓の外では、北の空にかすかな雪の気配が漂っていた。
その冷たい光を見つめながら、アナイスは胸の奥で小さく息を吐く。
『アナイス・セリオン侯爵令嬢――私の妻になれ』
突然、セルディアンに言われた一言を思い出し胸がドクンと音を立てた。
低く、心地の良いバリトンの声。
否と言わせぬ紅い瞳。
一つ一つを思い出す度に熱を帯びる頬を両手で押さえ、振り払うように首を振る。
(そんなことより、これからのことを考えなきゃ)
まだ赤い頬を隠すように布団を被るアナイスは、ぎゅっと瞼を閉じた。
少し熱を帯びた夜は、静かに更けていった。
………
朝――。
今日は、セルディアンに返事を伝える日だった。
あれから彼と言葉を交わすことはない。
静かな時間の中で、胸の奥に沈んでいた想いがゆっくりと形を取っていく。
リセに支度を手伝ってもらいながら、アナイスの心は次々と浮かぶ思考に揺れていた。
セリオン家のこと。
ノエランのこと。
そして、セルディアンのこと――。
思いに沈むアナイスの様子を察して、いつもはよく喋るリセも、今日は言葉少なだった。
静かに髪を整え、ドレスの皺を直しながら、ただ淡々と手を動かしている。
支度が終わる頃、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「――アナイス様、旦那様がお呼びです。」
声の主はバルナールだった。
アナイスは小さく頷き、立ち上がる。
胸の鼓動が、静かな朝の空気の中に響く。
「……はい、今行きます」
バルナールに導かれ、廊下を進む。
石造りの壁を渡る冷たい空気が、彼女の決意を試すかのように肌を撫でた。
執務室の前で一度立ち止まり、深く息を吸う。
アナイスは静かに扉を押し開けた。




