第三章 集う者たち(3)
3
ーー油断した。
我ながら呑気なものだと、エクリプスは思う。ひょっとしたら、浮かれていたのかもしれない。久々に出会ったマスターや、それを支えてくれそうな仲間の存在に気を取られて、肝心なことを忘れていたように思う。
(マスター…)
今のマスターは、本当に心の綺麗な人間だった。子ども故の純真さかもしれないが、真っ直ぐに自分を信じて慕ってくれる様子に、エクリプスの心も洗われるようで心地よかった。ある意味、現実逃避に等しい感覚だ。……そう。現実は、残酷だった。
「これで、この町は安泰だな」
「にしても、こいつが本当にそうなのか?人間にしか見えないが……」
「私の友達が昔見たことをあるって言ってた特徴に一致するし、一緒にいた子どもが"エクリプス"って呼んでいたから、間違いないわよ」
「子ども、かぁ……あまりにも主が見つからなすぎて、子どもを懐柔したのか……大した使命感だな。なんだか、可哀想な気もするが……」
「勇者の剣なんて言っても、大した事ないよな。いつまでも魔王を倒せないんだから、もう諦めればいいのに。大人しくしてりゃ、魔王だって何もして来ないんだし」
「そもそも、こんなのが居るせいで魔王がいつまでも人間を警戒してるんじゃないか?」
「全くだ」
「まあ、でも、壊しちまうのも勿体ない気がするな……魔族に特効なんだろ?本当に魔王を倒せるかもしれないぞ」
「じゃあ、お前が行くか?今じゃ、魔王討伐を謳った市民は良くて投獄、悪くて死刑だぞ?」
「だよなぁ〜」
周りが様々なことを言っているが、目隠しをされ後ろ手に縛られているせいで、エクリプスにはどんな人が何を言っているのか分からなかった。音の聴こえ方からして、エクリプスを円形に取り囲んでいるようだ。しかし、目隠しをされていて良かったとさえ、エクリプスは思っていた。もし顔を見ていたら、エクリプスは衝動的に斬り殺してしまいたくなっていただろう。人型とはいえ、魔族に近い状態であるエクリプスは、睨むだけで鎌鼬を起こして対象を斬る事が出来た。ただ、人間に対してそう思ったことはあっても、実際に斬ってみたことはなかったが……。
(私も、だいぶ魔族よりになってきたのでしょうか…)
度重なるマスターの裏切りで、エクリプス自体も、この世界を魔王や魔族から解放すべきか否か、悩むようになった。別に世界の支配者が人間である必要はない。たまたま知恵や数の多さで世界中に広がった人間だが、支配者として相応しいのかは疑問が残る。ただ一つ言えるのは、人間が群れをなす生き物だからこそ、ここまで繁栄したのだと言うこと。魔王の力は絶大だが、それを他の為に使うわけではなく、あくまで自分に都合の良い状態にする為に使っている。何かを生み出す訳では無いのだ。全てが自分のためであり、故に世界は、現状維持か悪化のどちらかでしかなくなってしまう。
エクリプスは、人間によって作られたので魔王を倒そうと考えてきたが、それは人間のエゴでしかない。けれど……。
(魔王が自分勝手に振る舞うせいで、マスターやジオーラのような境遇の人間がいるのが事実。だから私は、魔王を倒したいんだ…)
結局、人間を愛しているのだと思う。人間の願いにより生まれて、人間に翻弄される日々だったけれど、人間に救われることもある。魔族ではなく、人間になってみたいと願ったのも、結局は人間を愛している故に、同じ景色が見たかったからなのかもしれなかった。
(さて……どうやって切り抜けようか……)
ここにいる人間に極力危害を加えずに逃げる方法を考える。しかし、睨むだけで鎌鼬を起こせるものの、その目を塞がれていては発動出来ない。
(魔族の誰かに、私の能力を聞いたのでしょうか…)
考えてみれば、エクリプスが捕らわれるまでは、実に用意周到だった。ユースティティアと話したあと、荷車の車輪が外れたため、直すのを手伝ってほしいと声を掛けられた。それに応じて車輪を直していると、不意に数人の男に囲まれ、押さえつけられた。体術を駆使して逃げようとすると、手の平サイズの小瓶に入った水を掛けられ、その瞬間、痺れたように身動きが取れなくなった。恐らく、聖水の類だったのだと思う。山の清水を瓶に入れ、信心深いシスターが、三日三晩寝ずに祈りを捧げると出来るといわれる聖水は、魔族避けに役立っていた。本来は悪魔にしか効果が無いはずだが、魔王は悪魔の住む異界の住人だったそうで、そのことから魔族には少なからず効果があるようだった。悲しいかな、魔王の指から出来ているエクリプスも例外無く、効果があった。
魔王が世界を支配するようになってから、教会の類は壊され、神父やシスターは殺された。神を信仰している者は神父たちと同様に殺すと脅され、逆に魔王を神と崇めるなら、お咎めなしだった。そんなことから、創造神に祈る者は表向きには居なくなっていたが、聖水があるということは、まだ細々と信仰を守っている者が居たということなのか、あるいは魔王がエクリプスに使えると踏んで、取っておいたのかは分からない。とにかく、聖水のせいで身動きが取れなくなったエクリプスは、同じく聖水が染み込んだロープで縛り上げられて、今いる場所へと運ばれてきた。一体何をするつもりなのか、数人でエクリプスを取り囲んでいる。
「おい、エクリプス」
不意にエクリプスの正面から男の声がする。
「……なんでしょう?」
エクリプスが顔を上げると、フッと鼻で笑う声がする。
「なんだ。喋れるんじゃないか。ずっと黙っているから、どうにかなっちまったのかと思ったぜ」
「…私に…発言権があるとは思えなかったので」
「おお!意外と物分りが良いんだなぁ」
男は可笑しそうに笑う。
「ところで、話しかけて下さったということは、私も質問してもよろしいのでしょうか?」
「それは、質問によるなぁ〜。だが、お前もこの状況の意味は、大体は察しているんじゃないか?」
「……私の破壊…ですか?」
「正解!」
「愚かな……私抜きでは、魔王を倒すのは夢のまた夢。あなた方は、魔王からの解放を望んではいないのですか?」
「魔王に従ってれば困りはしないさ。逆らおうとするから、報復があるんだろ?いくら魔王だって、何もしない市民を痛めつけたりしない」
「…本当に、そうでしょうか?魔王は人間を都合の良い駒くらいにしか思っていませんよ。けしてあなた方の暮らしを守ってくれる訳では無い。飢えようが死のうが関係ない。それでも、魔王に従うと言うのですか?」
「…ぅう……仕方ないだろっ!お前が本当に魔王を倒せる剣だって言うなら、何故まだ魔王が健在なんだよ!それはいくらお前でも、難しいってことなんじゃないのか?お前を壊せば、この町には特別な計らいをするって魔王は約束したんだ!俺は、もしかしたらなんていう夢物語より、現実的な話を信じるんだ!……もういい!おいっ!さっさとやるぞ!」
男が声を荒げると、エクリプスの周りを取り囲む人々にも動きがあった。ゴソゴソと動く音がして、やがてヒュン!と風を切る音がしたと思えば、エクリプスは頭に衝撃を感じて、床に横倒しになった。
(何かで、殴られ…た?)
エクリプスは痛みを感じないが、傷がついたり、破損することはある。特に人型の時は、人間のように体が脆くなる。しかし、何故か、今はーー
「…ガハッ!」
(これは……痛…み…?)
強い衝撃に意識が飛びそうになった。何故かはわからないが、エクリプスは生身の人間のように痛みを感じていた。
周囲の人々は、恐らく棒などの武器を持って、エクリプスを叩き続けた。鈍い音が響く、何か熱いものが流れて、肌を濡らす感覚がする。
(剣に戻れば…っ!)
傷つきにくい剣に戻ろうとしたがしかし、何故かエクリプスは剣には戻れなかった。不思議に思っていると、笑い声がする。
「お前は今、悪魔封じの陣の上にいる。特殊能力は使えないぞ!」
「…悪魔封じ……」
かつては位の高い司祭が使えていたという悪魔封じなど、悪魔に対抗する魔術。それは魔王のせいで悉く葬られていた。先程の聖水といい、この陣といい、この町には魔王からの排除を逃れた教えが残っていた。恐らくはそこにつけ込まれ、このようなことになったのだろう。ここでエクリプスの破壊が出来なければ、今度こそこの町は、魔王によって焼け野原にされてしまうのかもしれない。
(皮肉ですね…)
魔王を倒して本来の世界に戻そうとしているエクリプスを、よりによって本来の世界の象徴とも言える創造神への信仰によって生まれた力が、排除してこようとする。
(退魔の力を守り遺した先人達が今の状況を見たら、なんと言うのでしょうね……それとも、私はもはや、世界にとっては異物に成り下がりましたか?創造神という御方が本当にいるのだとしたら、この状況は、あなたが意図したものなのでしょうか?……何人ものマスターに仕えながら、結局どなたも魔王討伐が叶わなかった為に、私に与えられた罰なのでしょうか?)
四方八方から殴られながら、エクリプスは誰ともなく問いかける。それは奇しくも、神への祈りのようだった。このまま、破壊されてしまうと、エクリプスが諦めかけたその時ーー。
「エクリプスっ!!」
突如としてドンッ!!という大きな物音がし、聴き慣れた声が響いた。
※
「エクリプスっ!!」
オルテンシアは古びた教会の扉を蹴破って中に入り、目の前の光景に息を呑んだ。恐らく礼拝堂と思わしき室内の中央に、縛られたエクリプスを輪になって一方的に棍棒で殴りつけている人々がいた。エクリプスはどういうわけか全身血まみれで、体は痣だらけ、着ていた服はボロボロになっていた。
「あんたら!!何してんだっ!!」
ジオーラが怒鳴り込むと、人々は震え上がって手を止め、エクリプスから離れた。
「エクリプスっ!エクリプスっ!」
オルテンシアは泣き叫びながらエクリプスに駆け寄ると、エクリプスの頭を抱きかかえる。
「…ます…たー…?」
それまで身動き一つしなかったエクリプスが掠れた声で呟く。
「……マス…ター……変、なんです……私、まるで、生き物のように……」
「いい!今は何も言わなくていいからっ!今、解いてあげるね」
オルテンシアはエクリプスの手を縛っている縄を解いて、目隠しを外した。
「お、おい…勝手をするな」
近くにいた男がオルテンシアに近づこうとしたが、「動くなっ!!」とジオーラが剣を向けると、ビクッと跳ねて、動きを止めた。
「あんたら、エクリプスに何をした!?」
ジオーラが問うも、誰も怯えた顔をするだけで答えない。
「…これは……魔法陣です!オルテンシアちゃん!エクリプスさんを、陣から出して下さい!」
ジオーラの後ろにいたユースティティアが声を上げる。
「陣?」
オルテンシアが床を見ると、複雑な模様が描かれた円形の陣が見えた。オルテンシアはエクリプスを引きずって陣から離そうとするが、ぐったりしているエクリプスは重くて動かせなかった。
「手伝うよ」
ジオーラは周りの人々を警戒しつつ、オルテンシアと協力して、エクリプスを陣から離した。すると、エクリプスは淡く白い光に包まれ、剣の姿になった。所々刃が欠けたり、錆が目立つ。
「どうして?エクリプスは刃こぼれしたりしないって……」
オルテンシアは驚いて、まじまじと剣を見つめる。
「それはとりあえず、後だ。まずはここから逃げよう!」
ジオーラがオルテンシアの腕を引いて外に出ようとしたそのとき、「やれやれ。結局こうなったか…」と、どこからともなく男の声がした。ジオーラはサッと剣を構えて警戒する。オルテンシアもそれに倣って、エクリプスを構えようとしたが、剣がボロボロなのを思い出し、鞘にしまって守るように抱きしめた。
声の主は、礼拝堂の後方の説教台の上に突然、現れた。浅黒い肌、耳は横に長く複数の金のピアス、首にはチェーンのネックレス、両腕にバングル、黒い革製の服を着ていたが、上着の前はファスナーを閉めずに着ているので、細いが筋肉質な素肌が見えているという、派手な見た目の男の瞳は黄金で、挑戦的に輝いている。十代後半の少年にも見える若い見た目をしていた。説教台に足を組んで座っては、足をブラブラと前後に揺らしている。見た目はラフに見えても、場にいる者が自由に動く事を許さないどこか威圧的な雰囲気があり、恐らく魔族であろうことは、察しがついた。
「なんだい?あんた」
しかしこの状況でも、ジオーラは怯まずに声を上げた。その様子に、オルテンシアは心底尊敬した。
男は口の端を上げてニヤリと笑う。
「大した奴も居たもんだな。俺を前にそんな口が利けるなんて…」
男が言ったか言わずかで、ジオーラが突然後方に飛んで、背中を思い切り教会の入り口付近の壁に打ちつけて倒れた。「っうぅ…」突然のことに、ジオーラは反応出来ずに苦しげに呻いた。ブレストアーマーをつけていたから良かったものの、無ければ背骨が折れていたかもしれない程の衝撃だった。
「ジオーラっ!!」
オルテンシアはジオーラに駆け寄ろうとしたが、「余所見すんなよ」と、男が一瞬でオルテンシアの正面に至近距離で立ち塞がった。
「っ!!」
オルテンシアは慌てて後へ跳んで距離を取る。咄嗟にエクリプスの柄に手を伸ばして、鞘から抜こうとしては思い留まる。ただ柄に手を置いたまま、男を睨む。
「なんだ?エクリプスを使わないのか?…ああ、使えないのか。なんたって、ボロボロだもんなぁ〜」
男は愉快そうに言う。
「惜しかったなぁー。あと少しでエクリプスを壊せるところだったのに……まったく…使えない連中だ。せっかく俺が倒し方を伝授してやったというのに」
男は横目で、怯えた様子で部屋の隅に固まっていた町民達を睨む。すると、不意に町民達を黒い靄が包み、一人の男が喉を掻きむしりながら苦しみ始め、ものの数秒で全身から血を吹き出しながら破裂した。辺りに細かな肉片が散らばる。その様子を見て残り四人居た町民は悲鳴を上げて外へ出ようと駆け出したが、「逃がすわけないだろ。連帯責任だ」魔族の男が呟いたと同時に、皆最初に倒れた男同様に苦しみながら破裂していく。そのあまりに凄惨な光景に、オルテンシアは目を見開いて、声も出せずに固まっていた。近くにいたユースティティアも青い顔をして、床にへたり込む。
『…マス…ター…』
「ッ!?」
エクリプスの声がオルテンシアの脳内に響いた。どこか苦しそうな声に、オルテンシアは込み上げる涙を懸命に堪える。
『…マスター……私を、使って…下さい…』
(嫌っ!!嫌だよ!エクリプス!だってあなた、ボロボロじゃない。死んじゃうよ!)
『私は、大丈夫です。……魔族には、負けません』
(嘘!だって、そんな苦しそうな声出してるじゃない!)
『ですが、今戦わないと……みんな、殺されてしまいます。いいのですか?』
オルテンシアはハッとして、周囲を見渡す。入り口付近に倒れるジオーラ、オルテンシアの横で座り込むユースティティア……今戦えるのは、自分だけ……。
『マスター。お願いします。魔族は私を壊せません。それを信じて、どうか……』
祈るようなエクリプスの声を受け、オルテンシアは震えながらも剣を鞘から引き抜いた。刃がガタガタで、錆に塗れていたが、それでもいつものように白い輝きを放っていた。
「へぇ~。そんなんなっても、まだ力があるんだな……流石は魔王様の片割れだ」
魔族の男は感心したように言うと、両腕を大きく広げてから、右手を左胸にあて、恭しく頭を下げる。
「俺の名はヴィシャス。邪魔者の暗殺が生業の魔族だ。以後、お見知り置きを……ああ、でも、ここでお前ら全員殺すんだから、"以後"はないなぁ!これは失敬」
言ってヴィシャスは、天を仰いで高らかに笑って見せる。ひとしきり笑った後にオルテンシアに再び向けられた目は、悪寒がするほど鋭く冷たい光を称えていた。
オルテンシアは剣の柄を両手で強く握り、背を向けて逃げ出しそうになるのを懸命に堪える。
「魔王様の因縁の相手を前に、サッサと殺しちまうのは面白くないから、ちょっとは遊んでくれよ?…ただまあ、俺はソイルのようにはいかないからな」
ヴィシャスはそう言うと、突然姿を消した。かと思うと、再びオルテンシアの至近距離に現れる。ドン!と鈍い音がしたと思うと、オルテンシアは後方に飛んだ。
「っ…ガハッ!!」
腹部に強烈な痛みがあって、嘔吐する。胃の内容物には、わずかに血が混じっていた。
『マスターっ!!』
エクリプスの悲痛な声が頭に響く。
「……だい…じょうぶ……だよ…」
オルテンシアは苦痛に顔を歪めながらも立ち上がる。その様子を見て、ヴィシャスはピューと短く口笛を吹く。
「見た目は普通の女の子なのに大したもんだ。そりゃあ、ソイルも遊びたくなっちまうのも分かるなぁ。なんかこう……虐めたくなる」
ヴィシャスは笑いながら再び姿を消した。オルテンシアが周囲を見渡して気配を探すが、『後ろですっ!』とエクリプスが言った時には、背中に衝撃が走り、「ぐはっ!!」前に倒れ込んだ。どうやら背中を蹴られたらしい。一瞬息が止まった。それでも立ち上がろうとするオルテンシアを、ヴィシャスは脇腹を蹴って転がした。
「ぅうぅ……」
勢いよく転がって、壁にぶつかって止まる。苦しくてうめき声を上げながら体を丸めたが、剣だけは手放さないで強く握っていた。
「健気だねぇ〜。そんな鈍らの言葉を信じて、戦おうとするなんて……俺がその鈍らだったら、あんたみたいな女の子、オモチャにすることはあっても、戦わせたりしないけどなぁ〜。案外エクリプスのほうが、俺達魔族より、鬼畜なんじゃないか?」
ヴィシャスは、哀れむように眉尻を下げてオルテンシアを見下ろす。
「…ら……じゃ…な…い……」
オルテンシアが小さく呟きながら体を起こす。
「ん?」
ヴィシャスが聞き返すと、オルテンシアは顔を上げてヴィシャスを睨みつける。
「鈍らじゃ、ないっ!!」
オルテンシアが真っ直ぐに剣を構えると、ヴィシャスは吹き出して笑った。
「そうか、そうか!そいつは、悪かったなぁ。けど、俺はまだそいつの斬れ味を知らないから、何とも言えないなぁ〜」
オルテンシアは体に力を込めてヴィシャスに斬りかかる。
「…遅ぇよ」
再びヴィシャスは消えて、オルテンシアの左側に移動すると、オルテンシアの左脇を蹴り飛ばす。再び呻いて倒れるオルテンシアの上に足を載せ、動きを封じた。なんとか抜け出そうとオルテンシアはもがくが、ヴィシャスはビクともしない。
「ハハハッ!かわいいねぇ~。頑張れ、頑張れ」
ヴィシャスは楽しそうに笑う。しかし、その背後から気配を感じて振り返ると、ジオーラが剣を構えて突進してくるところだった。
「いいところなんだから、邪魔するなよ」
ヴィシャスは笑いを収めて温度の低い声で呟くと、ジオーラに右手を向ける。すると拳大の火の玉が複数生まれ、ジオーラに向って飛び出した。
「ハァッ!!」
ジオーラは迷わず突っ込み、襲い来る火の玉を剣で斬り刻む。
「チッ…竜の剣か。…面倒だな」
ヴィシャスは微かに顔を歪めたが、ジオーラに向けていた右手を、何かを払うように動かした。すると、ヴィシャスの足元からジオーラの間にある床板に五本の爪で掻いたような傷が出来て、床板を捲り上げる。細かい木片と化した床板がジオーラに襲い掛かり、行く手を阻んだ。
「クソッ!」
木片が邪魔で、ジオーラはヴィシャスに近づけない。木片はジオーラを中心に渦を巻いている。ジオーラはなんとか抜け出そうと剣に力を込めるが、なかなか渦を払えない。
「ハハハッ!それで遊んでな!」
「……っ」
その頃、ヴィシャスの右手奥に座り込んでいたユースティティアは、震えながらゆっくりと服のポケットに手を入れていた。
(今なら、いける。私は、警戒されていない…)
分かっているのに、恐怖で震えが治まらず、なかなかポケットの中の物を取り出せない。
(ああ!私はなんて愚図なのっ!オルテンシアちゃんもジオーラさんも、あんなに頑張っているのに!)
失敗すれば自分は一瞬で殺されてしまうだろう。その恐怖がユースティティアの動きを鈍らせる。
(勇気を出すのよ!どのみち、あの二人がやられてしまえば、次は私の番。死期が僅かに遅くなるだけよ。同じ死なら、せめて役に立ちなさい!そもそも、私のせいでこうなったのよ!)
町の門の前でもっと強く言えていたなら、オルテンシア達が町に入ることはなく、エクリプスが捕らえられることもなかった。いつかヴィシャスと戦うことは変わらなかったとしても、エクリプスがもっと万全な状態で戦えていた筈だった。
ユースティティアはようやくポケットの中から物を取り出した。それは、手の平に収まる大きさの小瓶だった。幾らか震えの止まった手で瓶の蓋を開けると、ゆっくりとヴィシャスに近寄る。なるべく警戒されないように、立ち上がることはせずに座り込んだまま徐々に近づいていった。ヴィシャスはまだジオーラを見ている。オルテンシアはもがいているが、抜け出せずにいる。ユースティティアはなんとか数十メートルまで近づくことが出来た。
「…ん?」
そこで不意にヴィシャスがユースティティアに気づいた。
「っ!!」
ユースティティアはヴィシャスが動く前に勢いよく小瓶の中身をヴィシャスに掛けた。
「…なんだ?……こ、これはっ!」
ヴィシャスは顔を歪める。瞬間、ジオーラを取り巻いていた渦が乱れた。ユースティティアが掛けたのは、聖水だった。
「でかしたっ!!ユースティティア!」
ジオーラはそう叫ぶと渦を斬り裂いて飛び出し、ヴィシャスを斬りつけた。
「グッ!」
ヴィシャスは躱したが、胸に少し傷がついた。明らかに先程より動きが鈍っている。
「アンっ!」
「オルテンシアちゃんっ!」
ヴィシャスが躱したお陰で解放されたオルテンシアの元に、ジオーラとユースティティアが寄る。
「アンっ!しっかりしろ!まだやれるか?」
ジオーラに問われて、オルテンシアはゆっくりと体を起こして、頷く。
「無茶よ!こんなに辛そうなのに…」
ユースティティアは止めるが、ジオーラは首を振る。
「これはあたしの勘だけど、エクリプスは魔族を斬ったら、回復するんじゃないかと思うんだ」
「えっ?」
驚くユースティティアに、オルテンシアも頷いて見せる。
「エクリプスもそう言ってます。魔族を倒すと強くなるので、その影響で回復するかもしれないそうです」
「でも……」
まだ心配そうなユースティティアの肩を、ジオーラが叩く。
「大丈夫。ユースティティアがチャンスをくれたんだ。あたしが道を作ってみせるさ!」
ジオーラは剣を構え、ヴィシャスに向っていく。聖水の効果のお陰で、瞬間移動は使えなくなったようだ。ジオーラの剣撃を跳躍しながら躱す。躱しながら、ヴィシャスは腕を鎌のように変化させてジオーラに反撃してくる。ジオーラは的確に攻撃を剣で受けては弾いていく。
「さっきまでの威勢はどうした?だいぶ余裕がなくなってきたようだな」
打ち合いながらジオーラが煽る。
「フン!聖水の効果も大して持続しないから、長期戦なら、俺が勝てる。お前こそ、俺に対して決定打がないじゃないか」
ヴィシャスも負けじと煽り返す。
「ああ、そうだな。けれど、あたしの役目は充分果たしているさ」
ジオーラの目的がオルテンシアの準備が出来るまでの時間稼ぎだとヴィシャスは気づいている様子だったが、ジオーラが食らいついて来る為、なかなかオルテンシアに向かっていけない。ヴィシャスは苛ついて攻撃の速度を上げるが、ジオーラはこれにもしっかり対処する。
(すごい…!)
オルテンシアはヴィシャスの隙を窺いつつ、ジオーラの強さに感嘆していた。
「私も、しっかりしないとね…」
正直に言えば、全身が重苦しい痛みに苛まれているので、立っているだけでも相当辛いのだが、弱音を吐いている場合ではないと、己を鼓舞する。
『マスター……ジオーラが、ヴィシャスを魔法陣に誘導しているのが、分かりますか?』
(うん!ヴィシャスも抵抗してるみたいだけど、徐々に陣に近づいてるね)
『もう少し、ヴィシャスが陣に近づいたら、我々も、仕掛けましょう。私が合図します』
(わかった!)
オルテンシアはじっとヴィシャスの動きに集中する。ヴィシャスは着実にジオーラの攻撃に押されて、陣に近づいていく。半歩下がった……しかし、前に戻る……また半歩下がる……。
『今です!』
エクリプスに言われたと同時に、オルテンシアは駆け出した。
「ック…ゥ!!」
全身が軋むように痛んだが、痛みを無視して強引に進む。ヴィシャスがオルテンシアに気づいて、ジオーラと斬り合っていない左腕のほうを鎌に変化させて、伸ばしてきた。エクリプスの刀身が目映いばかりに白く光る。オルテンシアは押し込むようにして、ヴィシャスに向って剣を振り抜いた。剣はまるで紙を切るように鎌を切断し、ヴィシャスの左腕は肩の所まで真っ二つに裂けた。
「ギャアァアアア!!」
ヴィシャスは痛みに叫びながら、少し体勢が崩れる。そこをすかさずジオーラが斬りつけ、ヴィシャスは魔法陣の中に倒れ込んだ。瞬間、魔法陣がうす青く光る。
「ッ!!しまったっ!」
ヴィシャスは慌てて立ち上がろうとするが、力が入らないのか、動けずにいた。
「行けっ!!アン!!」
ジオーラが叫ぶ。その声に押されるようにして、「でやぁあああ!!」とオルテンシアはヴィシャスに剣を振り下ろす。ヴィシャスの左肩から右脇にかけて切れ込みが入り、盛大に血が噴きだした。
「アァアアアア!!」
ヴィシャスは悲鳴を上げると、煙のように掻き消える。その様子を見届けて、オルテンシアは急に意識を失って倒れ込んだ。
「アンっ!?」
慌ててジオーラが駆け寄るが、ジオーラの手が届くより早く、エクリプスが人型になって、オルテンシアが床に倒れる前に抱き止めた。
「ああ、良かった…」
ジオーラはホッと息をついて、エクリプスの傍に寄る。エクリプスは血で汚れていたが、体にあった傷や痣はなくなっていた。
「エクリプス。体は大丈夫かい?」
ジオーラが尋ねると、エクリプスは少し考えるようにしてから、「はい。やはり、魔族を倒したことにより、回復出来たようです」と頷いた。
「そっか」
安心したように溜息をついたジオーラを、エクリプスは真摯な眼差しで見つめる。
「ジオーラ、ありがとうございました。あなたのお陰で、命拾いしました。マスターも私も…」そう言って頭を下げた。
ジオーラは目を瞬かせてから、赤い顔をしてそっぽを向いた。鼻の頭を掻きながら、「そ、そんなの、当たり前だろ!仲間なんだから、礼なんて要らないよ。それに……あたしに礼を言うならさ…」と、右奥で座り込んでいたユースティティアに目を向ける。エクリプスはジオーラの言わんとすることを察して、頷いた。そうしてユースティティアに目を向ける。
「ユースティティアさんも、ありがとうございました。あの聖水が無ければ、勝利はなかったでしょう」
「そうだな!改めてありがとう。ユースティティア!」
ジオーラも重ねて言うと、ユースティティアは座ったままパタパタと手足を動かしては顔を真っ赤にして照れていた。
「わっ!私は、何もっ!!……そもそも、私のせいで、皆さんを危険に巻き込んでしまったのですから!」
「でも、こうしてあたしらをここに導いてくれただろ?それで帳消しでいいじゃないか。な?エクリプス」
ジオーラがニッ!と笑う。それにエクリプスも頷いた。
「はい。きっとマスターも同じ事を言うでしょう」
「…あ、ありがとう…ございますっ…!」
ユースティティアは泣きながら礼を言う。
「ほらほら。泣くなよ」
そんなユースティティアにジオーラは近づくと、ユースティティアの頭を優しく撫でた。