100話
アナイスは地を蹴り、敵へと駆け出した。
振り下ろされる一太刀を受け流し、その隙を突いて懐へと踏み込み、刃を振るう。
狙うのは急所ではない。
戦闘不能にするための一太刀。
それでも――人を斬る感触が、剣を握る手に生々しく伝わる。
一瞬、アナイスの表情が歪んだ。
だが――感傷に浸る暇など、与えられない。
次の瞬間には、別の敵が襲いかかってくる。
アナイスは己を叱咤するように強く剣を握り直し、次々と敵を打ち倒していった。
白雪の中に舞う、セリオンの太刀。
その鋭く洗練された太刀筋は、戦場にあってなお美しさを帯びていた。
初めて目の当たりにするその剣に、マガダンの兵も――そこに紛れた帝国の兵も、なすすべなく雪の上へと膝をついていった。
どれほどの時間が経ったのか。
終わりの見えぬ戦の中で、アナイスの手足は次第に重くなっていく。
いつ負ったのかも分からない傷が、全身に鈍い痛みを走らせていた。
それでも、アナイスは崩れそうになる意識を必死に繋ぎ止める。
――まだ、立てる。
だが、その時。
「東方より、敵増援……!」
ルヴァルティエの兵の叫びが響いた。
その一瞬――ほんのわずかな隙。
「アナイス様……!!」
遠くから届く、ランスの叫び。
気づいた時には、すでに遅かった。
迫る刃が、まっすぐにアナイスへと迫る。
(やられる……!)
来るべき衝撃に、思わず身を強張らせた――その瞬間。
目の前に躍り出る、黒い影。
金属音が鋭く弾け、迫っていた刃が大きく弾き飛ばされた。
引き寄せるように肩を抱く、力強い腕。
そして――ふわりと、鼻をかすめるシトラスの香り。
「……公爵、様?」
見上げた先。
そこにいたのは――
口元にわずかな笑みを浮かべる、セルディアンの姿だった。
「言っただろう?駆けつける、と」
その声音は、戦場にあってなお余裕を帯びている。
「……遅いです」
かすれた声でアナイスがそう返すと、セルディアンは目元をわずかに緩めた。
「同行者が多かったものでね」
そう言って、顎で前方を示す。
促されるままに、アナイスは視線を向けた。
いつの間にか雪は止み、重く垂れ込めていた雲がわずかに裂けている。
その隙間から差し込む、一筋の夕陽。
光に照らし出されたのは――
白金の衣を纏い、白馬に跨る騎士たち。
整然と並ぶその姿は、まるで戦場に降り立った光そのもののようだった。
「……光馬、騎士団」
アナイスは、目の前の光景に信じられない思いで呟いた。
その声を合図にしたかのように、光馬騎士団は一斉に駆け出す。
白馬の蹄が雪を蹴り上げ、敵陣へと突き進んでいった。
圧倒的な勢いで、次々と敵を蹴散らしていく。
その後ろに続くのは――
領地防衛に向かっていたダンデ率いる黒狼騎士団、そしてウォーデンに率いられた狼たち。
雪原を駆けるその姿は、まるで牙を剥く獣の群れのようだった。
「領地は……」
思わず零れた不安の言葉。
するとセルディアンは、それを遮るように、アナイスを抱き寄せる腕にわずかに力を込める。
「守り抜いた」
短く、だが揺るぎない声音。
その一言に、張り詰めていたものがふっとほどける。
アナイスは安堵に息を吐き、僅かに身体から力を抜いた。
目の前で繰り広げられる戦況は、一気にルヴァルティエへと傾いていく。
押し寄せていた増援も、光馬騎士団と黒狼騎士団の前では為す術もない。
瞬く間に押し返され、雪の上へと崩れ落ちていった。
その光景を、アナイスはただ呆然と見つめている。
それに気づいたセルディアンは、そっとアナイスの目を手で覆った。
視界を遮られたことで、かえって強く感じる体温。
包み込まれるような温もりに、張り詰めていた力が、少しずつほどけていく。
やがて、立っていることすら叶わなくなったアナイスの身体を、セルディアンは静かに抱き上げた。
横抱きにされたまま、アナイスは今にも閉じそうな瞳をかすかに瞬かせる。
その時――
ルヴァルティエの兵たちから、歓声が上がった。
それは、勝利を告げる声。
その響きに包まれながら、アナイスの瞼はゆっくりと落ちていく。
沈みゆく意識の中で――
「よくやった。……アナイス」
初めて呼ばれた、自身の名。
その声が、セルディアンのものなのか確かめたくて、必死に目を開けようとする。
けれど、それは叶わなかった。
(――これだけは、伝えなくちゃ)
かすれる息の奥で、言葉を紡ぐ。
「……おかえりなさい、セルディアン様」
その声が届いたのかどうかも分からないまま――
アナイスの意識は、静かに途切れたのだった。




