1話
冷たい風が吹きつける夜、セリオン侯爵邸はひっそりと静まり返っていた。
廊下に灯る燭台の火は弱々しく、壁に映る影が揺れている。
一日中、冷たい水仕事をしていたアナイスの指先は赤くひび割れていた。
その痛みを和らげる薬をこっそり取りに行くため、彼女はそっと厨房を抜け出す。
誰にも気づかれぬよう、息を殺しながら。
執務室の前を通り過ぎようとしたそのときだった。
少し開いた扉の隙間から、笑い声が漏れ聞こえる。
聞き慣れた、しかし決して聞きたくはなかった声。
ドーラ夫人の甲高い声だった。
「この薬よ、レイチェル。あの娘の食事にほんの少し混ぜれば…」
「やっとなのね、お母様!」
レイチェルの弾む声が続いた。
「お金が入ったら何を買おうかしら! そうだわ!アバナールの新作ドレスを買いに行かなくっちゃ。きっと公爵様の目にもとまるはず!」
「高いお金を払って買った薬よ!ちゃーんと“元”は取らなくちゃ」
そう話す夫人の目は、これから買う宝石や調度品を思い、ギラついていた。
二人の笑い声が、静まり返った廊下に不気味に響く。
アナイスは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
自分の命を奪う話を、まるでお茶会の話題のように笑っている。
その事実に、恐怖よりも深い悲しみが湧き上がる。
(――もう、ここにはいられない)
その瞬間、アナイスの脳裏に一人の男の名がよぎった。
セルディアン・ルヴァルティエ公爵。
北方の地を守る「黒き狼」。
冷酷無慈悲と噂されるその人こそ、かつて両親が自分を預けようとしていた人物。
――彼に会いに行こう。
そう思ったとき、胸の奥に小さな希望の灯がともった。
彼女は足音を立てぬよう、自室として与えられたボロ小屋へ戻り、急いで小さな鞄を用意した。
セリオン家の紋章が刻まれたペンダント、僅かな金貨、そして黒い小袋に入った封蠟印を詰める。
外は、冬を告げるような冷たい風が吹いていた。
満月が雲間に覗き、古い屋敷の屋根を照らしている。
アナイスは玄関の前で一度立ち止まった。
振り返れば、幼い頃の思い出が詰まった屋敷が、闇の中に沈んでいる。
「……必ず、セリオン家の名誉と誇りを取り戻すわ」
その言葉を胸に刻み、アナイスは深く息を吸い込むと、森の暗闇へと一歩を踏み出した。
………
森を抜ける風は鋭く、木々の枝を鳴らしていた。
アナイスはマントを締め、ひたすら北を目指して歩き続ける。
夜の森は静かだが、時折どこからか獣の遠吠えが聞こえ、心臓が跳ねた。
月明かりだけが、彼女の道しるべだった。
足元の枯葉が濡れて滑り、何度も転びそうになる。
それでも、立ち止まることはなかった。
(……あのまま屋敷にいたら、きっと今頃……)
思考を振り払うように、アナイスはマントの裾を握りしめた。
一夜を森で過ごし、夜明けとともに街道へ出る。
夜明けの光が差し込むと、靄に包まれた道の先に、乗合馬車の停留所が見えた。
馬車に乗り込み、ひと息ついたとき、ようやく現実が静かに押し寄せてくる。
――後戻りはできない。
けれど、後悔はなかった。
その瞳には、恐怖よりも強い決意が宿っていた。




