前日譚その5
翌日。“ライバル”のラトゥナ・ラピエの存在を思い出したのは、ラトゥナが目を覚ましてからだった。「暁の淑女」でライバルキャラクターを努めるラピエ伯爵婦人、ラトゥナ・ラピエ。ヴァイオレットの侍女をしていたが、ラピエ伯爵に見初められ結婚し、伯爵夫人となる。伯爵夫人となってからはスカーレットを毛嫌いするラピエ伯爵に唆されスカーレットを度々虐めるキャラクターで、最後は革命に巻き込まれ反乱軍の手によって殺されるというヴァイオレットに比べて扱いが雑なキャラクターだった。
しかしラトゥナはラピエ伯爵に唆されただけで、スカーレットのことを何も知らない。選択肢によってはスカーレットを誤解していたことを知り、謝罪、和解のシーンまである。
(でもゲームではラトゥナが死なないルートって、一つしかないんだよな)
和解した直後、川に落とされたラトゥナのシーンで号泣したことがあるオフィーリアには、些か辛い事実だ。しかし「暁の淑女」はサスペンス乙女ゲーム、キャラクターの死亡くらいよくあることである。しかしそもそもラトゥナはラピエ伯爵に嫁がなければ死ぬ可能性は少ないと思い当たった。求婚の話を聞こうかとも思ったが、昨日の今日だ。聞き辛かった。
「ラトゥナ、背中は?」
「まだ痛いけど、昨日ほどじゃない。ちゃんと働くから大丈夫よ」
なんでもない風に振る舞っているが、その顔は昨日よりもいくらか暗い。声もかけられずにいると、ラトゥナは朝会のためさっさと部屋を出ていった。オフィーリアもそれを追いかける。
朝会の行われる別館の庭は雪が積もり、冷え込んでいる。冬用の厚い生地とはいえお仕着せでは些か寒かった。息をするたび、冷気が肺に流れ込む。朝会のために置かれた簡素なお立ち台の上に五人の侍女が立っている。そのうち一人はダーラだ。残りの四人は誰だろうと、ジェゼールを探す。オフィーリアのすぐ近くにいたので、ラトゥナから離れジェゼールの側にさり気なく近寄った。
「おはようございます」
「おはよう、新人さん。よく眠れた?」
「一応……あの、あそこに立ってるダーラさん以外の四人は誰ですか?」
「ああ、あの人達? 右から南館、西館、ダーラさんを飛ばして本館、東館の侍女頭だよ」
名前は、とジェゼールはオフィーリアに数えながら名前を教える。オフィーリアはそれを聞きつつ、意識はダーラたちにあった。本館上の鐘をある下男が鳴らすと、その場の空気が引き締まる雰囲気があった。栗毛色の髪の西館の侍女頭が、一歩前に出る。
「おはようございます。本日の連絡事項ですが、西館にオリーブお嬢様のお客様がいらっしゃいますので、午後は西館以外の侍女は西館立入禁止です」
西館にいくことは恐らくないだろうが、誤って行ってしまってはどんな折檻が待っているかわからない。きちんと話を聞こうとオフィーリアは気を引き締める。次に黒髪の南館の侍女頭が鋭い声を飛ばす。
「それから昨日、シーシェル様のお食事に毒が混入しており、毒見役が倒れました。心当たりのある人間は私に」
その場が俄にざわつく。南館の侍女たちは鎮痛な面持ちで俯いていた。よっぽど酷い症状でも出たのだろうか。オフィーリアはジェゼールを見る。ヴァイオレットの食事を毒見役が食べていた様子は見受けられなく、疑問に思った。ジェゼールはそんなオフィーリアの視線に気が付き、小声で話しかけてきた。
「ヴァイオレット様の毒見役は、ゴンザレス様なの。ゴンザレス様は魔力を使って解毒できるから」
その答えにオフィーリアは頷く。魔法、魔力はそんな便利な使い方があったのか。南館の毒見役は魔力を持っていなかったのだろうと、心のなかで憐れんだ。次にダーラよりも年上であろう白髪の本館の侍女がもごもごと何かを話していた。歯が抜けているのか聞き取れずにいると、ジェゼールが小声で内容を教えてくれる。
「旦那様の持病が悪化したみたいで、今は本館立入禁止って。」
「旦那様って……トワイライト公ですか?」
ゲームではシルエットのみ、一枚絵では寝台に横たわっている姿しか見ていないが、病気という設定があったトワイライト公。彼はゲーム中に果たして死ぬのだったかと考えるが、ヴァイオレット処刑エンドで殺されていたことしか覚えていない。
「もう、旦那様も長くはないでしょうね」
ジェゼールはそう言ってはいるが、表情は興味なさげだった。正直、オフィーリアもゲームに関係がないためにあまり興味は持てなかった。東館の侍女頭は何も言わず、最後にダーラが前に出る。
「それと、20日後、クラウン・ノーザン第二王子殿下の訪問が決定しました」
ダーラの口から出たその名前に、オフィーリアの脳裏に青い瞳の好青年の姿が浮かぶ。ダーラが口にしたクラウン・ノーザンとは、ヴァイオレットの婚約者で、攻略対象の一人。ヴァイオレットにベタ惚れで腑抜けていたが、スカーレットと出会い真実の愛に目覚め立派な王になるというやや都合のいいキャラクター設定だったはずだ。そこは乙女ゲーム、御愛嬌である。
「さて、何か連絡事項はありますか?」
ダーラはそう言いながら侍女たちの顔を見回す。オフィーリアはラトゥナに近づき、耳打ちした。
「ラトゥナ、言うべきよ。鞭で叩かれるなんておかしいわ」
「いいの、オフィーリア。いいから」
「でも……!」
頑なに言及しようとしないラトゥナにオフィーリアは戸惑い、ダーラとラトゥナの顔を交互に見る。ラトゥナは俯いたままでいた。オフィーリアの様子にダーラはお立ち台から降りて、こちらまでやってくる。
「オフィーリア、何か言いたいことでも?」
ダーラの視線にオフィーリアは口を開こうとすると、ラトゥナがそれを阻止した。
「なんでもないです、申し訳ありません」
「そうですか?」
「はい、大丈夫ですから」
オフィーリアが口に当てられたラトゥナの手を外そうとしている間に朝会は終わってしまった。侍女たちが持ち場につこうと歩き出す中、オフィーリアはラトゥナに思わず叫ぶ。
「なんで言わないの!? おかしいわ、こんなの!」
「私だっておかしいって思うけど、相手はお嬢様の側近で、私は新人の侍女。たとえゴンザレス様の折檻が白日のもとに晒されたって、きっと私にも影響があるわ」
ラトゥナが絞り出すように言う。オフィーリアはその言葉に躊躇ってしまった。
「解雇されでもしたら、露頭に迷っちゃう。お願い、オフィーリア。やめて」
ラトゥナははっきりと拒絶を口にし走っていってしまった。その様子を見ていたジェゼールは、動けないでいたオフィーリアの肩を叩く。
「新人さん、仕事に取り掛かろう」
オフィーリアはその言葉に返事ができないでいた。
ヴァイオレットが昼食を食べ終わり、食堂を出ていく。オフィーリアが食器をトレイに乗せていると、ヴァイオレットがオフィーリアの前で足を止めた。
「そこの貴方。確か、オフィーリアと言いましたわよね」
ヴァイオレットの鈴のような声がオフィーリアの名前を呼ぶ。オフィーリアは呼ばれているのが理解できずに、一瞬固まってからジェゼールに促されて振り向いた。
「なんの、御用でしょうか」
「あなたの淹れた紅茶、とても美味しかったわ。今日、オリーブお姉様とそのご友人の方とお茶会をするのだけれど、そこで出す紅茶を貴方に淹れてもらいたいの」
ヴァイオレットが自分の紅茶を褒めている。オフィーリアは興奮でニヤけそうな頬を必死に抑え、「承知いたしました!」と頭を下げた。ヴァイオレットはその反応を見届けてから踵を返すが、食堂を出る前に足を止め、もう一度オフィーリアへ振り向いた。
「そうそう、お客様はアッサムティーがお好きなの。アッサムティーを淹れて頂戴」
「承知いたしました」
命令を噛みしめるように返事をし、ヴァイオレットが出るのを確認し食器の乗ったトレイを持って厨房へと走る。明らかに機嫌の良いオフィーリアに苦笑しつつ、ジェゼールはオフィーリアから食器を取り上げ、紅茶をいれるよう指示した。オフィーリアは食器棚から湯沸かし器を取り出して、そこでふと動きを止める。
(これって、もしかして。チャンスじゃない?)
昨夜。眠りに付くための空白の時間で、オフィーリアはラトゥナが鞭で叩かれた理由を考えていた。そして思い当たったのが、「ゴンザレスはヴァイオレットの品格を貶められるのを極端に嫌がっている」かもしれないということだ。ラトゥナから聞いた話ではゴンザレスは「お嬢様の地位が崩れたらどうする」とラトゥナに語ったのだという。そしてこの状況、オフィーリアがアッサムティーではない紅茶を出せば、ゴンザレスはヴァイオレットの品格が貶められたと感じ、オフィーリアを鞭で折檻しにくるのではないか。そうなればオフィーリアは被害者として堂々とゴンザレスを糾弾できるし、たとえそれで解雇になったとしてオフィーリアはそれはそれで破滅の未来から遠ざかることができる。解雇にならずとも、ヴァイオレットから良い意味か悪い意味かは抜きに覚えてもらえるというメリットがある。どう転ぼうとも、オフィーリアに悪く働く可能性というのは低い。ヴァイオレットが噂に違わぬ悪女のようで、ゴンザレスを庇うならば別だが、それだとしてもオフィーリアはトワイライト家の処刑という未来から逃れられる。一度そう考えてしまうと、オフィーリアはもうチャンスを逃す気になれなかった。アッサムティーの茶葉の詰まった缶を押しのけ、その奥のウバの茶葉に手を伸ばし、オフィーリアは悪事を働く決意を固めた。