95話
「そろそろ行くか」
セルディアンは懐中時計を確認すると、静かに呟いた。
そして、後ろに控えていた一人の騎士へ視線を送る。
騎士は手にした箱をセルディアンに差し出し、それを受け取ったセルディアンはアナイスへと手渡した。
「これは?」
「開けてみろ」
アナイスは首を傾げながら、受け取った箱を丁寧に開ける。
そこに収められていたのは、シンプルな一本の剣。
アナイスはその剣を握ると、驚くほど手に馴染む感触に、思わず目を瞬かせた。
「セリオンの鍛冶屋に打たせた」
「セリオンの……」
アナイスはそっと鞘から剣を抜き放つ。
白銀の刃が光を受けて淡く輝き、刀身には駆ける馬の彫刻が施されていた。
それは、セリオンの騎士――光馬騎士団の象徴。
「今使っているものより、君に合っているはずだ」
「……ありがとうございます、公爵様」
アナイスは剣を胸に抱き、セルディアンを見つめる。
その瞳には、隠しきれない喜びが溢れていた。
それを見て、セルディアンはわずかに表情を緩める。
「それと、これを」
そう言って懐から取り出したのは、銀色に光る笛だった。
森を守る狼――ウォーデンを呼ぶときに使うものだ。
その笛に付いた鎖を、セルディアンはアナイスの首へとかけてやる。
「何かあれば、躊躇わずに吹け」
「何か……」
その不穏な言葉に、アナイスは首元で光る笛をぎゅっと握りしめた。
その様子に気づいたのか、セルディアンは安心させるようにそっと頭を撫でる。
「安心しろ。狼たちより早く、俺が駆けつける」
「……はい」
セルディアンの柔らかな笑みに、アナイスも小さく微笑み返した。
「あ、あの!」
いよいよ出立しようとするセルディアンを、アナイスは慌てて呼び止める。
そして手にしていた小さな袋から何かを取り出すと、そっと差し出した。
「受け取って、いただけますか?」
セルディアンはそれを受け取ると、手の中へ視線を落とす。
それは銀糸で作られたリボンだった。
ルヴァルティエの家紋を思わせる狼と、セルディアンの名が刺繍されている。
そして、その傍らには寄り添うようにラベンダーの花。
「セリオンでは、戦地に赴く騎士へリボンを贈る風習があるんです」
旅立つ騎士を見送る者が、祈りを込めて刺繍を施す。
――無事に、自分の元へ帰ってきますように、と。
アナイスもまた、一針一針に願いを込めて、この刺繍を仕上げた。
セルディアンへ何か返せないかと考えたとき、リセのリボンを見て思いついたのがこれだった。
「この刺繍は、君が?」
「……あまり上手くないですが……」
消え入りそうな声で答えると、セルディアンはリボンの刺繍を指先でそっとなぞる。
その仕草に、アナイスの頬がじんわりと熱を帯びた。
やがてセルディアンは、そのリボンを自らの剣へ丁寧に結びつける。
その様子に、想いが受け取られたのだと感じて、アナイスは胸の奥でそっと安堵の息を吐いた。
そんな二人を見守る視線に気づき、アナイスはぱっと明るい笑顔を浮かべる。
「皆さんの分も用意したんです!」
そう言って、騎士たちやカリスへとリボンを手渡していく。
それぞれの名と狼が刺繍されていた。
「ありがとうございます、アナイス様」
騎士たちは口々に礼を述べる。
まさか自分たちにまで贈り物があるとは思っておらず、胸の内が感激に震える――が、
背後から突き刺さる鋭い視線に、恐怖で背筋も同時に震え出す。
(絶対に、公爵様の方を見てはいけない)
騎士たちは視線を交わし合い、無言で頷いた。
――しかし。
「自分だけの贈り物ではなかったからといって、そんなに拗ねてはいけませんよ、公爵様」
セルディアンの傍で長年仕えているカリスは、その鋭い視線など意に介さず、軽口を叩く。
(カリス様……!火に油を注がないでください……!)
騎士たちの心の叫びなど露知らず、カリスは見せつけるように自分の銃へリボンを結びつけた。
「アナイス様、ありがとうございます。大切にします」
普段はあまり表情を変えないカリスの、柔らかな笑み。
そして、セルディアンが口にできなかった感謝の言葉。
それらを前にして、セルディアンの眉間にはさらに深い皺が刻まれていく。
その様子に、アナイスは慌ててセルディアンのもとへ駆け寄った。
そしてそっと背伸びをすると、内緒話のように耳元で囁く。
「ラベンダーの刺繍は、公爵様だけですから」
“自分だけ”という言葉と、耳元をかすめる柔らかな声。
その一言で、セルディアンの眼差しから鋭さが消えていく。
その変化に気づいた騎士たちから、ほっとした溜息がこぼれ、カリスは呆れたように肩をすくめた。
セルディアンはひとつ咳払いをして表情を整えると、真っ直ぐアナイスを見つめる。
「すぐに戻る」
「はい。いってらっしゃいませ」
柔らかく微笑むアナイスに頷き返すと、セルディアンは愛馬クラヴィスに跨り、今度こそ森の中へと歩を進めた。
次第に小さくなっていくその背中。
ふと空を見上げれば、暗く厚い雲の隙間から、雪がはらはらと舞い落ちてきた。
先ほどまで感じていた温もりが、胸の奥からゆっくりと冷えていく。
もう一度、セルディアンの去った方へ視線を向ける。
しかし、そこにはもう彼らの姿はなかった。
なぜか、言いようのない胸騒ぎがアナイスを襲う。
それを振り払うように、アナイスはセルディアンから託された銀の笛を強く握りしめたのだった。




