11話
「アナイス・セリオン侯爵令嬢――私の妻になれ。」
その一言に、アナイスの時がしばし止まった。
鼓動が一拍遅れて胸の奥で鳴る。
「……妻、ですか?」
セルディアンは余裕を崩さず、静かに言葉を続けた。
「余裕のなくなったカースヴェルの蛇は、私が未婚であること――つまり、ノエランに母親がいないことを突いてきた。
君が妻になれば、私は既婚者になり、ノエランには母親ができる。万事解決だ。」
あまりにも当然のように告げられたその提案に、アナイスは思わず戸惑いを見せた。
「……ですが、なにも私でなくとも。今の私は没落した貴族の娘にすぎません。」
その言葉に、セルディアンの瞳がわずかに鋭さを帯びる。
「だが、ただの“没落貴族”ではない。建国以前より続く――セリオン侯爵家だ。」
セルディアンは椅子にもたれ、続けた。
「セリオン家の剣と盾をくれるのだろう? 婚姻での繋がりが一番確実だ。それに――“フクロウの目”もな。」
その言葉に、アナイスの瞳がかすかに揺れる。
そして、何かに気づいたように口を開いた。
「……私がルヴァルティエ家の一員となれば、ルヴァルティエ家の情報が外に漏れる心配はなくなる、ということですね。」
セルディアンは口の端をわずかに上げる。
「ああ。私は朝食のパンひとつでも、知られたくないんでね。」
それにカリスが補足するように言った。
「令嬢は――自身の身内には誠実であると、お見受けしましたので。」
褒めているようで、同時に釘を刺すその言葉に、アナイスは小さく苦笑した。
だが、カリスがこの話に口を挟むということは、彼もまたこの突拍子もない提案を容認しているということだ。
「……話は、わかりました。ですが――」
尚も口ごもるアナイスに、セルディアンは短く告げた。
「三年だ。」
「三年……?」
「ノエランがアカデミーに入学するまでの三年。婚姻関係はそれまででいい。」
アナイスは考え込むようにその言葉を繰り返した。
「三年……」
しばし沈黙ののち、アナイスは姿勢を正し、セルディアンを真っすぐに見据える。
「返事をする前に、ノエラン様にお会いすることはできますか?」
その言葉に、セルディアンは怪訝そうな表情を見せた。
「……なぜだ?」
アナイスはまっすぐに答える。
「私は――見知らぬ人の中で幼少期を過ごしました。それがどれほど不安だったか、今でも覚えています。ノエラン様の“母”になるのであれば、まず彼の気持ちを知るべきです。ノエラン様の意見が尊重されなければなりません。」
その瞳に宿る真っすぐな意志に、セルディアンは何も言わず、ただ静かに彼女を見つめ返した。
両親の死後、兄も居ない寂しい屋敷に突然現れたドーラ家。
アナイスにも、彼らと家族になれると信じてい頃があった。
どんなに辛く当たられても、自分が悪いのだと責め、なんとか気に入られようと懸命に振る舞っていた。
…結局、アナイスが何をしようと、彼らが振り向くことはあり得ない事だったのだが。
自分が例えノエランの母になったとしても、辛く当たるつもりは毛頭ないが、両親を亡くし既に傷付いている子を、大人の事情に巻き込み、振り回したくはない。
しばらくの沈黙の後、セルディアンは低く答えた。
「……わかった。答えは三日後に聞こう。その間に、ノエランと会う場を設けよう。」
意外だった。
セルディアンなら、意見など聞かずに押し進めるか、あるいは全てを白紙にすると思っていたのに。
(もしかしたら――公爵様も、ノエラン様の気持ちを考えていらっしゃるのかもしれない……)
「ありがとうございます。」
アナイスは静かに頭を下げた。
その様子を見ていたカリスが一歩前に出る。
「ノエラン様はお部屋におられます。……ご案内いたしますか?」
アナイスは柔らかく微笑んで答える。
「ええ、お願いします。」
カリスが扉の外に声をかけると、執事のバルナールが静かに入室した。
「ノエラン様のお部屋までご案内いたします。」
穏やかな笑顔とともに、深々と礼をするバルナール。
アナイスは小さく頷き、その後をついて歩き出した。
………
――バタン。
執務室の扉が閉まった途端、アナイスは足の力が抜け、床にへたり込んだ。
(……緊張した……)
ルヴァルティエの名を前に堂々と、時に不遜に話していたつもりだった。
けれど、本当は不安と緊張でどうにかなりそうだった。
精一杯の虚勢を張っていたが、あの黒狼の紅い瞳に睨まれた瞬間、すぐにでも逃げ出したくなった。
それでも――ここまで来たのだ。
何も得ずに出ていくわけにはいかない。
その思いだけで、あの場に立ち続けていた。
『アナ、ピンチの時こそ笑え。』
かつて、生きる術を教えてくれた男の声が、心の奥で響いた。
(ウィルがこんな姿を見たら、きっと笑われるわね。)
小さく苦笑を浮かべたその時、そっと声がかけられた。
「ノエラン様のお部屋に行く前に、お茶を一杯ご用意いたします。」
穏やかな声の主――バルナールが手を差し出していた。
「ありがとうございます。」
アナイスはその手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
静かな安堵が胸を満たしていくのを感じながら。




