98話
『狼に縋るしか能のない女が』
ラジャンが、聞き慣れぬ言葉で吐き捨てる。
それは――マガダンの言葉。
アナイスは、じっとラジャンを見据えた。
『……帝国に縋る貴方が、言えることですか?』
「……っ!?」
流れるようなマガダン語で返された言葉に、ラジャンは驚愕に目を見開いた。
『マガダンは、かつて誇り高き戦士の国でした。……帝国の駒に成り下がり、誇りを忘れてしまったようですね』
アナイスの瞳に、わずかな憂いが浮かぶ。
数十年前のマガダンは、王を筆頭に互いを守り合う、誇り高き戦士の国だった。
しかし敗戦により、その在り方は大きく歪められた。
今では、帝国に都合よく使われる駒の一つに過ぎない。
帝国の欲に任せて振るわれる力が、大きくなり過ぎたことに、アナイスは暗い感情を覚える。
その矛先が、自分の大切なものへと向けられている今、なおさらだった。
「……要件は伝えましたぞ。即刻、降伏されることを望みます」
ラジャンはそう言い残すと、踵を返す。
その瞳に一瞬よぎったわずかな哀色は、どうにもならぬ現実への焦燥か。
遠ざかる背をしばし見つめたのち、アナイスは一つ息を吐き、ダンデとランスのもとへ歩み寄った。
「念のため、領民たちはすでに避難させております。ノエラン様や屋敷の者たちも同様に」
ダンデは手短に領内の状況を伝える。
国境沿いにあり、魔獣の住まう森にも隣接するルヴァルティエ領は、万が一への備えを常に整えていた。
「アナイス様も、屋敷へお戻りください」
ランスが、まっすぐアナイスを見つめる。
その瞳には、懇願の色が滲んでいた。
その思いを理解しながらも、アナイスは緩く首を振る。
「私は、公爵様よりルヴァルティエを預かった身です。……ここで皆と戦います」
はっきりと言い切られた言葉に、ランスとダンデはそろって眉を寄せた。
「公爵様は、すごすごと隠れるような方ではないでしょう?」
アナイスはいたずらっぽく微笑む。
「……アナイス様に何かあれば、我々は公爵様に殺されます」
ダンデが真顔で呟く。
その声音には、冗談では済まされない重みがあった。
「ふふふ。では、私に何かあった時は、公爵様に呪いでもかけておきますね」
「……余計ややこしい事になるので、やめてください」
ダンデが溜息まじりに息を吐くと、アナイスは声を上げて笑った。
そのやり取りを見つめるランスの眉間には、なお深い皺が刻まれている。
それに気づいたアナイスは、やわらかく微笑みかけた。
「ランス卿、心配しないでください」
「……無理です」
消え入りそうな声音で、本音が零れる。
アナイスを守ると誓った。
それなのに――最も危険な場所に彼女を立たせるなど、ランスには受け入れられなかった。
ランスの言葉に、アナイスは苦笑を浮かべる。
本音を言えば――アナイスだって怖い。
日々鍛錬を重ねているとはいえ、実際に戦場に立ったことなどない。
人の死を目の当たりにし、動揺したのも、つい先日のことだ。
――けれど。
大切なものを守るために剣を取る。
それは、幼い頃に見てきた光馬騎士団の生き様だった。
アナイスは、胸の奥に芽生える臆病を押さえ込むように微笑む。
「それに、せっかく公爵様が用意してくださった騎士服を着ているんですよ?このまま帰るなんて、勿体ないじゃないですか」
そう言って、胸を張るように腰へ手を当てた。
剣の稽古を始めて間もない頃、セルディアンから贈られた一着。
それは“稽古着”と呼ぶにはあまりに立派で、彼が纏う騎士服に似た、凛とした装いだった。
アナイスの――譲らぬ笑みに、ついにランスは息を吐いた。
「……分かりました。共に、戦いましょう」
真っ直ぐにアナイスを見つめ、騎士の礼を取るランス。
その姿に応えるように、アナイスもまた静かに礼を返す。
アナイスはそっと、セルディアンに贈られた剣へと手を添えた。
その感触は、不思議と温もりを帯びているようで――
胸の奥に張りつめていたものが、わずかにほどけていく。
やがて来る戦いを前にしてなお、その温もりは、確かに彼女を支えていた。




