地下鉄テロ
# 最後の地下鉄
## 1. 午後11時58分
地下鉄の最終電車が駅を出発する時、車両には七人の乗客がいた。
田中雄一は疲れ切った表情で、営業資料の入ったカバンを膝の上に置いていた。三十二歳のサラリーマン。残業続きで家に帰るのは今日も日付が変わってから。妻からの着信を無視し続けている。
向かい側の席には、看護師の制服を着た女性が座っていた。名札には「佐藤美香」とある。夜勤明けなのか、目の下にクマを作りながらも、スマートフォンで何かを熱心に調べている。
車両の端には、黒いフーディを深く被った男がいた。顔は見えないが、時々周りを警戒するように視線を動かしている。手には古いスポーツバッグを握りしめている。
高校生らしい二人組が、小声で何かを話している。制服から私立の進学校の生徒だとわかる。塾帰りだろうか。
そして、一番後ろの席には初老の男性が座っていた。スーツは高級そうだが、なぜかこんな時間に地下鉄に乗っている。手には分厚い封筒を持っている。
最後に、車掌室の近くに立っていたのは、二十代後半の女性だった。ビジネススーツを着ているが、どこか落ち着きがない。頻繁に腕時計を見ては、深いため息をついている。
電車は地下深くを走り続けていた。次の駅まではあと三分。
その時、突然車内の電気が消えた。
## 2. 暗闇の中で
「停電?」
田中の声が暗闇に響いた。スマートフォンの明かりがいくつか点灯し、車内がぼんやりと照らされる。
電車は急激に減速し、完全に停止した。エンジン音も消え、異様な静寂が車内を支配する。
「おかしいですね」看護師の佐藤が立ち上がった。「地下鉄の停電なんて、そうそうあることじゃない」
フーディの男が急に立ち上がる。「まずい」と小さくつぶやいた。
「何がまずいって?」高校生の一人が不安そうに聞く。
「いや、なんでもない」男は再び座り込んだが、スポーツバッグをさらに強く握りしめた。
ビジネススーツの女性が車掌室のドアを叩く。「すみません!車掌さん!何が起きているんですか?」
しかし、車掌室からは何の反応もない。
初老の男性がゆっくりと立ち上がった。「皆さん、落ち着いてください。きっと一時的な障害です」
その時、車内のスピーカーから雑音混じりの声が聞こえてきた。
「こちらは緊急放送です。現在、地下鉄全線で緊急事態が発生しています。乗客の皆様は、車内で待機してください。外部への連絡は控えてください」
放送はそこで途切れた。
「外部への連絡を控える?」田中が首をかしげる。「なんで?」
佐藤がスマートフォンを確認する。「圏外になってる。さっきまで電波あったのに」
全員がスマートフォンを確認したが、すべて圏外表示だった。
## 3. 疑念の芽生え
高校生の一人、田村が震え声で言った。「僕たち、閉じ込められてるんじゃないですか?」
「そんなわけないだろう」田中が否定するが、声に確信はない。
フーディの男が急に立ち上がり、ドアに向かった。非常用のコックを回そうとするが、びくともしない。
「開かない」男の声は冷静だったが、汗が額に浮かんでいる。
「当然よ」ビジネススーツの女性、林恵子が言った。「地下鉄のドアは駅以外では開かないようになってる」
「じゃあどうすればいいんですか?」もう一人の高校生、山田が泣きそうになっている。
初老の男性、吉田が再び立ち上がった。「皆さん、自己紹介をしませんか?こういう状況では、お互いを知ることが大切です」
「今そんな悠長なことを」田中が反対しかけたが、佐藤が遮った。
「いいかもしれません。私は佐藤美香、看護師です。都内の総合病院で働いています」
「田中雄一です。商社で営業をしています」
高校生たちも自己紹介した。田村と山田、どちらも高校二年生。
林恵子は証券会社に勤めているということだった。
フーディの男は最初黙っていたが、やがて重い口を開いた。「鈴木です」名前だけで職業は明かさなかった。
最後に初老の男性が言った。「吉田と申します。実は、政府関係の仕事をしております」
その瞬間、車内の空気が変わった。
## 4. 真実の断片
「政府関係って、具体的には?」林が詰め寄る。
吉田は少し躊躇ってから答えた。「内閣府の危機管理室です」
鈴木の表情が一瞬強張った。
「それなら、今の状況について何か知ってるんじゃないですか?」田中が食いつく。
「実は」吉田が封筒を見つめながら言った。「今夜、東京で大規模なテロ計画があるという情報を掴んでいました」
車内が静寂に包まれた。
「テロ?」佐藤の声が震える。
「はい。地下鉄を標的にした生物化学テロの可能性が」
その時、鈴木が突然立ち上がった。「やっぱりな」
全員の視線が鈴木に向けられる。
「あんた、何者だ?」田中が警戒する。
鈴木はフーディを脱いだ。現れたのは鋭い目つきの三十代前半の男性だった。
「警視庁公安部、鈴木和也。このテロ計画を追っていました」
吉田の表情が変わった。「まさか、あなたが」
「ああ。おとり捜査で、テロリストの一員として潜入していた。そして今夜、決行されるはずだった」
林が震え声で聞いた。「私たち、巻き込まれてるの?」
鈴木がスポーツバッグを開いた。中には通信機器と拳銃が入っていた。
「このバッグの発信器で居場所を探られていた。電車が止まったのは、テロリストたちがシステムをハッキングしたからだ」
## 5. 敵の正体
佐藤が顔を青くした。「じゃあ、私たち人質にされてるってこと?」
「可能性は高い」鈴木が通信機器を操作する。「本部と連絡を取ろうとしているが、電波が完全に遮断されている」
吉田が封筒を握りしめる。「この中にテロ計画の詳細が入っています。なんとしても外部に伝えなければ」
その時、車内のスピーカーから新たな声が響いた。今度は先ほどとは違う、冷たい男の声だった。
「車内の皆様、お疲れ様です。私はこの作戦の指揮官、コードネーム『ヴァイパー』と申します」
全員が息を呑んだ。
「皆様の中に、私たちの計画を妨害しようとしている者がいることを承知しております。鈴木和也警部補、そして吉田課長、お二人のことです」
鈴木と吉田が顔を見合わせた。
「お二人には選択肢を与えましょう。その封筒と通信機器を車両最前部に置き、両手を頭の後ろで組んで座る。そうすれば他の乗客に危害は加えません」
林が泣き始めた。「どうしてこんなことに」
「制限時間は五分です。従わない場合、車両に毒ガスを充満させます」
田村が震え声で言った。「毒ガス?死んじゃうんですか?」
佐藤が田村の肩を抱いた。「大丈夫、きっと何とかなる」
しかし、その声は自分自身を励ますもののようだった。
## 6. 決断の時
鈴木が立ち上がった。「みんなを巻き込むわけにはいかない」
「待ってください」吉田が制止した。「この封筒の中身が外部に渡れば、東京で何万人もの命が危険にさらされます」
「でも今ここにいる人たちの命も大切でしょう!」田中が叫んだ。
林が絶望的な声で言った。「どっちにしても、私たち殺されるんじゃない?証人だから」
その時、佐藤が何かに気づいたように立ち上がった。
「待って。私、この声聞いたことある」
全員が佐藤を見つめた。
「病院で。患者として来てた人の声」
「患者?」鈴木が詰め寄る。
「三か月前。重傷で運ばれてきた男性。でも身元不明で、回復したら勝手にいなくなった。その人の声よ」
鈴木の目が鋭くなった。「その時の怪我の状況は?」
「銃創でした。しかも複数」
「やはり」鈴木がスポーツバッグから資料を取り出した。「この男だ。国際テロ組織のメンバー、本名は不明。ヴァイパーという偽名で活動している」
## 7. 反撃の開始
「残り三分です」スピーカーから冷たい声が響く。
鈴木が決断した。「よし、賭けてみる」
「何をするの?」山田が震え声で聞いた。
「こいつの弱点を突く」鈴木が天井の通気口を見上げた。「佐藤さん、その患者、他に何か特徴はありましたか?」
「そうですね」佐藤が記憶を辿る。「極度の閉所恐怖症でした。MRI検査の時、パニック発作を起こして」
鈴木の顔に笑みが浮かんだ。「それだ」
鈴木は車両の電気系統のパネルを開けた。「みんな、これから車内を完全に真っ暗にする。そして全員で大声で叫ぶんだ」
「何を叫ぶんですか?」田中が聞いた。
「『閉じ込められた!出してくれ!』って。閉所恐怖症の奴には効果的な心理攻撃だ」
吉田が疑問を呈した。「そんなことで」
「やるしかないだろう!」鈴木がケーブルを引き抜いた。
車内が完全に真っ暗になった。
「今だ!」
七人の声が車内に響いた。
「閉じ込められた!」
「出してくれ!」
「真っ暗で怖い!」
「助けて!」
## 8. 心理戦
約三十秒後、スピーカーから荒い息遣いが聞こえてきた。
「やめろ!うるさい!」
明らかに動揺している声だった。
鈴木が小声で指示した。「効いてる。続けろ」
再び七人の声が響く。今度はさらに切実に。
「狭くて息ができない!」
「壁が迫ってくる!」
「出口がない!」
「やめろ!やめてくれ!」スピーカーの声は半ばパニック状態だった。
その時、かすかに機械音が聞こえた。システムが再起動している音だった。
「今だ!」鈴木が通信機器のスイッチを入れた。「本部、こちら鈴木。緊急事態だ」
通信が繋がった。
「こちら本部。鈴木、無事か?」
「はい。テロリストに車両を乗っ取られましたが、心理戦で混乱させることに成功しました。位置情報は」
「把握している。救助部隊が向かっている」
その時、再びヴァイパーの声がスピーカーから聞こえた。しかし、さっきまでの冷静さは完全に失われていた。
「くそ!計画が!」
機械音が響き、車両のドアが少し動いた。
## 9. 脱出への道
「ドアが動いてる!」田村が興奮して叫んだ。
鈴木が非常コックに向かった。「みんな、手伝ってくれ」
七人が力を合わせてドアを開こうとした。少しずつドアが開いていく。
「あと少し!」
ついにドアが半分ほど開いた。
「一人ずつ出るぞ。高校生から先だ」
田村と山田が先に線路に降りた。次に佐藤と林。
「吉田さん、その封筒を」鈴木が手を伸ばした。
「はい」吉田が封筒を手渡した瞬間、車両の向こうから足音が響いてきた。
「急げ!来るぞ!」
田中と吉田が飛び降り、最後に鈴木が続いた。
七人は暗い地下トンネルを走り始めた。後ろから複数の足音が追ってくる。
「こっちだ!」鈴木が懐中電灯で道を照らす。
約二百メートル走ったところで、前方から光が見えた。
「救助隊だ!」
## 10. 結末
地上に出ると、警察車両と救急車が何台も待機していた。
「みんな無事か?」警察官が駆け寄ってきた。
「はい」佐藤が答えた。「でもテロリストたちは」
「既に全員確保済みです。鈴木警部補の作戦が見事でした」
ヴァイパーを含む五人のテロリストが手錠をかけられて連行されていく。ヴァイパーは明らかに精神的に参っている様子だった。
吉田が封筒を上司に手渡した。「これで東京のテロは阻止できます」
## エピローグ
一週間後、七人は再び会っていた。場所は佐藤が働く病院の近くのカフェ。
「まさか心理戦でテロリストを撃退するとは思いませんでした」田中が笑いながら言った。
「佐藤さんの医療知識がなければ、ヴァイパーの弱点はわからなかった」鈴木が感謝の言葉を述べた。
高校生の田村と山田は、この体験を作文にして学校で発表したという。
「僕たち、生きてるって実感できました」山田が真剣な表情で言った。
林は「あの夜以来、毎日を大切に過ごすようになりました」と語った。
吉田は「皆さんのおかげで、大きなテロを未然に防ぐことができました。本当にありがとうございました」と深く頭を下げた。
鈴木は「あの日、たまたま同じ車両に乗り合わせた七人。でも偶然じゃなかったのかもしれませんね」と言った。
「運命だったのかも」佐藤が微笑んだ。
外は夕暮れ時。街には平和な日常が戻っていた。しかし七人は知っていた。平和な日常がどれほど貴重なものなのかを。
そして彼らは、あの暗闇の中で学んだことを忘れることはないだろう。絶望的な状況でも、人は協力すれば道を見つけ出せるということを。
最後の地下鉄での出来事は、七人の人生を永遠に変えた。それは恐怖の夜であり、同時に希望を見つけた夜でもあった。
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【完】
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