第二章 魔族との邂逅(4)
4
オルテンシアが目を開けると、外の日差しを受けて、テント内も薄明かりに満ちていた。
「…朝か」
起き上がってうんと伸びをする。エクリプスに挨拶がてら顔を洗いに行こうとテントを出ると、焚き火の前、こちらに背を向ける形でエクリプスが座っていた。
「おはよう!」
「……」
声を掛けたが返事がない。
「エクリプス?」
もう一度声を掛けると、エクリプスはゆっくりこちらを振り返る。しかし、無表情と言ってよいほど、感情の読めない顔だった。
「どう…したの?」
恐る恐る声を掛けると、エクリプスは僅かに微笑む。次の瞬間、エクリプスの頭から牛のような角が2本生え、全身が真っ黒に変色した。体の形が定まらず、まるで炎のように揺らめいて、瞳は真っ赤に光っていた。
「私は……魔王を倒しに行くのは諦めることにします。人間は傲慢で欲深い……魔王に支配されるのを嫌がりながらも、自分は戦おうとしない……もう、うんざりです……」
エクリプスはいつもとは違い、低く、ひび割れた声で話す。
「ま、待ってっ!!私はッ…」
「貴女も同じです。修行が辛いと喚き、挙げ句、私に恋愛感情を持つなんて……戦いは遊びじゃないんですよ」
「ごめん!これからちゃんとするから、だからっ!」
「……もういい」
エクリプスが呟くと、立っていられない程の突風が吹き荒れる。エクリプスが空へと舞い上がり、去っていこうとする。
「エクリプスッ!!エクリプス!!」ーー
「エクリプスッ!!」
オルテンシアは叫んで飛び起きる。ここはテントの中。外は、ほんのり明るくなっている。まだ早朝のようだ。
「……ゆ…め…?」
オルテンシアが呆けていると、ガバッとテントの入口が開いて、「マスター!?どうしました?」と、慌てた様子のエクリプスが入って来た。黒くなく、角も生えていない、いつものエクリプスだ。
「……ごめん…夢、見てたみたい」
オルテンシアは笑って見せるが、顔が強張って、自分でも上手く笑えていないのが分かった。
エクリプスはオルテンシアの前に膝をつくと、オルテンシアの顔に手を伸ばし、指で目元を拭った。どうやら泣いていたらしい。
「っ!!」
オルテンシアは感極まってエクリプスに抱きついたが、エクリプスは拒まず受け止めてくれる。そして、「……どんな夢を見たのですか?」と、いつもの優しい声で問いかける。
「…エクリプスが、"魔王退治は辞めた"って言って、真っ黒い悪魔みたいになっちゃって、どこかへ行っちゃうの……私は魔王退治を諦めてないって伝えようとするんだけど、"貴女は修行が辛いと喚くし、恋愛感情なんて持つし、遊んでる"って切り捨てられちゃったの…」
オルテンシアが思い起こしながら話すと、エクリプスはフッと笑った。
「私が貴女を見限ったんですか?そんな事、するわけないじゃないですか」
「そう?」
「ええ。貴女は私の言うことを素直に聞いて、ここまで付いてきてくれました。感謝こそすれ、見限るなんて、あり得ません」
エクリプスはきっぱりと言い切る。
「でも……私に好意を持たれるのは……迷惑なんでしょ?」
オルテンシアは視線を下げる。エクリプスは静かに首を振った。
「…昨日は少し言い過ぎました。別に迷惑だと思った訳ではありません。むしろ、嬉しかったのです。ですが、私は貴女に相応しくありません。人間ではありませんし……だから、突き放すような事を言いました。ごめんなさい」
「……じゃあさ…」と、オルテンシアは顔を上げる。
"私に相応しい人が現れるまでは、あなたの事、想っていてもいい?"とつい聞いてしまいそうになる。しかし、それは言ってはいけないと、オルテンシアはなんとか口を噤んだ。
(エクリプスだって、辛いんだ。言葉も話せるし、感情もあるから、きっと私の気持ちも少しは分かってる。だから、相応しくないなんて言えるんだ。まずは魔王を倒して、それが出来て初めて、エクリプスの人生が始まる……)
エクリプスは優しいから、聞けば許してくれるだろう。でも、困らせるのは間違いない。もし、エクリプスにも恋愛感情が理解出来てしまったら、人間ではない虚しさをより感じてしまうだろう。エクリプスにこれ以上辛い思いはしてほしくない……。
「……マスター?」
黙ってしまったオルテンシアを不思議そうに見るエクリプス。オルテンシアは少し迷った末に、「……もうちょっと、このままでいい?」と尋ねた。
(これくらいなら……いいよね?)
エクリプスは笑った。
「フフ……小さな子どもみたいですね」
「エクリプスだって、一昨日、宿で似たようなことしてきたじゃない」
「あ、あれは…」
エクリプスは言い返そうにも言葉が見つからなかったようで、諦めて、オルテンシアの背を撫でた。
「……そうですね……私も貴女のことは言えませんね」
今は、子どもが不安で甘えているだけ……そう思っていてもらって構わない。けれどもし、魔王を倒す事が出来て、それでもエクリプスを想う気持ちが変わらなかったら、これから先も一緒にいられる方法を探そうと、オルテンシアは密かに決意した。
その後朝食を摂って、いつものトレーニングをこなすと、二人は早速歩き始めた。
「今日で山を抜けて、もう一つの山に入れるかな?」
「何にも出会わなければ、そうですね…」
「ちょっと!不吉なこと言わないでよ」
「ですが、昨夜も襲撃されましたし、狙われているのは確かです」
「たまたま、あの辺りにいた魔物が襲って来たんじゃなくて?」
「魔物はたまたま居たりはしません。必ず誰かの差し金です。こちらを襲うつもりか、見張りのつもりかです」
「そうなんだ…」
「マスターが疲れたら、私が倒します」
「えっ?エクリプスが?」
「はい。訓練用に一振り剣を持っていますよね。最悪それで戦います」
「ああ、なるほど……それなら人型でも魔物に攻撃出来るんだ」
「はい。一撃で仕留めるのは難しいかもしれませんが」
「そっかぁ〜じゃあ、期待しちゃおうかな!」
オルテンシアがニコニコしていると、エクリプスは溜息をつく。
「強くなるには場数を踏むのが定石なんですがね……」
「……善処します…」
エクリプスの勘は当たり、それからちょくちょく魔物に出会った。いずれもカラスくらいの大きさの鳥や猫くらいの大きさと小さく、同時に一匹か二匹くらいまでしか現れなかった。倒すのにそこまで労力は使わなかったが、小さな疲労感が蓄積されていく。気づけば予定していた行程の半分程の地点で、日が傾き始めた。
「……夜には出ませんように……」
テントを張りながら祈るオルテンシアを、エクリプスは心配そうに見る。
「もし辛かったら、私が倒しますから、気にせず休んで下さい」
「うん…」
その日は月も出ない真っ暗な夜だった。オルテンシアは早めに床につき、エクリプスは一人、焚き火の前で過ごす。普段なら眠らないせいで夜は長く、ひどく退屈に感じるのだが、今日ばかりは、眠る必要がない体質である事を感謝した。
(私が対応出来ていれば、マスターを休ませることが出来る)
オルテンシアは戦いのセンスがあるタイプで、感覚で剣を振るえるのだが、剣を教えてから一年ちょっとなので、まだまだ経験が浅い。一対一の戦いならまず負けないが、複数を同時に相手するには不安が残る。身軽なのでエクリプスが指示をしながらであれば対応出来るが、オルテンシアは敵の数を把握しきれていない時があった。
「もう一人か二人、仲間でも居てくれればいいかもしれませんね…」
今度ギルドで仲間を探そうか…と考えていた頃、ふと魔族の気配を感じて顔を上げる。
「……この気配は……」
上位の魔族だ。と思った時には、「よう」と声が掛かり、森の奥から男が一人現れた。棘のついた毒々しい紫色の鎧を着込み、幅広で丈が二メートル近くある大剣を背負っている。体つきは細めではあるが、魔族である時点で、人間の常識では測れない。
(これは……)
剣士の魔族には今まで会ったことが無かった。魔族が相手なら、オルテンシアに戦って貰わなければならないが、相手は見るからに腕力、体力ともにありそうだ。ましてや、あの大剣で斬られたらひとたまりもない…。やはり時間は掛かっても、自分一人で戦うか……。
「お前が考えていることを当てようか?エクリプス」
男は余裕の笑みを浮かべ、エクリプスと焚き火を挟んで向かい合う。
「剣を教えて日の浅い、しかも女の子じゃあ、戦いにならないと絶望しているんだろ?」
ニヤニヤと、明らかに馬鹿にしている言い方に、釣られてはいけないと思いつつも、エクリプスは怒りが抑えられなかった。
「馬鹿にしないで下さい。マスターはただの少女ではありません。私が選んだ使い手です」
エクリプスの言葉を受けて、更に男の笑みは深くなる。
「たいした忠誠心だが、本当は実力者を使い手にして、さっさと魔王様を倒したかったんだろう?それが軒並みお前を裏切るんで、余計な知恵がない子どもを洗脳したほうがいいって判断したんじゃないのか?」
「そういう訳ではありません」
「どうだかな。とりあえず、手並み拝見といこうか。ほら!寝坊助な主を呼んでこいよ。……最も、昼間の魔物退治で疲れてなきゃなぁ!」
男は高らかに笑う。その様子からすると、昼間に魔物をけしかけていたのは、この男で間違いないようだ。
(やはり、ここは…)
マスターにやってもらおうとエクリプスは思った。単純に早く片が付くのと、オルテンシアがこの男に馬鹿にされるほど弱くはないと証明してみたくなったのだった。
エクリプスは男を睨むと、テントの中へ入った。すでにオルテンシアは起き上がっており、「魔族、来たんだね」と闘志を称えた目をエクリプスに向ける。それを見て、エクリプスは微笑んだ。
「はい。申し訳ありませんが、お願い出来ますか?ですが、気を付けて下さい。相手は大剣使いです。難しければ、私が代わりますから」
「わかった。……でも、私があなたを使ったほうが、すぐに片が付くんだよね?だったら、やれるだけやってみるよ。エクリプスの刃が届きさえすればいいんだから!」
オルテンシアがエクリプスの手を握ると、エクリプスは剣に変貌した。
オルテンシアはテントを出ると、すぐに剣を構えて男に斬りかかる。
「おおっとぉ!…血の気の多い子猫ちゃんだなっ!」
男は楽しそうに言って、オルテンシアの斬撃を難なく躱す。
「せっかく知り合ったんだから、おしゃべりくらいしようぜ?俺はソイルって言うんだ」
「…私、あなたみたいな卑怯な人とは口を利きたくないから!」
「卑怯?」
「昼間の魔物、あなたの仕業でしょ?魔物は魔族がけしかけて来るものだってエクリプスは言ってた。つまり、あなたが誰かと協力でもしていない限り、あなたがけしかけて来たので間違いないわ!だって、タイミングが良すぎるもの」
「なるほど……ちっとは頭が回るようだな。感心感心!」
なおも可笑しそうに笑うソイルに対し、オルテンシアはフッと鼻で笑う。
「ん?なんだ?」
若干不快そうにするソイル。オルテンシアの笑みは深くなる。
「あなた、さっきから私やエクリプスを馬鹿にしているようだけど、実は私たちが怖いんでしょ?」
「怖い?」
「だって自信があるなら、そもそも昼間に魔物を寄越して、私を疲れさせる必要がないもの。最初から出て来れば良かったでしょ。それに今夜は新月で、辺りは真っ暗。視界は悪いよね?そんな時にわざわざ勝負しに来るなんて、少しでもこちらの動きを鈍らせようと必死になってるようにしか見えないんだけど」
「俺は怖いんじゃなくて、ただ確実にあんたらを葬りたいのさ。普通に向かっていって、少しでも斬られたら致命傷なんだ。作戦の一つや二つ、必要だろ?……まあ、俺も一応武の道を極める者としては、真剣勝負といきたいが…」
「いいよ。普通に戦おうよ」
オルテンシアは余裕そうに言うが、ソイルは溜息をつく。
「虚勢を張っても無駄だぞ。エクリプスの能力は知っている。使い手が使いやすいように質量を変化させるんだろ?それだけじゃ、いきなり使い手が強くなったりはしない。剣を持って数年程度の実力じゃ、俺の相手にはならないな。腕力も未熟だし、子猫ちゃんが勝つには、せいぜい俺の隙を見つけて、高速で急所を突くしかない」
「そうね……でも、絶対に勝てない訳じゃない」
オルテンシアの瞳に宿る闘志は揺らがない。ソイルはピューっと短く口笛を吹いて笑う。
「大したもんだ!その辺の男より、よっぽど肝が据わってるんじゃないか?気に入った!……それでこそ、潰し甲斐があるってもんだ」
ソイルは笑いを収め、鋭い目つきでオルテンシアを睨む。
「っ!」
場の空気が、冷たく重いものに変化し、オルテンシアは息を呑む。思わず後退りしそうになるのを懸命に堪える。
『マスター』
心配するエクリプスの声が聞こえる。"大丈夫"と心の中で返答するが、体の震えが止まらない。
「大丈夫かぁ?体が震えているようだが…」
男が笑う。オルテンシアは息を吸い込んで、体に力を込める。
「これは、武者震いよ!」
精一杯の虚勢を張って見せる。
「ハハッ!そうかい?それは失礼したな。……けど、無理そうだったらいつでも言えよ。泣いて許しを乞うなら、子猫ちゃんは殺さないでおいてやる。俺たちが邪魔なのは、結局エクリプスだけなんだからな。人間は従順にしてりゃ、可愛がってやることにしてるんだ」
『オルテンシア』
「…え?」
急に名前を呼ばれて驚くオルテンシアに、エクリプスは優しく語りかける。
『大丈夫。貴女は一人ではありません。私が居ます。私の声を良く聴いて、冷静にしていれば、貴女は負けません。貴女は私が見込んだマスターです。貴女は、強い。どうかそれを、信じて下さい』
以前にも言われた言葉。オルテンシアには、未だに自分の何がエクリプスにそう言わせるのか分からない。けれどエクリプスのその言葉で、心が軽くなり、思考が冴える。
「…うん!」
オルテンシアの体の震えが止まった。ソイルを見つめる瞳に力が戻る。
「フッ……恐怖を乗り越えたか…けどまあ、実力差は埋まらないがなっ!」
突如として、ソイルが大剣を抜いて振りかざす。軽く振っただけでブオン!と空気を裂く重い音が響く。
(剣が長い分、動きは大振りになるはず……上手く躱して、懐に入らないと!)
しかし、そんなことは相手も承知だろう。オルテンシアは神経を尖らせ、ソイルの動きに集中する。
「そんなに見つめられると、照れちゃうねぇ〜」
ソイルは相変わらず軽口を叩きながら、大剣を繰り出した。オルテンシアの胴を目掛けて迫るが、オルテンシアは素早く飛び退いて躱す。
「それで躱したつもりかな?」
ソイルは半歩前に出ると、再び剣を振るう。咄嗟にオルテンシアは剣で受け止めるが、押し負けて飛ばされ、地面に転がった。
「…っく!!」
よろめきながら立ち上がろうとすると、頭上に大剣が振り降ろされ、転がって躱す。
(だめだ……全然距離が縮まらない…)
その後も果敢に距離を詰めようとするが、その度に妨害が入る。
『…マスター。重いので大変ですが、彼の攻撃を、躱すのではなく、なるべく私で受け止めてもらえませんか?』
ふとエクリプスの声が響く。
(え?いいけど……大丈夫?折れちゃったりしない?)
『問題ありません。彼は武を極めていると豪語していましたが、彼の剣はろくに手入れされていませんし、恐らく使い慣れた武器ではないのでしょう。使い手との一体感がありません。あんな鈍らな剣には、負けませんよ』
(わ、わかった…)
戦闘中だからか、やや口調が強めなエクリプスに驚きつつも、オルテンシアは言われた通り、ソイルの攻撃を受け止め続けた。受けては弾き飛ばされることが大半だが、何度か受けている内に、オルテンシアはある変化を感じ取った。受ける時に響く、ガキン!という接触音に、僅かにガリッ!といような雑音が混じるようになってきたのだ。
「なんだ?さっきから受けてばかりで……攻撃は出来ないのかな?」
ソイルが煽る。オルテンシアは無視して、ソイルの動きに集中し続け、確実に攻撃を剣で受ける。そろそろ腕に痺れが来たと思っていると、『次で、いけます』とエクリプスの声がした。何が?と思ったと同時に攻撃が来て、再び剣で受けると、バリンッ!!という派手な音と共に、大剣が半分に砕けた。
「えっ?」
驚いてオルテンシアの動きが止まったが、驚いたのはソイルも同じだった。呆然と折れた大剣を眺めている。
『マスター、今ですっ!!』
エクリプスに言われて、オルテンシアは慌てて剣を構え直すと、ソイルに斬りかかる。
「おっと!」
ソイルは飛び退いて躱すが、オルテンシアは素早く切り返して、ソイルの腹部に剣を向ける。
「させるかっ!!」
ソイルは突如として拳に岩を纏わせて、突き出して来た。その時、剣の刀身が白く輝く。オルテンシアは迷わずソイルの拳を剣で向かい撃った。強そうに見えた拳は簡単に剣に粉砕される。オルテンシアはそのままの勢いでソイルの腹部に剣を突き刺した。
「グフォッ!!……なる、ほど……魔族に特効って、そういう……ことか……なかなかに、チートな能力じゃんよ……」
オルテンシアは勢い良く後ろに跳んで、剣を引き抜く。ソイルの腹部から大量の血が流れ出し、ソイルは膝をついて腹部を押さえた。
「…ハ、ハハハッ…グフッ!……ちょっと、油断し過ぎた…な……全く……子猫ちゃんだから、手加減して遊んでやろうと、おもった…のに……全然、怯まないんだもんな……」
ソイルはなおも笑っている。それでも、口から血を噴きながら、苦しげではある。
「余程、エクリプスを信頼していると見えるが……子猫ちゃん……あんまり、そいつを信用しすぎないほうがいい…」
「えっ?」
驚くオルテンシアに、ソイルは僅かに憐れむような目を向ける。
「俺達魔族は、魔王様の魔力から生まれた……だから、魔王様の分身みたいなもんだ……エクリプスは、そんな俺達を喰らうことで、徐々に、魔王様に近づいているのさ……果たして、いつまで……子猫ちゃんに優しくしてくれるかな?」
「…それって、どういう……?」
オルテンシアが更に聞こうとすると、不意に剣を握ったままのオルテンシアの右手が勝手に動いて、ソイルを斬りつけた。
「グハァッ!!」
ソイルは盛大に血飛沫を上げながら倒れ、やがて消えた。
「……え……」
オルテンシアは驚いて剣を落とし、自身の右手を見つめた。
「……え?なんで?私、斬ろうとなんて……エ、エクリ…プス?」
震える声でエクリプスを呼ぶと、剣が青白く光り、人型のエクリプスが現れた。返り血を浴びて、真っ赤に染まっている。
「勝手に動いて、申し訳ありません。……これ以上は、マスターのお耳汚しになると思われましたので、斬らせていただきました…」
エクリプスはオルテンシアの前に膝まづいて、許しを乞うように頭を下げる。
「……今、私の腕を……勝手に……」
あまりの事に、オルテンシアの思考が追いつかない。
「はい。私が動かしました」
エクリプスは顔を伏せたまま、淡々と答える。それがオルテンシアには、なんだか酷く恐ろしく感じた。
「……そんなこと出来るなんて…聞いてない……」
「私も、出来ると思っていませんでした。……いや、過去に試みたことはあるのですが、成功しなかったのです」
「それって……ソイルが言った通り、あなたの力が強くなってるってこと?それとも……操る力は元々あったけど、他の使い手は強かったから、操られなかったってこと?」
「それは……」
エクリプスはなおも頭を下げたまま、口籠る。
「ねぇ、エクリプス。答えてよっ!!」
エクリプスはハッと顔を上げると、苦しげに顔を歪ませながら、「ーー初めから……あった能力です…」と呟いた。
「ッ!!」
オルテンシアは堪らず身を翻すと、テントに向かって駆け出した。
「マスターっ!!」
エクリプスはオルテンシアの腕を掴もうとしたが、ソイルの返り血で汚れていたため思い留まり、テントに駆け込むオルテンシアの後ろ姿を、ただ哀しげに見つめていた。
「なんでっ…!!」
そう毛布の中で叫んでは、オルテンシアは堪えきれずに泣き出した。
正直、操る能力があるとかはどうでも良かった。オルテンシアが許せなかったのは、それが最初からあることをずっと隠していたことのほうだった。そしてその力を今、突然使ってきたこと……。
(これ以上はお耳汚しになるって言ってたけど……)
オルテンシアにはそうは思えなかった。ソイルは、エクリプスの秘密について語っていた。ソイルの立場からすれば、嘘を言ってオルテンシアの心を乱したかっただけかもしれないが、それならいつものようにエクリプスは、テレパシーで戯れ言だと教えてくれればいい。黙っていてもソイルは死んでいたし、わざわざオルテンシアの意思を無視して止めを刺すまでも無かった筈だ。なのに、エクリプスはそうしなかった。つまりそれは、ソイルの言葉は真実で、エクリプスはオルテンシアには聞かせたくない類の話だった為に、無理に終わらせたのだとしか、考えられない。
(魔族に近づくことは、何か都合が悪いのかな…)
魔族を斬る度に魔族のようになってしまうのではないかという想像なら、以前からしていたが、それが真実だとすると、オルテンシアに知らせたくないこととは、なんだろう?先日見た夢のように、完全な魔族になってしまうのだろうか?しかし、それならそもそも魔王退治など無理に等しい。仮に倒しても、自らが魔王の代わりになるだけだ。魔王を倒すという目的には、嘘はないように思うーーいや、思いたい……。
(もしかして……ただ、魔王に取って代わりたいって思ってるだけ?いきなり魔王の所へ行ったら吸収されて終わりだから、魔族を倒して、力をつけてから行こうとしてた……とか?)
しかし、自分を作った人達の想いを果たしたいと言っていた顔は真剣そのもので、とても嘘には思えなかった。けれど、それさえもオルテンシアを魔族退治に向かわせるための作戦だったのだとしたら…?
「もう、何も分からないよ……」
オルテンシアは毛布の中で丸くなり、声を殺して泣いた。
どれくらいそうしていたのか、不意に「…マスター?」と、テントの外から控え目なエクリプスの声が聞こえて、衝撃でオルテンシアの涙は引っ込んだ。
「入って来ないでっ!!」
毛布から頭を出してそう叫ぶと、まさにテントを開けようとしていたエクリプスの手が止まって、「……はい」と、小さな返事が聞こえた。
「……まだ何か、言いたいことがあるの?」
テントの向こうに映る、エクリプスの影を睨みながら問うと、影が僅かに揺れる。
「……私の能力のこと、黙っていて申し訳ありませんでした」
「それだけ?」
「……」
「……エクリプスは、魔族を倒し続けると魔族になっちゃうの?」
「……いいえ。力は強くなるかもしれませんが、完全に魔族になることはないと思います」
「じゃあ、なんでさっき、ソイルを殺したの?」
「……私は断じて、自我を失って魔物のようになったりはしません。しかし、マスターは先日、私が魔王討伐を諦めて去る夢を見たと仰いましたよね?ですから、私があの場で戯れ言だと伝えたところで、信じて下さるか、自信がなかったのです。だから……貴女の心が揺らいでいる隙をついて、体を借りました。言っておきますが、私はいつ何時も体を操れる訳じゃありません。意思が弱い時や、同意がある時のみ可能です。しかし、せいぜい数分が限界です。それに、操った場合は、私の効能は半減してしまうのです」
なるほど、それでと思ったオルテンシアだったが、それならば別の意味で問題がある。
「……エクリプスは、そんなに私が弱いように見える?」
「それはっ!」
「ごめん。弱いのは事実だけど、そうじゃなくて、私が例えばさっきのソイルの話を聞いて、私が見た夢と関連付けて考えるのは必然だと思う。けど、私がそれでソイルの言葉を信じて、あなたを遠ざけると思う?二年も稽古をつけて貰いながら旅をしてきたエクリプスよりも、さっき会ったばかりの魔族を信じるような人間だって、本気で言ってるの?
私はね、エクリプス。今朝私が、あなたに夢を見たことを話した時、エクリプスが私を見限らないって言ってくれたこと、凄く嬉しかったんだよ。今までずっと、私みたいな子どもが、魔王を倒してあげられるか不安だった。でも、そんな私に、エクリプスはいつも"貴女は、強い"って励ましてくれた。そのおかげで諦めずに戦って来れたんだよ。操る魔法だって、使ってくれて構わない。私自身が強ければ良かったけど、そうじゃないし、魔王を確実に倒すためなら、いろんな可能性を試したほうがいいと思う」
「……」
「もっと、私を信じてほしい……あなたが私を見限らないように、私もあなたを裏切らない人間でいてみせるから…」
「……」
先ほどから、エクリプスが黙ったままなのが気になって、オルテンシアはゆっくりテントの入口を開ける。エクリプスは、入口の前で俯いて涙を流していた。川で汚れを落としてきたのか、体は綺麗になっていた。
「エクリプス」
そっと名前を呼ぶと、エクリプスは服の裾で乱暴に涙を拭った。
「……すみません。黙ってしまって…」
「泣くなんて、エクリプスも案外子どもっぽいところがあるんだね」
おどけた調子でオルテンシアが言うが、エクリプスは真面目な顔をして頷いた。
「そうですね。私は精神がまだ未熟なようです。マスターが私を信頼してくれていることに気づかず、自分勝手な行動ばかり取っていました……マスターのほうが、よっぽど大人です」
「ウソ、ウソ!冗談だってば!そんなに落ち込まないで。反省してくれたら、それでいいから。……私も、話を聞かないで癇癪起こしちゃったし…」
「マスターの立場なら、怒って当然です……」
(ああ、そうか…)
オルテンシアの中で、エクリプスの行動の真意が理解出来た気がした。
「エクリプスは、今まで私たち人間にたくさん裏切られて来たんだもんね……だから、簡単に信用出来ないのも、不安に思うのも、仕方がないし、信用するの、怖いよね……私も、ちょっと考えたら分かった筈なのに……気づいてあげられなくて、ごめん」
オルテンシアは頭を下げる。エクリプスはあわあわと落ち着かなく手と首を振って否定する。
「そんなっ!マスターは何も悪くないです!全ては、私が浅はかだったせいですから!」
その様子がなんだか可笑して、オルテンシアは吹き出した。
「ま、マスター?」
エクリプスが困ったように眉をハの字にしている。
「じゃあ、お互いに悪かったって事にしよう!これからは、たとえ悪いことがあっても、隠さないで話し合うことと、お互いを信じることを約束して、仲直りしよ!はい!指切り!」
オルテンシアはエクリプスに向って小指を突き出して見せる。
「?マスター、指切りって、なんですか?」
「えっ!?指切り知らないの?…もう。しょうがないなぁ〜」
オルテンシアはエクリプスの右手を掴むと、自分の右手の小指と、エクリプスの右手の小指をを絡ませる。
「こうやって小指を絡ませて繋いだまま、ゆ〜びきりげんまん、嘘ついたら、針千本飲〜ます!指切った!で、小指を離す。はい!これで完了!」
「どういう意味ですか?」
「もし約束を破ったら、罰として針を千本飲ませますよってこと。つまり、それくらい嫌なことをするから、約束は破らないでねって意味だよ」
「なるほど……」
エクリプスは真剣な顔をして、今絡めた小指を見つめていた。
「そんなに深刻にならなくても……」
「いいえ。もう二度と、貴女を不信することはしないと誓います。もし私が再び不信するようなことがあれば、煮るなり焼くなり、好きにして下さい」
「そこまではしたくないけど……わかった。覚えておくよ」
オルテンシアが笑うと、エクリプスもようやく笑顔を見せる。
「マスターの笑顔は、いつ見ても綺麗ですね」
「っは!?」
オルテンシアの顔が真っ赤に染まる。
「おや?どうされました?…まさか!熱でも…」
「あ、いや!これは、そんなんじゃないから!」
オルテンシアは両頬に手を添えて、エクリプスから顔を背ける。
「そう、ですか?」
(なんか、前にもあったな、こんなこと……)
やはりエクリプスは分かっているようで分かっていないと思う、オルテンシアであった。