幕間
揺れる馬車の中、少女は買ってもらったばかりの図鑑を、食い入るように見つめていた。
「アナイス、そんなに見ていると酔ってしまいますよ」
そう優しく諭すのは、少女の母――セリオン侯爵夫人。
「ん……」
少女――アナイスは、母の言葉に小さく頷くものの、図鑑から目を離そうとはしなかった。
その様子に、夫人は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに微笑む。
「よほど、ルヴァルティエ公爵様のお宅で過ごした時間が楽しかったのね」
夫であるセリオン侯爵が、二人の子どもたちを連れてルヴァルティエ邸を訪ねたのは、つい先日のことだった。
その帰り道、アナイスがねだった一冊の本。
それは、色とりどりの花々が描かれた花図鑑だった。
「リュシウスも、楽しかったかい?」
侯爵が息子――リュシウスに問いかけると、彼は無言で頷く。
無表情ではあるが、その瞳に宿るかすかな輝きが、気持ちを雄弁に物語っていた。
「そうか。なら今度は四人で行こうか」
嬉しそうに笑う侯爵の提案に、いち早く反応したのはアナイスだった。
「ほんとう? いつ? あした? あさって?」
図鑑を胸に抱きしめ、身を乗り出す娘。
つい先ほどまで静かに本を眺めていた姿から一転、頬をほんのりと紅く染め、瞳を期待で輝かせている。
その姿に、夫人はくすりと笑った。
「あらあら、うちのお姫様は、初めての恋を知ってしまったみたいね」
「な、なんだって?!」
妻の言葉に、侯爵は思わず声を上げると、慌ててアナイスの方へと向き直った。
「アナイス、君はお父様と結婚するんだろう?」
「父上、アナイスは僕と結婚すると言っていました」
すかさず口を挟むリュシウス。
「いや、お父様だよな?」
「僕だよね」
父と兄、二人に詰め寄られても――当の本人は、どこ吹く風。
アナイスの心にあるのは、近いうちにまた会えるであろう、あの少年の姿。
さらさらと揺れる黒い髪。
宝石のように輝く、紅い瞳。
その面影を思い浮かべるだけで、胸の奥がくすぐったく高鳴る。
まだ名前も知らない、その感情に頬を染めながら――アナイスはふわりと微笑んだ。
娘の初めての恋に戸惑う父。
自分こそが相手だと譲らない兄。
そんな二人を穏やかに見つめる母。
そして、想い人に心を馳せる娘。
それは――
とても穏やかな、温かい家族の一風景だった。




