第二章 魔族との邂逅(3)
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翌日早朝に、二人は宿を出て山へと向かう。先日よりは気温が低く、肌寒く感じる。オルテンシアはマントを羽織っていたが、それでも時折腕を擦って暖を取る。
「寒いですか?」
エクリプスが心配そうにオルテンシアを覗き込む。
「ちょっとね……けど、これくらい平気」
「そうですか……今日は早めに野宿しましょう」
「うん」
エクリプスは時折コンパスを確認しつつ進む。魔王との距離が遠い今は、気配は微弱なので方角を見失わないようにする必要があるのだ。
日が傾き始めた頃、二人は予定していた地点まで到達し、野宿の準備をした。もともと屋外で過ごすことが多かったので、特に打ち合わせはなくても、二人はテキパキと準備をこなし、テントを張って焚き火を焚いた。今夜は道中仕留めた猪の肉と、きのこ類を入れて煮込んだスープだった。オルテンシアも手伝ったが、味付けはエクリプスだ。
「あぁ〜おいしい〜!生き返るぅ〜!」
オルテンシアがしみじみと言うと、エクリプスは笑う。
「そんな大袈裟な…」
「いや、本当に"生き返る"って感じだよ。エクリプスは食べないから分からないかもしれないけど、お腹が空くと力が出ないし、食べたら体の底から力が湧いてくる感じなんだから!特にエクリプスは、料理上手だし、余計に力がみなぎる感じがするんだよね〜」
「そうですか。喜んで頂けてよかったです」
「……そうだ。ねぇ、エクリプス」
「はい?」
「エクリプスは……人間になりたいの?」
「……そうですね。……なぜですか?」
「……ちょっと気になって……もし魔王を倒したら、エクリプスが人間になる方法、探しに行こうよ」
「えっ?……一緒に探してくれるんですか?」
「うん。他にやりたいこともないし、エクリプスには、恩返ししたいし…」
「恩返しだなんて……私が貴女を無理に戦いに巻き込んだのに」
「そんなことないよ。私も、やってみたいって思ったんだから、これは私の意思でもあるよ」
「そう言って頂けると嬉しいですが、下手をすると命が危ない戦いに、貴女のような子どもを巻き込んだことが悔やまれます。もっと早く決着をつけるべきでした…」
エクリプスは顔を伏せた。けれど、オルテンシアは「まったく…」と呆れたように溜息をつきながら笑った。
「大人ってすぐ、後悔して悩むよね。そんなことより、明日はどうするかを考えたほうがよっぽどいいと思うけどな」
「分かってはいても、簡単には切り替えられなかったりするのですよ」
「そっかぁ〜……じゃあ、エクリプスが悩んでいるときは、私は元気でいるようにするよ」
「フフ……頼もしいですね」
「任せといて!……ッハ…ハクシュッ!!」
オルテンシアは盛大にくしゃみをする。
「おや。寒いですか?こちらへどうぞ」
エクリプスが手招きするが、オルテンシアは顔を赤くして首を横に振る。
「い、いや。大丈夫。毛布被ってればいいし!」
「痩せ我慢してはいけません。風邪を引いてしまいますよ」
「……は、恥ずかしいから……」
エクリプスはプッと吹き出して笑う。
「何を今さら……昨日だって、自分から抱きついてきたりしてましたよね?」
「…う……あれは、そのーーと、とにかく!これからは、そういうの良くないなって思ったの!小さい子どもじゃないし、甘えちゃだめだなって思うの」
「これは甘えではないと思いますけどね……」
「ほんと、大丈夫だから……ハックションッ!!」
「ほら見なさい」
エクリプスは溜息をつくと、問答無用でオルテンシアを引き寄せると、オルテンシアを自分の前に座らせて、後ろから抱き込んだ。
「どうです?温かいでしょ?」
「……うん」
「全く。何に意地を張っているのか分かりませんが、人の体は弱いのですから、気をつけないと駄目ですよ」
「分かってるよ…」
「分かっているようには、見えませんけどね」
「分かってるって!……こうされるのが恥ずかしいと思ったのは、もっと違う理由だから」
「どういう理由ですか?」
「内緒。エクリプスには、きっと分からないから…」
「……そう…ですか…」
エクリプスの声が、苦しげに途切れた。不審に思ってオルテンシアが振り返ると、エクリプスは今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。
「え、エクリプス!?」
驚いたがその瞬間、自分が何を言ったのか、オルテンシアは唐突に理解した。
ーーエクリプスには、きっと分からないから。ーー
生き物ではないことを気にしていて、人間になりたいエクリプスにとっては、今のオルテンシアの発言は、エクリプスは人間ではないという現実を突きつけたような言葉になってしまう。
「ご、ごめんっ!!エクリプス!そんなつもりじゃ…」
「いいんです。分かっていますから……私は所詮、剣に過ぎない。壊れなければ死ぬこともない。生き物ではない以上、生き物の営みのあれこれは理解できないし、私には無縁です。こうして意思を持っていること自体、分不相応なのでしょう…」
「ちがうっ!そんなことないっ!あなたはーっんぐ!」
エクリプスは突然オルテンシアの口を手で塞ぎ、前方の林に鋭い視線を向けた。
「ん〜?」
どうしたの?と問いたいが、エクリプスは手を放してはくれない。林を警戒したまま、「お静かに。魔物の気配です」と囁いた。
「!!」
オルテンシアが固まると、エクリプスは口から手を放して、オルテンシアを落ち着かせるように、背中を擦る。
「大丈夫です。複数居るようですが、いずれも小物です」
オルテンシアはゆっくり振り返り、エクリプスの視線の先を見ると、林の奥から、狼が一匹現れた。暗闇の中、瞳が赤く光っている。
(目が…赤い…?)
赤い瞳の狼など、オルテンシアは見たことがなかった。しかし、その狼が寄ってくるにしたがって、それが普通の狼でないと分かる。体は熊程に大きく、顔は髑髏だった。ハアハアと荒い呼吸をしながら、こちらを伺うようにゆっくりと迫ってくる。
「……エクリプス……これで、小物?しかも、まだいるの?」
「はい。知能は低いですから、落ち着いて攻撃を見極めれば大丈夫です。あと二体いますが、今は様子を伺っているようです」
「わ、私に、出来ると思う?」
「問題ありません。旅に出てからも、毎日修行は続けているでしょう?落ち着いていれば、体のほうが勝手に反応してくれます。……さあ、私の手を取って」
「う、うん……わかった」
オルテンシアがエクリプスの手を握ると、エクリプスは剣に変じた。オルテンシアは両手で剣を構えて、狼のような魔物に向かい合う。
『相手が、攻撃をしようと飛びかかってきた時がチャンスです。飛びかかって来た瞬間に斬って下さい。それまでは相手から目を逸らさないように』
脳内でエクリプスの声が響く。
「わかった」
オルテンシアは目を凝らして魔物に集中した。先ほどはあんなに寒かったのに、今は物凄く体が熱いように感じる。戦闘の緊張感だろうか。額から汗が流れて頬を伝う。魔物は頭を低くくして唸りながら、相変わらずゆっくりと近づいてくる。かと思えば顔はこちらに向けたまま、右へ左へ進路を変える。
(向こうもタイミングを計ってるんだ…)
もはや我慢比べな状況に、オルテンシアは駆け出したいのを懸命に堪える。自然と剣を握る手に力が篭もった。
『魔物が落ち着かなくなってきました。もう少しの辛抱です。マスター』
エクリプスの励ましに無言で頷きながら、オルテンシアは魔物を見つめ続ける。やがて魔物がスッと僅かに身を屈ませた。
『来ます!』
エクリプスの声を合図に、魔物が大きく口を開けながら、オルテンシア目掛け、突っ込んできた。
「っ!!」
オルテンシアは剣を左に傾け、右横へと払った。剣がちょうど正面に来るタイミングで魔物の顔が迫り、魔物の口を横に両断する。魔物は上顎と下顎が別れて倒れ、以前倒した魔族の男同様に、地面に倒れた瞬間に煙のように姿を消した。
『マスター!左です!』
間髪入れずに左に剣を振るうと、今倒したものと同様の魔物が、飛びかかって来る所だった。オルテンシアの振るった剣が、魔物の首を切断する。
「……あと、一体…」
最後の一体は、右手奥からやって来た。勢い良く走り込んで来る。オルテンシアは再び剣を正面に構えて、今度は待たずに、自分も魔物目掛けて駆け出した。駆けながら素早く剣を突き出し、魔物を突き刺す。
「グギャッ!!」
魔物は苦しげに声を上げると、身を捻ってオルテンシアから距離を取った。口から血泡を吹きながらも、再び向かってくる。それを右上から剣を振って叩き斬ると、魔物は地面に倒れ込んで掻き消えた。
「…はぁ…はぁ……もう…いない?」
『はい。気配は消えました。お疲れ様です』
「はぁ……」
オルテンシアは、その場にペタンと座り込む。少し息を整えると、服のポケットからハンカチを取り出して、剣についた血を拭う。この前のように、血まみれのエクリプスを見るのが忍びなかったからだ。
『ありがとうございます』
エクリプスの嬉しそうな声が脳内に響く。
「後でちゃんと手入れするから、今はこれで勘弁して……ちょっと、疲れちゃった…」
オルテンシアが言うと、剣が淡く発光して、人型になった。
「もう充分ですよ」
エクリプスは微笑むと、オルテンシアを横抱きにする。
「あ、歩けるよ…」
「疲れているんでしょう?テントまで運びます」
「…ありがとう」
エクリプスは、オルテンシアをテントの中に横たえると、毛布を掛ける。
「今日はもう休んで下さい。私は、表で火の番をしていますから…」
そう言って離れようとするエクリプスの服の裾を、オルテンシアは掴んで引き止めた。
「ん?まだ、何か?」
「……さっきのこと…」
「さっきの?」
エクリプスはキョトンとして首を傾げる。
「私が恥ずかしがってる理由を、あなたには分からないって言ったこと」
「ああ…」
「……あれは…その……あなたを馬鹿にしたんじゃないの。私が、エクリプスを男の人だって意識して、勝手に恥ずかしがってただけなの」
「?」
「ほら!やっぱり分かってない!」
「すみません……なぜ異性だと恥ずかしいのでしょう?」
「それはっ!……私も、なんて言ったらいいか分からないけど……ああいうことされると、ドキドキするの」
「ドキドキ…ですか?」
エクリプスは思案げに首を捻る。やがて何か思いついたように顔を上げた。
「マスターは、私に恋愛感情があるのですか?」
「っ!!」
オルテンシアは答えられずに赤面する。
「以前のマスターから聞いたことがあります。恋愛対象として意識すると、ちょっとした触れ合いや仕草で気持ちが昂ぶることがあるのだとか。なるほど……マスターも、もう子どもではないんですね……迂闊でした」
エクリプスは思案気に顔を伏せる。
「あ、あの……エクリプス?」
なんとなく不安で、オルテンシアは体を起こす。
「私などに好意を持っても虚しいだけですよ。所詮は剣です。……私は貴女に、何もしてあげられない……ただ、戦わせるだけです」
エクリプスは、どこか寂しそうな顔で言う。
(そんな顔されたら……)
オルテンシアは胸が苦しくなった。正直、エクリプスが好きなのかどうかは分からない。今まで生きてきて、恋愛なんて考えたことはなかった。けれど、力になりたいと思う気持ちは、以前より強くなった気がする。先日思い詰めた顔で抱き締めてきたときも、今の寂しそうな顔も、なんとかしてあげられないかとずっと考えていた。マスターだからとか、そういうのではなく、一個人としてそう思っている自覚はあった。そういう気持ちを、世間では何と言うのだろうか……。
「……私は、あなたの力になりたいだけだから……多分、成長過程で異性を意識するみたいなのがあるだけだと思う。だから、あんまり気にしないで」
(そう。きっと風邪みたいなものだ)
恋だなんて、そんな面倒な感情な筈がない……そうでないと……困る。ーーエクリプスが。
「それなら……いいのですが…」
エクリプスはまだ解せないようだったが、
「引き止めてごめんね。おやすみ!」
そう言ってオルテンシアは毛布を被った。エクリプスは少しして軽く溜息をついて、離れていった。エクリプスが行ってしまうと、オルテンシアはなぜだかひどく泣きたい気持ちになった。
(あれ?……私、結構本気でエクリプスのこと、好きなのかな……?)
好きだと思ってみると、どうしようもなく不安で、息苦しかった。
「誰だよ……恋愛は素晴らしいなんて言ったヤツ…」
オルテンシアはその夜、なかなか寝付けなかった。