99話
頬を切るような冷たい風が吹きすさぶ。
アナイスが手元の時計を確認すると、時刻は間もなく正午を指していた。
砦の上から前方を見遣れば、黒く光るルヴァルティエの兵が整然と並ぶ。
その背には、揺るがぬ意志があった。
そして――
遠くから角笛の音が鳴り響く。
張り詰めた空気が、わずかに震えた。
やがて、マガダンの兵が雪煙を上げて攻め入ってくる。
「弓兵、構え!!」
ダンデの号令により、弓兵隊が一糸乱れぬ動きで狙いを定める。
「ギリギリまで引きつけろ!」
迫り来るマガダン兵が、防衛線へと差し迫る――その瞬間。
「放て!!」
その一声とともに、矢の雨が一斉に降り注ぐ。
くぐもった悲鳴。
白雪に飛び散る――赤。
アナイスは、その光景を見つめながら、知らず手を強く握りしめていた。
「アナイス様、大丈夫ですか?」
ダンデがわずかに視線を向ける。
その瞳には、気遣いの色が浮かんでいた。
――大丈夫。
そう言おうとして、アナイスは苦笑を浮かべる。
「大丈夫、ではありません。……人が傷つく姿を見るのは、胸が痛いです」
真っ直ぐ前を見据えたまま、正直な思いを口にする。
「それで、いいのです」
ダンデは穏やかに微笑んだ。
多くの戦を駆け抜ける中で、自分たちが失ってしまった感覚。
これからセルディアンと共にルヴァルティエを率いるであろうこの令嬢には、どうかそれを失ってほしくない――と、胸の内で願う。
馬上の兵たちが、マガダン兵と剣を交えていく。
その力は、明らかにルヴァルティエ側が優勢だった。
――だが。
「マガダン兵増援!マガダン兵増援!!」
偵察兵の叫びが響き渡ると、ダンデは眉を寄せた。
「……力で敵わぬなら、数で押す、か」
「本気でルヴァルティエを取りに来ているんですね」
セルディアン不在の今、ルヴァルティエを潰したい帝国。
そして、領地拡大を狙うマガダン。
混在する兵とその勢いに、アナイスは彼らの思惑をはっきりと感じ取った。
アナイスは胸元から、銀の笛を取り出す。
それは、旅立つセルディアンから託された、狼を呼ぶ笛。
『何かあれば、躊躇わずに吹け』
その言葉が、耳の奥で蘇る。
そっと唇を寄せ、息を吹き込む。
――音は、鳴らない。
ただ、空気だけが静かに震えた。
その時、ふと――
(……同じところに、口をつけているのね)
そんな場違いなことに気づき、アナイスはそっと自分の唇を指先でなぞる。
じわりと熱を帯びはじめた頬に、苦笑が浮かんだ――その瞬間。
森の合間から、狼の群れが飛び出してきた。
一直線に敵陣へと駆け抜け、そのまま次々となぎ倒していく。
その中でひときわ大きな体躯――黒く艶やかな毛並みの狼。
ウォーデンが、アナイスを見上げた。
まるで頷くような仕草。
次の瞬間、“守護者”の名に相応しく、雄々しく敵へと食らいつく。
圧倒的なルヴァルティエの力の前に、マガダンの兵は徐々に数を減らしていく。
――だが。
アナイスの胸には、妙な胸騒ぎが絡みついていた。
どれほど時間が経ったのか。
不意に、風に乗って甘い匂いが届く。
違和感に眉を寄せた、その瞬間――
狼たちの動きが、ぴたりと止まった。
そして一斉に、森の奥へと視線を向ける。
アナイスとダンデが顔を見合わせる。
その時――
「た、大変です!!」
一人の兵が転げるように駆け込んできた。
「何事だ」
ダンデの鋭い声に、兵は必死に言葉を絞り出す。
「魔獣です!魔獣が……大勢、動き出しました!!」
「魔獣?!」
ランスの声に、アナイスははっと息を呑む。
異国には、魔獣の動きを活発化させる香がある――
かつて耳にした話が、脳裏をよぎる。
魔獣の住まう森が隣接するルヴァルティエ。
それを利用される可能性は、十分にあったはずだ。
「……っ」
自らの迂闊さに、アナイスは唇を噛み締める。
すぐさま笛を取り、再び吹き鳴らした。
その合図に応じるように、狼たちは一斉に森へと駆け出していく。
――すでに彼らは、異変に気づいていた。
駆けていく狼たちの背を見送ると、アナイスはすぐにダンデを見上げた。
「ダンデ卿、騎士団を率い、ルヴァルティエ領へ向かってください」
「……出来ません」
ダンデは苦い表情で首を振る。
その瞳を、アナイスは真っ直ぐに見据えた。
騎士団の戦力を割けば、防衛線は確実に薄くなる。
それでも――
「ダンデ卿も、分かっていますよね?……人は領地を荒らしませんが、獣は違います」
静かな声だった。
だが、その奥にある覚悟は揺るがない。
領地拡大を狙うマガダンにとって、ここはいずれ“自分たちの地”となる場所。
無闇に荒らすことはない。
だが、魔獣は違う。
本能のままに――人も地も、すべてを蹂躙する。
領民のいる地か。
この防衛線か。
守るべきものは、明白だった。
「……仰せのとおりに」
ダンデは苦渋を滲ませながらも、深く頷く。
すぐに踵を返し、兵へと矢継ぎ早に命を下していった。
その背を見送りながら、ランスは静かにアナイスを見つめる。
「……屋敷の地下にある避難壕は、強固に造られております」
低く、抑えた声だった。
「万が一の場合は、そちらへ――」
「私は、行きません」
言葉を遮るように、アナイスはきっぱりと言い切る。
一瞬、風の音だけが二人の間を通り抜けた。
「……頑固者ですね」
ランスは小さく息を吐き、わずかに目を伏せる。
だがすぐに顔を上げ、真っ直ぐアナイスを見つめた。
「ならば、私が盾となり、アナイス様をお守りします」
その瞳に宿る覚悟。
その意味を受け取ったアナイスは、ゆるく首を振った。
「ランス卿。誓いの言葉は、覚えていますか?」
「それは……」
ランスの瞳が揺れる。
アナイスは背筋を伸ばし、凛とした眼差しで問いかけた。
「ランス・ブレナー。誓いの言葉を」
その声音に、ランスは苦しげに表情を歪める。
「……この身をもって主を守り――自らの命を守り抜く力を持つこと、です」
絞り出すような声だった。
自らの命を賭してでも守る――
そう決めていたはずの覚悟を、突きつけられる。
「そうです。自らの命を守り抜くこと……忘れないでくださいね」
アナイスは、やわらかく微笑んだ。
昼だというのに空は薄暗く、雪が静かに降り続いている。
その中に佇むアナイスは、凛とした強さを宿しながらも、どこか儚さを滲ませていた。
「……アナイス様も、ご自身の命をお守りください」
懇願にも似た声。
けれどアナイスは、ただ微笑むだけで答えなかった。
アナイスは、ぎゅっと剣を握りしめる。
――もし、この命を落とすことになったとしても。
セリオンには兄がいる。
必ずセルディアンが連れ戻してくれるという、揺るぎない信頼。
ルヴァルティエには、セルディアンがいる。
そして――三年後には、自分はこの地を離れる身だ。
それが、少し早まるだけ。
胸の奥に走る、わずかな痛み。
それを振り払うように、アナイスは顔を上げた。
「行きましょう、ランス卿」
「……はい」
なおも割り切れぬ思いを抱えたまま、ランスは重く頷く。
アナイスは、もう一度剣を握り直した。
(公爵様)
そっと名を呼べば、セルディアンの姿が脳裏に浮かぶ。
続いて、ノエランや屋敷の者たちの顔がよぎる。
一度、静かに目を閉じる。
迷いも、不安も、恐れも――すべて胸の奥へと押し込めて。
やがて目を開いたアナイスの瞳には、もう揺らぎはなかった。
――戦う覚悟だけが、そこにあった。




