第二章 魔族との邂逅(2)
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それから一月程過ぎて、季節は秋。木々の葉が赤や黄に染まり、道を落ち葉が埋め尽くす。乾いた落ち葉を軽やかな足取りで踏みしめながら、オルテンシアは街道を行く。ここ数日は雨が多かったが、今日は雲一つなく晴れ渡っている。そんな様子から、オルテンシアは気分が高まっていた。心配していた魔族からの襲撃もなく、旅路も順調だ。
「…冬になったら、旅は控えましょう。どこかの町に身を寄せて、春を待つのがいいと思います」
ふとエクリプスが言って、オルテンシアも同意する。
「そうだね。凍え死んだら元も子もないし……でも、どこの町にする?」
「そうですね……冬はどこも食料に困るので、小さな村では余所者は歓迎されませんし、大きな町に居ると、魔族の目はあるでしょうし……」
「どっかの廃墟でも借りちゃおうか?暖炉さえ使えれば、何とかなるでしょ?」
「そうですね。いいかもしれません」
少し街道を行くと、町が見えてきた。街道の途中ということもあって、程よく賑わった町だ。
「この町はどう?魔族、いそう?」
「少しお待ち下さい」
エクリプスは立ち止まって目を閉じ、辺りの気配を探る。
「……いえ。どうやらこの町には居ないようです」
「よかった。……そうだ。ギルドに寄って周辺の地図を見せてもらおっか。冬を越すのに良さげな場所があるかもよ!」
「そうですね」
ギルドは大抵の町に存在している、いわゆる旅人向けの案内所だった。それこそちょっとした仕事の斡旋や魔物退治の依頼、冒険仲間の紹介まで、様々な情報が集まる。オルテンシアも町に来る度に利用して、小銭稼ぎをしていた。
この町のギルドは、入口からすぐのところに立っていた。木造の二階建てで、二階部分から賑やかな声と料理の匂いがする。どうやら、食堂を兼ねているようだ。
「えーと……あ、あった!」
ギルドに入ってすぐの壁に、大きくこの辺りの地図と、世界全体の地図が貼ってある。この世界には大きく分けると三つの土地がある。世界中央に楕円の大陸があり、これが世界最大で、オルテンシア達のいる大陸。これには大小の十の国があり、最も北にはもともと国はないが、今は魔王の城がある。そして、中央の大陸の東には縦長の、中央に比べると半分ほどの大きさの大陸があり三つの国が、南には島が七つ連なっており、島一つ一つが独立国として成り立っている。魔王が支配しているのは主に中央の大陸の国々だが、ここ数年は、東や南も徐々に魔王の手に落とされつつあった。ちなみにオルテンシアの故郷は、大陸の中央より少し南にある小国だった。これまでの旅で、大陸のほぼ中央にやって来たことになる。
そして、今いる町の先は山を二つ越えた先に隣国との国境があって、二つの山の麓にも、ちらほら町や村が点在しているらしい。
「北を目指すなら、山を越えて、隣国に渡ったほうがいいのかな?」
「はい。なので、この山のどちらかを拠点にしましょうか。たぶん、山を越えている最中に雪が降り出しそうですから」
「そっか。わかった」
その後ギルドの職員に話を聞いたところ、国境に近い方の山に、廃村になった山里があると情報を貰った。二人は町で必要な物品を買い足し、今日のところはこの町に宿を取って休む事にした。
「ここのベッドはふかふかでいいね!」
オルテンシアは嬉しそうにベッドで転がる。
「それは、よかったですね」
エクリプスは穏やかに微笑んで、買い足した道具の整理をする。
「あ、久し振りにお風呂入りたいなぁ〜」
オルテンシアが転がりながらエクリプスを見つめる。
「お風呂……ですか……」
「いいじゃん!ここには魔族の気配は無いんでしょ?」
「そうですが……やっぱり、公衆浴場ですよね…」
「丸腰になるのが心配なら、近くで待ってればいいじゃない」
こういう時は人型であることが、そして、見た目からして異性なのがエクリプスには悔やまれた。まさか女湯に一緒に入る訳にはいかないし、剣に戻ったとしても、脱衣場に武器は持ち込めない。だからいつも、オルテンシアがお風呂に入るのは、本当に二人しかいない時に湯を沸かして大きな桶でオルテンシアが入っているのを、衝立の向こうでエクリプスが待つというのがいつもの流れだった。
「……宿の者に頼んで湯を貰ってきて、部屋の中で入るのは駄目ですか?」
「……さっき、広そうな公衆浴場見つけちゃったもん。入りたくなっちゃった〜」
しばらく町に寄らずに森の中ばかりだったので疲れが溜まっているのだろう。オルテンシアは聞き分けが悪かった。
「……分かりました。私が公衆浴場の周辺を警戒していますので、ゆっくり入って来て下さい」
「やったぁー!エクリプス、大好きっ!!」
オルテンシアはギュッとエクリプスに抱きついた。
「はいはい」
エクリプスは苦笑いしながら、ポンポンとオルテンシアの頭を軽く撫でる。
こうしてオルテンシアは嬉々として公衆浴場に出かけていき、エクリプスは辺りを散策しているフリをして、怪しい動きがないか警戒していた。
「今のところ、異常はなさそうですね…」
ある程度見たところで、エクリプスは近くの木陰に座り、木に背を預けて目を閉じる。実はこうしていたほうが、より気配を敏感に感じ取ることが出来るのだった。しかしーー
「あら、貴方、エクリプスではなくって?」
突然頭上から声が掛かり、エクリプスは慌てて目を開ける。目の前には、黒いドレスを着た貴婦人が立っていた。艶のある黒髪を頭上でまとめ上げた、赤い口紅と、口元のホクロが印象的な美人だ。
(誰だ?……全く気配を感じなかった…)
驚きでエクリプスが言葉を失っているなか、貴婦人は口許に手を添えて、可笑しそうに笑う。
「気配を感じ取れなくて驚いたのね。ごめんなさい。驚かせて……私、気配を消すのは得意なのよ。ラミアと名乗れば、鈍感な貴方でもお分かりになるかしら?」
「ら、ラミア!?」
エクリプスが立ち上がり、サッと距離を取る。
「ああ、そんなに警戒しなくて大丈夫よ。別にどうこうしようとは思ってないから。大体、貴方と魔族では戦いに決着がつかないものね。私はただ、ヒューゴが倒されたと聞いて、恐らく貴方が動いていると思ったから、ちょっと話がしたくて会いに来たのよ」
「……」
「ふふ。そうは言われても、いきなりでは信用ならないわよね。……でも安心してちょうだい。私は、貴方を破壊しようとも思わないし、魔王様に知らせようとも思っていないから…」
「それは、一体……」
ラミアはスッと消えたかと思うと、エクリプスの背後に周り、抱きついた。驚くエクリプスの耳元で、「私……貴方のことが気に入っているのよ」と囁いた。
「本当の貴方は、魔王様にも引けを取らない魔力の持ち主よ。そうでなければ、いくら魔王様の指が元になっているからって、ここまで意思を持って行動出来るはずかない。そんな貴方が、人間ごときにこき使われているなんて、もの凄く勿体ないわ」
「それでも私は、魔王を倒すと決めているので」
エクリプスは表情を変えずに言ってのける。けれど、ラミアは笑顔を絶やさない。再びエクリプスの前に回り込んでは、エクリプスの左胸に手を添えた。
「いいんじゃない?それなら、私と一緒に魔王様を倒して、貴方が新しい魔王になったらいい。私が言いたいのはね。貴方を生き物にしてあげようって話」
「!」
それまで無表情だったエクリプスの顔に、僅かに動揺の色が浮かぶ。
「今は魔王様を倒すことが目的かもしれない。でも、倒した後は?ずっと意思のある剣として人間に仕えるの?……私には、貴方が、人間にしろ魔族にしろ、何某かの生き物として存在していたいと思っているように見えたのだけど?」
「……たとえそうだとしても、あなたにそれを頼むことはありません」
エクリプスは、絞り出すような声で答える。
「あら?どうして?私以外にはこんなこと出来ないと思うけど?」
「私は人間の味方でありたいのです。魔族の…ましてや魔王の直属の麾下である、あなたとは手を組めません」
「ふぅん?…味方で"ありたい"ね……本当にそう思っているのかしら?人間は時に、私たち魔族より傲慢で卑怯な一面があるわ。貴方はそんな人間達に振り回されているから、百二十年経っても、魔王様を倒せていないんじゃなくって?しかも今の持ち主は子どもだっていうじゃない?もはや、ベビーシッターじゃないの」
痛い所を突かれたというように、エクリプスは押し黙る。それを見て、ラミアの笑みは一層深くなる。
「ほら御覧なさい。図星でしょ?……貴方は充分頑張ったわ。そろそろ、肩の荷を下ろしても良いんじゃないかしら?生き物のように見て聞いて考えることが出来るのに、何も感じないんじゃ、面白くないでしょ?私が楽しいこと、たくさん教えてあげるわよ…」
ラミアはエクリプスに顔を近づけると、軽く唇を合わせる。エクリプスは眉一つ動かさなかったが、ラミアは満足そうに微笑んだ。
「こういうことされて、どういう気分になるものだか、興味あるでしょ?」
「……」
もはや返答すら拒む様子のエクリプスに、ラミアは短く息を吐いた。
「子守が飽きたらいつでもいらっしゃい。私は交渉役の性であれこれ嘘をつくことがあるけれど、貴方に言っていることは本音だから。じゃあね」
パチッとウインクして、煙のように姿を消す。エクリプスは、しばらくそのまま立ち竦んでいた。
「あっ!エクリプス〜!そんな所で何してるの?」
そこへオルテンシアが駆けてくるが、ぼーっと立ったままだった。
「エクリプス?お~い!!」
「……!ま、マスター…」
「もう!ぼーっとしてどうしたの?何かあった?」
「あ、いえ……特には……」
「ふうん?」
その答えにオルテンシアは納得出来ていない様子だったが、とりあえず聞くのは諦め、「帰ろう!」と宿へ促した。
宿に戻ってからも、エクリプスはどこか浮かない顔をしていた。壁を背に床に座っては、下を見ている。
「ねぇ、どこか調子悪いの?」
オルテンシアが心配そうにエクリプスの顔を覗き込む。形の良い眉を顰め、紫の瞳を細める。色白の頬は、風呂上がりのため薄っすら桃色に染まっている。出会った頃より、だいぶ健康的になったと、エクリプスはぼんやりと思った。
ーー生き物のように見て聞いて考えることが出来るのに、何も感じないんじゃ、面白くないでしょ?ー
ふとエクリプスの脳裏に、ラミアの言葉が浮かぶ。
「ーーマスター」
「ん?どうしたの?……っ!?」
エクリプスは唐突にオルテンシアを引き寄せ、抱きしめた。オルテンシアの首筋に、顔を埋める。
「い、いきなりどうしたの?」
「……すみません。少しだけ、このままで…」
「……うん」
始めこそ驚いていたオルテンシアも、何か思うところがあったのか、そのままエクリプスの背中に手を回して抱き返した。
(何も感じないなんてことはない……だって、こんなにも、温かい……)
ラミアに触れられた時はなんとも思わなかったが、オルテンシアを抱きしめていると、その体温の温かさや、心の底から愛しさと、この方を守るのだという強い気持ちが湧き上がる。
(今はこの方と魔王を倒す……それだけでいい…)
エクリプスは、心の中にずっと燻っていた、モヤのようなものが少し、晴れた気がした。
「……無理にとは言わないけどさ」と、不意にオルテンシアが言う。
「何か悩んでるなら話してほしい。私、子どもだけどさ、恩知らずなつもりはないし、軽い気持ちで魔王を倒そうなんて言った訳じゃないから……そこは信用して」
エクリプスは抱擁を解くと、オルテンシアに笑顔を向ける。
「ご心配をお掛けして、申し訳ありませんでした。もう、大丈夫です」
「本当?」
「はい。……実は、マスターが入浴している間に、ラミアが現れたのです」
「えっ!?」
「ラミアは私に、役目を捨てて、自分と一緒に行かないかと提案してきました。そうすれば剣ではなく、生き物にしてあげると言われたのです。何故かは分かりませんが、私のことを気に入ったのだそうです。魔王を裏切ってもいいとまで言っていました。本当かどうか分かりませんが……」
「……断った…んだよね?」
「はい。もちろん」
「じゃあ、なんでさっきまで思い詰めたような顔をしていたの?」
「私が生き物ではないから、何も感じられないと言われて、その通りかもしれないと虚しくなったからです……でも、そうではありませんでした。マスターを抱きしめた時、確かに温かさと、心からあなたを慕う気持ちが湧いてきましたから」
「し、慕うって!……よくそんな恥ずかしい言葉を平気で言えるよね…」
「おや?恥ずかしいでしょうか?あなたを主として慕っているのは本当です」
「う、うん……まあ、いっか……」
(主として慕っているのに、抱きしめたりする?さっきのはまるで……)
愛する家族にするような抱擁だったと思ったところで、オルテンシアは赤くなって俯いた。
(私を自分の子どもみたいに思ってるのかな?それとも……パートナー……とか?い、いやいや!それはないか。私まだ子どもだし、そんな感情、剣のエクリプスが持つわけないよね!うん!そうだ。きっと拾って育てたから、愛着湧いたくらいのもんだよね?)
「どうしました?マスター。顔が真っ赤ですよ」
エクリプスはオルテンシアの頬に手を添えた。
「ひゃっ!!」
オルテンシアは思わず変な声を出して飛び退いた。エクリプスは驚いて目を丸くする。
「どうしました?ひょっとして、どこか痛むのですか?」
「い、いや、大丈夫。なんともないからっ!」
「とても大丈夫には見えませんが…?」
「ほんと、大丈夫だからっ!!今はそっとしておいて」
「はぁ……分かりました」
(もう、私ったら……!)
昨日までなんともなかったのに、急にエクリプスが異性である事を意識してしまった。恐らくエクリプスにはそんな気はないのだろうが、先程の抱擁の意味を考えずにはいられない。
(よりによって、人間じゃないエクリプスを意識しちゃうなんて、最悪だ……世間知らずにも程がある)
これからはもう、迂闊に抱きついたり出来ないなと思うオルテンシアだった。