94話
セルディアンがアストラへ発つと告げてから、ほどなくしてその日を迎えた。
旅立つ一行を見送るため、アナイスは初めて国境沿いに築かれた、ルヴァルティエ公爵領の防衛線に訪れていた。
「わぁ……すごいですね」
思わず、感嘆の声がこぼれる。
目の前にそびえ立つのは、巨大な城壁。
その周囲には、それを支えるようにいくつもの砦が点在している。
それらはまるで――
この地に生きる者たちの誇りと意志、そのすべてを形にしたかのように。
静かに、しかし確かな威圧をもって、外敵の侵入を拒んでいた。
「建設以来、一度も破られたことのない壁だ」
アナイスに倣い城壁を見上げるセルディアンの声には、自信と自負が滲んでいた。
壁の表面には、無数の傷が刻まれている。
その一つひとつが、この地が戦場であった証。
そう思うと、アナイスの胸に静かな痛みが走った。
「……帝国内が平穏でいられるのは、公爵様のおかげですね」
「今では、その“帝国内”にいる敵のほうが多くなってきたがな」
セルディアンは肩をすくめ、皮肉げに笑う。
「いっそ、領地の境にも壁を建てるか」
「……これ以上、皇室からの苦情が増えるようなことはおやめください」
後ろに控えていたカリスが、露骨に顔をしかめた。
補佐官であるカリスも、今回の旅に同行する。
いつもの隙のないスーツではなく、マントを羽織ったその姿はどこか新鮮で、アナイスは思わず見入ってしまった。
視線に気づいたカリスは、小さく溜息をつく。
その表情は、今回の同行が不本意であることを物語っていた。
「……騎士たちだけでは、語学力が心許ないので」
ちくりと刺すような一言に、騎士たちは気まずそうに苦笑を浮かべる。
彼らが向かうアストラ連邦は、多くの国が集まって成り立つ国だ。
“連邦”とは名ばかりで、文化も言語も統一されていない。
広大な連邦国内を探るには、多様な言語を理解できる者が必要だった。
武を主とする騎士たちでは、確かに分が悪い。
アナイスが慰めるように微笑むと、セルディアンがふんと鼻を鳴らした。
「戻ったら、君に言語の授業をしてもらうか」
「え?」
「君は、公用語以外も話せるのだろう?」
セルディアンは、アナイスの居た納屋の光景を思い出す。
そこに並ぶ本の中には帝国外の本も数多くあった。
セルディアンの視線の意味に気付いたアナイスは照れたように笑う。
「公爵様も、授業に参加されるのですか?」
「はっ。私を誰だと思っている」
「公爵様は理解していても、言葉より先に手が出るではありませんか」
セルディアンの自信に満ちた言葉に、カリスがすかさず皮肉を差し込む。
「……今日はやけに饒舌だな、補佐官殿?」
「アナイス様との別れを惜しんでいるだけですよ」
セルディアンが鋭い視線を向けるが、カリスはどこ吹く風と受け流す。
二人の気安いやり取りに、アナイスは思わず小さく声を上げて笑う。
――見送る胸の張りつめも、ひととき和らいだ気がしたのだった。




